信州上田の・・・六文銭の写真帳
1月18日・・・厳冬の小諸散策・・・小諸城址懐古園あたりにやってきました。懐古園のそば・・・小諸義塾記念館(明治・大正・昭和の時代を生きた文豪島崎藤村が教鞭をとった学校)の脇に立つ「惜別の歌」の歌碑。
島崎藤村が小諸義塾に奉職する2年前の1897年発表した詩集「若菜集」に収められている「高楼(たかどの)」、その53年後の1944年に藤江英輔という青年が曲をつけたのが・・・「惜別の歌」・・・
※撮影日は1月18日。
島崎藤村は「若菜集」を発表する前年の1896年2度にわたって恩師木村熊二のいる小諸市を尋ね逍遥し小諸城址あたりの段丘の上を高楼に見立て詩想を得たといいます。「若菜集」を代表する「初恋」にならぶ青年のみずみずしい心を表現した素晴らしい詩であると思います。原詩は全8連、仮名書きで書かれています。
その詩が・・・なぜ・・・50数年たって「惜別の歌」になったのか・・・ネット情報をググってみました・・・以下は2010年中央大学創立125周年記念講演で語られた作曲者藤江英輔氏のお話しからダイジェスト。
藤江英輔・・・太平洋戦争の敗戦が濃厚になった1944年、中央大学予科学生19歳、東京都板橋の東京陸軍造兵廠に学徒勤労動員、兵器を造る工員に。工場には中央大学の学生はもとより大学生、女子大学生、旧制中学生など多くの学生が従事していました。兵役年齢になった学生には工廠に召集令状が届きます。そんなある日、東京女高師(現お茶の水大)の女子学生から一篇の詩を渡されます・・・島崎藤村の「高楼」・・・この詩に曲をつけてほしいと。夜勤明けの昭和19年12月家路に帰る雪道で曲想が湧いたいいます。工場で旋盤を動かしながら口ずさんでいるうちに自然にみんなが口ずさむようになっていき、そして召集令状がきた戦場に赴く学友の送別の歌になっていきました。
やがて1945年8月15日「敗戦の詔勅」をラジオで聞いたとき涙したそうです。「生き残った僕らのために流す涙ではなくて、死んでしまった人たちの魂はいったいどこに帰ったらいいのか、もう帰る場所はないじゃないか」そういう悲しみの涙でした。
大学に復学して1950年卒業、新潮社に入社。1951年中央大学より「惜別の歌」を中央大学学生歌にという話しがきて、歌のタイトル「惜別の歌」、「悲しむなかれわか姉よ」を「わが友よ」に変えていた問題がありましたが、勤めていた新潮社で「島崎藤村全集」を編集していてその責任者に藤村の三男島崎蓊助氏がいて了解をとることができました。
「あの戦争」の終結の半年前、陸軍造兵廠の工場内で、勤労動員の大学生、女子大生、中学生、徴用工のオジサンやオネエサンの中でも歌われ、終戦後に全国に広まっていったそうです。昭和30年代のはじめ・・・「うたごえ喫茶」の全盛期に爆発的にヒット、日活映画のスター小林旭がレコーディングして大ヒット。昭和年代を代表する歌謡曲になりました。
素晴らしい詩・・・素晴らしいメロディー・・・戦場に行く前に「惜別の歌」で送られた青年も歌って送った青年たちも先の読めない苛酷なつらい時代であったと思います。
※藤江英輔氏の記念講演サイト⇓クリック
【創立125周年を迎えて】特別講演(中央大学・学生有志の会主催)
中央大学学生歌『惜別の歌』の作曲者 藤江英輔氏(昭和25年法卒)が語る、その生い立ち
長い歳月、年齢差があっても変わらぬ人との『出会いと別れ』を曲に託す
※藤江英輔氏・・・1950年中央大学法学部卒、新潮社に入社、退社後会社経営、2015年没、享年90歳。
※コメント欄開いています。
「惜別の歌」小林旭の曲として
全国的に大ヒット、ただ気軽な気持ちで口ずさみ歌っていました。
深い深い、同友との惜別、死んだ人の帰るところの無き・・・・、そんな思いを切々と歌い上げた歌だったのだと、
初めて知りました。
藤江英輔氏の記念講演サイト⇓クリック
をじっくり読ませてもらいました。
涙なくしては語れない物語、同じ場所を繰り返し読み返しました。
有難うございました。
高楼は、いかなる場所か、どこかの旅館の一角かと思っていましたが、
小諸城址の小高い丘周辺を高楼に見立てて藤村が詠まれたのですね。
城址を奥へ進むと、千曲川が一望でき…、なるほどと思わせる展望台があったと記憶しています。
小高い丘から、千曲川を眺め佇んでいたら、古老の吹く、草笛が聞こえてきたことを思い出しました。
・ 佇めば惜別の歌草笛の
染み入る様に千曲川に消え
、
教えて頂きありがとうございます。
ツイートさせていただきました。
板橋の陸軍工廠で働いていた学徒動員生の作曲とは知りませんでした。
1銭5厘の赤紙の来た学生を送る歌、番茶の乾杯で送ったそうです。
詩もメロディーもイイですね。好きな歌です。
昭和30年代、歌声運動盛んな時代に歌われたものです。
学生が兵器工場で働いた時代。私の兄も旧姓中学生で軍需工場に動員されていました。
3月10日東京大空襲の日、中央線大垂水峠のトンネルの中で列車の中にいたそうです。
女子大学生から作曲を託されて作った曲、1銭5厘の赤紙で召集される学生へ、番茶の乾杯とこの歌で送られた送別会。暗い時代でした。
戦争のない時がいつまでも続きますように。