梶野分水築樋
築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。
梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1725)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町5丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。
梶野分水は、明治三年(1870)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれていました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。
説明看板より転記
明治39年「今昔マップ on the web」
築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。
梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1725)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町5丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。
梶野分水は、明治三年(1870)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれていました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。
説明看板より転記
明治39年「今昔マップ on the web」