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(歴史メモ) イギリスにとっての革命を振り返ってみる。

2016年06月06日 | 歴史メモ
 日本で江戸幕府が成立したのが1603年、この年にイングランドではエリザベス1世が崩御した。後継はスコットランド人のジェームズ1世。チューダー朝からスチュアート朝に移る。ジェームズ1世は、エリザベス女王が処刑したスコットランド女王メアリの息子だった。スコットランド王としてはジェームズ6世、イングランド王としてはジェームズ1世、2つの国は同じ国王が治める連合国となる。王権神授説の信奉者だった王はプロテスタントの清教徒(ピューリタン)を締め上げたことから、その一部はメイフラワー号に乗って新大陸アメリカに渡る。1625年、息子のチャールズ1世が王位を継ぐ。父以上に王権神授説の信奉者は議会と対立してゆく。1628年、貴族たちは「増税には議会の同意が必要」「不当な逮捕、投獄、刑罰の禁止、人身の自由」などを定めた権利の請願を突きつける。400年前のマグナ・カルタを思い出させる。王といえども主と定めた法には従わねばならない。チャールズ1世はいったん同意するが、翌年には破棄する。

 1642年、国王は軍隊を率いて衆議院に乱入し、反対派の5人の議員を逮捕しようとする。王党派と議会派が分裂し、内戦状態に突入。議会派のリーダーは原理主義的な清教徒(ピューリタン)のオリバー・クロムウエルだったので、清教徒革命と呼ばれる。1649年、国王チャールズ1世はクロムウエルによって処刑される。クロムウエルは護国卿(ロードプロテクター)に就任。大統領のようなもの。王侯貴族のような派手な生活をする。クロムウエルは休むことなく、アイルランドとスコットランドを征服、住民の大虐殺も行っている。カトリック教徒を殺しまくっている。後にクロムウエルの遺体は墓から出され、死後裁判により死刑の判決、斬首のち晒首にされた。1660年、王政復古。イギリス人がなかったことにしたい時代が終わった。

 イギリス人が単に「革命」という場合、清教徒革命(1641年~49年)ではなく、名誉革命(1688年)であり、これにより「権利の章典」が発布されている。無血に等しいということで無血革命ともいわれている。「権利の章典」正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」、1688年、名誉革命によりイングランド王ジェームズ2世が追放、廃位され、代わってオランダ共和国より迎えられたウィリアム3世とメアリー2世が即位、国王の理解により「権利の宣言」をもとに成文化したもの、法典は現在も有効であり、イギリスでは不文憲法の根本法となっている。一方で、クロムウエルが当時の王を処刑した清教徒革命は英国人にとって忘れたくても忘れられない過去だが、可能な限り忘れる努力をしている。名誉革命は当時のオランダ人によるイングランド王室乗っ取り事件だったともいえる。通説とされる1066年のノルマン・コンクエスト以来一度もブリテン島は外国の侵入を許していないというのは大ウソともいえる。これは日本の太平洋戦争敗戦当時に例えるなら、日本がアメリカに占領されたどころの話ではなく、当時のトルーマンが米国大統領在職のまま日本の天皇になったようなものだが、オランダ人によるイングランド王室乗っ取りと同じというには、トルーマンの嫁が皇族であり、トルーマン自身も日本の皇室の血を引いているという前提条件が必要となるのだが、いずれにしても、日本人の感覚でいえば、当時のイングランドは名誉革命で亡国という感じになる。

 ただ、当時のイギリス王室は親戚のオランダ王室に乗っ取られたにしても国は併合されていない。共同統治者にはメアリ女王がいて、イングランド議会も健在だった。そして、「議会の中の国王」の原則が確立し、国王は議会の決定に拒否権は行使できない。戦争に関しては議会の同意が必要だ。オランダから迎えた国王ウイリアム3世は本家オランダの利益のために勝手なこともできない。メアリが崩御してウイリアムの単独統治になっても、国王と議会の関係は保たれ、憲法上の慣例も積み重ねられていった。

 当時、国王ウイリアム3世はオランダ人ということもあって、関心はブリテン島よりもヨーロッパ旧大陸に集中していた。名誉革命が勃発した1688年に始まったファルツ継承戦争では、神聖ローマ帝国・スペイン・スウエーデン・オランダその他のドイツ諸侯と組んで、フランスのルイ14世に対して対仏大同盟を結んで参戦している。この頃のルイ14世は年中行事のように外征をしており、彼が起こした一連の戦争は「ルイ14世侵略戦争」と呼ばれている。一方、当時の新大陸アメリカにおける戦いは「ウイリアム戦争」と呼ばれる。18世紀の「第二次英仏百年戦争」ともいわれる戦いは、このファルツ継承戦争に始まる。その戦争は王様がカネで雇った傭兵にやらせる戦争であり、外交手段としての戦争だった。土地やカネなどの利益をめぐって争うだけで、相手の全存在まで潰す宗教戦争ではなかった。だが、それ以前にあったヨーロッパの宗教戦争いわゆる三十年戦争は1648年のウエストファリア条約で終わったが、ヨーロッパの国々は、この宗教戦争には懲り懲りしていた。

 ファルツ継承戦争は、神聖ローマ帝国の選挙権を持つファルツ選帝侯の地位をルイ14世が得ようとしたことから起こる。ルイ14世はオランダに狙いをつけ、侵略を続けた。ヨーロッパ各国はフランスを危険な国と考え、対仏大同盟を結んだ。ルイ14世は次の狙いをスペインに定める。フランスは当時、東の神聖ローマ帝国(領域は今日のドイツ、オーストリア、チェコ共和国、スイスとリヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクそしてスロベニアに加えて、フランス東部、北イタリアそしてポーランド西部)と西のスペインに挟まれていた。いずれもハプスブルグ家の王室であり、「双頭の鷲」といわれる。つまり、ヨーロッパの戦争は、フランスのブルボン家と東西のハプスブルグ家の抗争を軸に行われていた。スペインのハプスブルグ家が絶えたのにつけ込んで、フランスのブルボン家がスペインを乗っ取ろうとする。当時のフランスはヨーロッパ第一の陸軍強国、スペインは第2位とされていた。その2国が一つになるのは他の国にとっては脅威となる。こうして1701年にスペイン継承戦争が勃発する。

 神聖ローマ帝国、オランダ、イングランド、ポルトガルやプロイセンが一緒になり、フランス・スペイン連合軍に対して対仏大同盟を結成して戦いを挑む。ポルトガルは老大国であり、スペインの隣国だ。プロイセンは国として初めて国際政治に参戦する。スペイン継承戦争は1701年から13年まで行われた。同じ時期、東欧では大北方戦争が行われていた。最初はイングランドやオランダも艦隊を派遣してスウエーデンに肩入れしていたが、自分のところに火が付くとそれどころでなくなる。この二つの戦争はヨーロッパの地図を塗り替え、イングランドの運命も変わる。イングランドでは、王位継承法を制定し、国教会の信徒のみがスチュアート家の王位を継承できるという法律だ。1702年、ウイリアム3世の崩御に伴い、アン女王が即位し、正式にイングランド、スコットランド、アイルランドという3つの国の女王を一人で兼ねることとなった。(3つの国の君主を兼ねる王はアンで最後) アメリカ新大陸での戦争は「アン女王の戦争」と呼ばれるようになる。

 スペイン継承戦争とアン女王戦争は一進一退で、各国には厭戦気分も出てきて、1713年にユトレヒト条約で和議が結ばれる。フランスのブルボン家のフェリペ5世がスペイン国王になることを承認される。スペインをフランスにくれてやったようなもの。イギリスはジブラルタルを得た。ポルトガルは一人負けだった。公国だったプロイセンは1701年に王国に格上げされていた。1707年にイギリスが誕生。大北方戦争でスウエーデンに勝利したモスクワ帝国のピョートル大帝は、国名をロシア帝国に改める。アン女王は1714年に崩御、ルイ14世もその翌年に崩御。アン女王の崩御でスチュアート朝は断絶する。後継はドイツのハノーバー公国から親戚のゲオルグ1世を迎え、イギリス王としてはジョージ1世となる。現在に続いているハノーバー朝の開祖になる。この王朝の名前は、後の世界大戦でドイツと戦争になり、このドイツ風の名称からウインザー朝に改めている。

 以下は余談だが、島国のイギリスが七つの海を支配したといわれるルーツに迫ってみると、エリザベス1世の時代、イギリスがスペインの無敵艦隊を破ったことは驚天動地の大事件だった。エリザベスは通例イギリス女王といわれるが、厳密に言えばイングランド王国の女王に過ぎず、正式にはスコットランドは併合していない。また地理的にもヨーロッパ大陸から離れた島国であり、人口はウェールズを含めて300万の小国だった。当時フランスは1500万、スペインは800万で大陸の覇を競っていた。特にスペインはすでに「太陽の沈まぬ国」と言われ、旧大陸・新大陸に広大な領土を持つ帝国だった。エリザベス1世時代のイギリスは、ヴァロア朝フランスとハプスブルク家スペイン・オーストリアに挟まれた「二流国」、しかし、その王権は他国にくらべて国内では強大であり、農村の羊毛産業を基礎とした毛織物工業が国民的産業として発達し、マニュファクチュアと国内の統一市場の形成、貨幣地代の普及という経済の新たな仕組みも生まれていた。王権のもとでの統一国家の枠組みとして国教会制度を確立し、重商主義政策によって産業を保護統制し、海外への市場開拓を図った。1603年の女王の死後、ステュアート朝に移行すると、国王たちの宗教政策・経済政策は反動的になり、イギリス革命へと動いてゆくことになる。

 当初、エリザベス女王はドレークなどのスペイン相手の海賊を黙認していた。1577年、ドレークは女王に謁見すると「スペイン本国を攻撃することはできませんが、植民地を襲ってスペイン王フェリペ2世を苦しめることはできます。」と述べ、それに応えて女王は「襲撃に 失敗しても、イングランドは政治的な立場から貴方を見捨てるほかありません。」ドレークの艦隊はその年の11月にプリマスを出航して、翌年にマゼラン海峡を通過するとチリやペルー沿岸のスペイン植民地を略奪してまわり、遂にスペイン王の財宝を満載した宝船カカフエゴ号を捕獲した。グアテマラの港グアタルコを5日間に渡って荒しまくり、メキシコの海賊討伐隊を簡単にかわすと太平洋を横断して1580年に帰港。スペインから海賊ドレークを処罰するよう迫られていたエリザベス女王は、ドレークの乗艦ゴールデン・ハインド号に乗り込み、同行のフランス使節に剣を渡すと、ひざまずいたドレークの肩にその剣を当てさせ「立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」と呼びかけ、ナイトの称号を与える。ゴールデン・ハインド号によって女王には30万ポンドが手に入る。この額はイングランドの国庫歳入よりも多かった。1581年にはプリマスの市長になったドレークだが、スペインとの国交悪化で再びスペイン領を攻撃。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃して、翌年の「アルマダ海戦」ではイングランド艦隊の実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を壊滅させている。


1 コメント

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興味深い歴史ですね。 (K.K)
2016-06-07 09:18:41
名誉革命は当時のオランダ人によるイングランド王室乗っ取り事件だった。通説とされる1066年のノルマン・コンクエスト以来一度もブリテン島は外国の侵入を許していないというのは大ウソ。これは日本の太平洋戦争敗戦当時に例えるなら、日本がアメリカに占領されたどころの話ではなく、当時のトルーマンが米国大統領在職のまま日本の天皇になった感じ、日本人の感覚でいえば、当時のイングランドは名誉革命で亡国という感じか。ただ、当時のイギリス王室は親戚のオランダ王室に乗っ取られたにしても国は併合されていない、そうだったのか。
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