武蔵境散歩道

武蔵境とその周辺を散歩徒然

杵築大社

2017-03-15 05:00:00 | 歴史
 神社名  杵築大社

 御祭神  大国主大神(だいこくさま)
         事代主大神(えびすさま)



明治39年「今昔マップ on the web」







由緒
 
 この神社は、杵築大社といい、今から三百六十年程前、徳川三代将軍家光の従兄弟で、家康の次男、松平秀康の三男、松平出羽守直政が、当所十二町四方を御用屋敷と定め、鷹狩りをして遊ばれたと伝えられております。
 出雲の殿様、松平出羽守直政公は大変信仰厚く、当屋敷内に徳川幕府の繁栄と天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷様を御創建されました。
承応年間、徳川四代将軍家綱は、玉川上水を築き新田開発を行ったので、当所、松平家屋敷奉行境本絺馬太夫は長百姓となり、境新田の開拓につとめ、子孫、境本仲右ェ門は、境村の名主として村人とともに活躍した。
貞享年中、当大社は御上地となり、境村の氏神社として大社さまと呼ばれ、崇敬されるようになった。
戦後、神社信仰衰微に対する啓蒙的願望と地元商店会の発展を念願して、商売繫盛の神、出雲の美保神社よりえびす様を勧請し、大黒様と共に「恵比寿・大黒」二福神を祀る大社として、地元住民はもとより近隣市町村の人々から広く、崇敬をあつめている神社です。
境内社に、八坂神社・稲荷神社・冨士浅間神社・金毘羅様そして弁天様があり、特に三大祭は盛大に行われます。

説明看板より転記



富士信仰の富士山

 この富士山は、明治十四年五月境本村をはじめ近隣二十二町村の九嘉講の協力により作られ、富士講の講中が富士登山や七富士参りをする際、先達や講員がこの御山に道中の安全を祈願しました。
清瀬の富士山神社に次いで三多摩では最大のもので、境本村を中心とした富士信仰の規模の大きさをあらわしています。
九嘉講は、富士信仰の一つで、今から約二百年前赤坂伝馬町の近江屋嘉右エ門がおこし、本市では旧西窪以西の二百人前後の講員を擁し、嘉を講じるしとする講社です。

説明看板より転記



杵築大社の千本イチョウ

 このイチョウは雌木で、主幹五本、支幹四十数本よりなり、主幹の樹高は約二十五メートル、目通り幹囲二・五七メートルから一・二九メートル、枝張り一七メートル四方、根元周囲約四・二メートルで樹勢すこぶる旺盛です。
 現状からみて、昔、相当樹令のイチョウがあり、何らかの原因(落雷等)により地上部は枯死(約百五十年以上前)し、その根際より生じた支幹が成長して現在の主幹となったものと推定されます。多くの天然記念物は単幹老樹ですが、このような株立のイチョウはあまり類例をみません。

説明看板より転記




杵築大社の御朱印
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西神社遺蹟

2017-03-01 05:00:00 | 歴史


明治39年「今昔マップ on the web」

明治39年「今昔マップ 」を見ていると、現在の境5丁目都営アパート付近に鳥居のマークがあります。昔はここに神社があったのですね。
そこで、現地を詳しく調べて見ると、やはり「西神社遺蹟」と書かれた石碑がありました。
都営アパートの敷地内にあり、どうりで気づき難いわけです。









西神社ハ境村旧新田鎮護神トシテ存在セシ所 明治39年8月勅令ニ因リ
大正2年3月30日鎮守杵築神社ニ合祀シ遺蹟之保存ス 大正10年4月吉日 建之
武蔵野村境 旧新田 中
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