比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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あの戦争で・・・満蒙開拓団引揚・・・15人の乙女の悲劇を伝える・・・「乙女の碑」・・・永遠に語り継ぎたい

2018-11-25 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
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11月20日朝日新聞朝刊第二社会面の記事から・・・

満蒙開拓団引揚の悲劇『乙女の碑』に碑文」・・・「性接待」伝える4000字・・・

内容を文章にするのはあまりにも辛い。
スキャンした記事のコピーを読んでいただきたい。
ネットでググって見た。岐阜新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信配信のデジタル記事が見られた。Y紙、S紙のネット記事はワカリませんでした。

2009年8月11日のブログ「あの戦争から遠く離れて・・・終わりなき旅は・・・このブログの中でこのことについて書いた本を紹介しました。下記の本です。

林 郁大河流れゆく」 (1988年朝日新聞社刊、1993年ちくま文庫)
ソ中国境・大河黒竜江(アムール河)の近く、ソ連進攻により避難も叶わず置き去りにされた婦女子、集団自決、現地民の報復、深い傷跡を残し、その後に続く過酷な現実を必死に生き抜いた姿を丹念に歩いて聞き書きして資料を読んでルポ。満州国吉林省陶頼昭のA開拓団幹部によるソ連軍対策用の婦女提供の話し、帰国した人たちは「乙女の碑」を建てたそうです。二重。三重の凌辱・・・と著者は叫んでいます。※3章昭和の慰安婦・・・86~114頁。

著者林 郁(1937年長野県生まれ)にはほかに「満州・その幻の国ゆえに」(筑摩書房 1986年刊)、「あなたは誰ですか 中国帰還者の日本」(筑摩書房 1993年刊)という著書があります。


A満蒙開拓団・・・岐阜県加茂郡黒川村(現白川町)から旧満州国吉林省陶頼昭鎮に満蒙開拓団黒川分村として入植、ハルピンに近い肥沃の地、入植した土地は開拓ではなく強制買上収用の地だったようです。団員600人余、死者200人余、残留孤児3人、ほかの開拓団に比べ犠牲者は少なかったといわれます。そのことは何か・・・
15人の「乙女」・・・いまは90歳代・・・1981年何の説明もない「乙女の碑」が建立され、引揚げ後の黒川分村の記念文集には美辞麗句が並べられていたそうです。37年経った今、何があったか伝える碑文がようやく「乙女の碑」の傍らに建てられました。
岐阜新聞のネット記事では・・・11月18日の除幕式で黒川分村遺族会の代表が「若き女性たちの奪われた青春と、引き揚げ後の誹謗・中傷された長い年月に、遺族会として誠に罪深い思いをさせたと深くお詫びする」と碑に頭を下げたと伝えています。

第二次世界大戦とは何、日中戦争って何、満州国って何、満蒙開拓団って何、8月15日って何の日。
少しだけでもイイから知ってほしい。


前事不忘 後事之師」・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする。


※コメント欄オープン。


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2 コメント

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新聞で・・・・・ (こきおばさん)
2018-11-26 07:46:21
私もこの記事を新聞で見た時、「ああやっと・・・・・」と思いました。
私たち一族も戦後、吉林にいた時、当時14歳の従姉と22歳の叔母を守るために、ソ連兵が家に来た時、二人に赤ちゃんをおんぶさせて、皆の後ろに座るように父が言い、私たち子どもが一番前でソ連兵と対峙しました。
が、その二人のソ連兵は将校らしく、何も要求しないばかりか、日本語を覚えたいらしく、その辺にあるものを「これは何という?」と聞いて居たようで、私たちが日本語で答えると、盛んにメモしていました。それで助かりましたが、あちこちのお宅では、時計や万年筆や宝石を取られたようでした。中にはやはり女性が連れて行かれたお宅もあったようです。
戦争は、人間を人間ではないものにしてしまいます。
戦争の実態を若者たちに知ってほしい!と思います。
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この問題を知ったのは10年前 (こきおばさんへ・・・)
2018-11-26 13:15:19
林郁著「大河流れゆく」です。女性の林さんですから書けたルポでした。
いろいろの問題がありますがもう70年以上たっています。
歴史に残しておくべき、風化させてはいけない事件です。
ツィートに載せていただいてありがとうございます。
旧満州でおきた状況、語り継いでください。

コメントありがとうございました。
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