深大寺城跡
深大寺城跡は、武蔵野段丘面の南縁辺部の標高約50mの舌状台地の一角にあり、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の北側には古刹・深大寺があり、東側には湿地帯が広がり(都立神代植物公園の水生植物園)、南側は国分寺崖線の段丘崖がある。

平成31年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
深大寺城跡は、第一期の築城者は不明だが、戦国時代、関東管領上杉氏と覇権を目指す小田原北条氏との対立が、大永4年(1524)以降急速に高まり、北条氏綱によって、重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、江戸城奪還の拠点として、家臣の難波田弾正に命じて、天文6年(1537)多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城に対抗する拠点として、古要害を再興したものとされている。しかし、北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の川越城を攻め落とした。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義がなくなり、そのまま廃城となったと考えられる。
第一郭跡





第二郭跡





土塁跡



深大寺城跡は、都立神代植物公園の水生植物園内にあります。
都立神代植物公園 水生植物園



深大寺城跡は、武蔵野段丘面の南縁辺部の標高約50mの舌状台地の一角にあり、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の北側には古刹・深大寺があり、東側には湿地帯が広がり(都立神代植物公園の水生植物園)、南側は国分寺崖線の段丘崖がある。

平成31年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
深大寺城跡は、第一期の築城者は不明だが、戦国時代、関東管領上杉氏と覇権を目指す小田原北条氏との対立が、大永4年(1524)以降急速に高まり、北条氏綱によって、重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、江戸城奪還の拠点として、家臣の難波田弾正に命じて、天文6年(1537)多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城に対抗する拠点として、古要害を再興したものとされている。しかし、北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の川越城を攻め落とした。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義がなくなり、そのまま廃城となったと考えられる。
第一郭跡





第二郭跡





土塁跡



深大寺城跡は、都立神代植物公園の水生植物園内にあります。
都立神代植物公園 水生植物園


