石神井川源流
石神井川上流端
小金井公園の北側に石神井川上流端があります。現在、ここが石神井川の最上流端です。この先は暗渠となり小金井カントリー俱楽部に繋がっています。
かつての石神井川源流部はどこにあったのでしょうか?
石神井川源流部
明治39年の今昔マップを見ると、石神井川源流部が描かれています。陰影起伏図からみても、小平市鈴木町付近が石神井川源流部であると思われます。
明治39年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
平成31年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
石神井川源流部付近 武蔵野団地
小金井カントリー俱楽部付近
経理排水
鈴木遺跡(小平市立鈴木小学校)
石神井川の水源部の谷頭部を取り巻くように分布する遺跡で、都内有数の規模をもっています。
昭和49年(1974)、小平市鈴木町の窪地に鈴木小学校を建設中に発見され、約3万年前から1万5千年前の旧石器時代後期の遺跡である。
石神井川源流
武蔵野台地上には、標高50mのラインと70mのラインに集中して、中小河川の源流が刻まれいる。このうち50mのラインはかつて豊富な湧水を誇り、今でも井の頭池や善福寺池などの池が残っている。
一方、70mのラインは、谷は刻まれているものの、その水量は昔も今も少ないが、この谷頭部は、1万5千年前当時、豊かな水が湧き出していたと思われる。その痕跡が鈴木遺跡である。
しかしながら、縄文時代以降は、十分な湧水が得られなくなり、人々が定住することがなくなった。この状態は江戸時代まで続いた。
江戸時代に入ると、武蔵野台地の新田開発が行われることになり、玉川上水から鈴木新田田用水が引かれ、石神井川源頭部から現小金井カントリー俱楽部の低湿地を水田として利用した。
用水は、石神井川の谷の手前で源頭を囲むように南北に分かれて流れ、谷底の鈴木田んぼを潤した。用水の流末は石神井川に合流していた。
この用水の開通により、石神井川はある程度水量が増えたと思われる。
明治後期に入ると、鈴木新田田用水の廃止により、水の供給が絶たれ、石神井川の水量は減ったと思われる。
昭和12年(1937)小金井カントリー俱楽部が開設され、敷地内の石神井川の一部は暗渠になった。
昭和17年(1942)陸軍経理学校が開設され、敷地から石神井川源流を結ぶ「経理排水」と呼ばれる排水路が作られた。この水路は小金井カントリー俱楽部内で石神井川に接続されていた。
これにより、石神井川に新たな水源が生まれたこととなり、戦後には「経理排水」は流域の排水路となった。
1960年代には、石神井川源頭部の窪地は、武蔵野団地として整備され、石神井川源流部は跡形もなく埋め立てられた。「経理排水」は1970年代に暗渠化された。
一方で、下水道整備の遅れにより、石神井川に流れ込む生活排水の量は増えていった。しかしながら、2000年代初頭には下水道の整備が進んで、下水が流れ込むことはなくなったことにより、石神井川の上流部は、普段は水の流れない川となった。
また、「経理排水」は雨水管となったが、大雨の際は処理能力が間に合わず、2000年代半ばに小金井カントリー俱楽部内のかつての石神井川流路の直下に雨水管「石神井幹線」が増設された。この雨水管は雨水の貯留地の役割を兼ねており、管内にたまった雨水は月数回、ポンプで汲み上げられ石神井川上流端から石神井川に放流されている。
参考文献: 武蔵野台地の用水と小河川にみる水利用
―石神井川と鈴木用水、鈴木田用水を例に―/本田創
昭和22年(1947年) 「国土地理院」
昭和36年(1961年) 「国土地理院」
昭和49年(1974年) 「国土地理院」
平成21年(2009年) 「国土地理院」
国土地理院
石神井川上流端
小金井公園の北側に石神井川上流端があります。現在、ここが石神井川の最上流端です。この先は暗渠となり小金井カントリー俱楽部に繋がっています。
かつての石神井川源流部はどこにあったのでしょうか?
石神井川源流部
明治39年の今昔マップを見ると、石神井川源流部が描かれています。陰影起伏図からみても、小平市鈴木町付近が石神井川源流部であると思われます。
明治39年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
平成31年 陰影起伏図 「今昔マップ on the web」
石神井川源流部付近 武蔵野団地
小金井カントリー俱楽部付近
経理排水
鈴木遺跡(小平市立鈴木小学校)
石神井川の水源部の谷頭部を取り巻くように分布する遺跡で、都内有数の規模をもっています。
昭和49年(1974)、小平市鈴木町の窪地に鈴木小学校を建設中に発見され、約3万年前から1万5千年前の旧石器時代後期の遺跡である。
石神井川源流
武蔵野台地上には、標高50mのラインと70mのラインに集中して、中小河川の源流が刻まれいる。このうち50mのラインはかつて豊富な湧水を誇り、今でも井の頭池や善福寺池などの池が残っている。
一方、70mのラインは、谷は刻まれているものの、その水量は昔も今も少ないが、この谷頭部は、1万5千年前当時、豊かな水が湧き出していたと思われる。その痕跡が鈴木遺跡である。
しかしながら、縄文時代以降は、十分な湧水が得られなくなり、人々が定住することがなくなった。この状態は江戸時代まで続いた。
江戸時代に入ると、武蔵野台地の新田開発が行われることになり、玉川上水から鈴木新田田用水が引かれ、石神井川源頭部から現小金井カントリー俱楽部の低湿地を水田として利用した。
用水は、石神井川の谷の手前で源頭を囲むように南北に分かれて流れ、谷底の鈴木田んぼを潤した。用水の流末は石神井川に合流していた。
この用水の開通により、石神井川はある程度水量が増えたと思われる。
明治後期に入ると、鈴木新田田用水の廃止により、水の供給が絶たれ、石神井川の水量は減ったと思われる。
昭和12年(1937)小金井カントリー俱楽部が開設され、敷地内の石神井川の一部は暗渠になった。
昭和17年(1942)陸軍経理学校が開設され、敷地から石神井川源流を結ぶ「経理排水」と呼ばれる排水路が作られた。この水路は小金井カントリー俱楽部内で石神井川に接続されていた。
これにより、石神井川に新たな水源が生まれたこととなり、戦後には「経理排水」は流域の排水路となった。
1960年代には、石神井川源頭部の窪地は、武蔵野団地として整備され、石神井川源流部は跡形もなく埋め立てられた。「経理排水」は1970年代に暗渠化された。
一方で、下水道整備の遅れにより、石神井川に流れ込む生活排水の量は増えていった。しかしながら、2000年代初頭には下水道の整備が進んで、下水が流れ込むことはなくなったことにより、石神井川の上流部は、普段は水の流れない川となった。
また、「経理排水」は雨水管となったが、大雨の際は処理能力が間に合わず、2000年代半ばに小金井カントリー俱楽部内のかつての石神井川流路の直下に雨水管「石神井幹線」が増設された。この雨水管は雨水の貯留地の役割を兼ねており、管内にたまった雨水は月数回、ポンプで汲み上げられ石神井川上流端から石神井川に放流されている。
参考文献: 武蔵野台地の用水と小河川にみる水利用
―石神井川と鈴木用水、鈴木田用水を例に―/本田創
昭和22年(1947年) 「国土地理院」
昭和36年(1961年) 「国土地理院」
昭和49年(1974年) 「国土地理院」
平成21年(2009年) 「国土地理院」
国土地理院
https://commons.wikimedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
にアップすることは可能でしょうか?
英語のWikipediaページに入れた幸いです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Shakujii_River
すみませんがご検討ください。
宜しくお願い致します。