murota 雑記ブログ

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(歴史の散歩) 三国志時代前後を振り返る。

2016年05月22日 | 歴史メモ
 後漢は2世紀以後、幼い皇帝が続いた。大人の場合でも覇気のない皇帝が多い。前漢の末期と同じで、外戚や宦官が権力を握っていた。後漢の場合は宦官が力をもって宮廷を牛耳った。それは官僚にとっては面白くないこと。官僚はみんな儒学を修めているので、学問のない宦官が政治に関わることは理念的に許されない。宦官におもねって出世しようとする官僚もいたが、彼等の専権に抵抗して後漢の政治をまっとうな姿にしようとする理想家肌の官僚たちもかなりいた。こういう官僚のことを「清流(せいりゅう)」といった。清流官僚たちは宦官を批判し、世論もかれらの味方をする。こうなると、宦官としてはすててはおけない。清流官僚に対する大弾圧をおこなった。これが「党錮(とうこ)の禁」(166~169)、清流官僚たちのグループを政界から永久追放、殺された者もいた。

 清流官僚というのは、後漢の国家運営に対して責任感をもったまじめな連中で、彼等を潰すことで後漢の宮廷は官僚たちの支持を集められなくなる。後漢の政府は豪族の連合政権のようなもの。官僚というのは中央政界では官僚だが、出身地に帰ればみな豪族だ。彼等は二つの顔をもっている。儒学を教養として身につけてまじめに皇帝のために働いていれば国家は安泰だったが、「党錮(とうこ)の禁」で彼等は後漢の政府を見限ってしまう。官僚としての顔を投げ捨てた豪族たちがどういう態度をとったか、豪族としての私利私欲の追求に走った。または、世捨て人みたいになって精神世界の追求に入ってしまう。このタイプの人を「逸民(いつみん)」といった。この逸民的な生き方がけっこうブームになる。

 地方で豪族が私利私欲に走るとどうなるか。どんどん土地を独占していく。後漢の政府はもう地方の水利工事をやらないので、自作農は経営が不安定になり、ちょっとした天候の不順ですぐに没落する。やがては豪族に土地を奪われ、小作になったり、奴隷になる。生きていければまだましで、多くの農民たちが生活の基盤を失って流民となった。ぎりぎりの状態で生活している農民たちには頼れるものが欲しかった。この時代、宗教が大流行、宗教結社の活動が活発化する。宗教結社は二つ。太平道(たいへいどう)、五斗米道(ごとべいどう)。これらはのちに道家の思想と結びついて道教という宗教の源流になっていく。五斗米道の活動、信者になるには五斗の米を教団に納める。信者になれば祈祷やお札で病気を治してもらえるだけではない。この宗教結社は「義舎」という施設をつくる。これは無料宿泊所。信者が流民になっていくところがなくなったらここに泊まり食事もできる。五斗の米を出せないような貧しい民衆でも利用できる。その場合は労働奉仕をすればよい。橋をなおしたり、道路の補修をしたり堤防を修築したりする。本来、政府や農村の共同体がするべき仕事だが、政府は腐敗しており、共同体は豪族の私利私欲で崩壊している。それを五斗米道の教団組織が担う。最終的には現在の陜西省から四川省にかけて独立国のようなものにまで発展する。

 太平道も、五斗米道のような具体的な活動は不明だが似たような活動をしていた。中国の東部を中心に数十万の信者ができた。政府の無策と豪族の横暴がつづく限り、困窮した農民がどんどん信者になっていく。太平道の指導者は張角という。彼は、農民信者の支持で自信をもつ。後漢を滅ぼし、新しい国を建設しようとする。信者を軍隊組織にして大農民反乱を起こす。これが黄巾の乱(184)だ。黄巾の乱にとって敵は誰か。それは後漢王朝と農民を苦しめる豪族だ。後漢政府は頼りにならないから、豪族たちはそれぞれに私兵を組織して黄巾の乱と戦う。群雄割拠の状態になる。この時に兵を挙げるのが三国志の話で有名な曹操や、孫堅、劉備、その他の英雄たち。三国志の物語では、彼等が英雄で、黄巾の乱は農民を苦しめる悪い連中ということになっているが、農民の視点から見れば曹操たちは農民を苦しめるあこぎな豪族で、やむにやまれず立ち上がった農民反乱をさらにぶっ潰そうというとんでもない奴ということになる。豪族たちの奮戦で黄巾の乱は鎮圧されるが後漢政府は事実上無力化する。政府はこのとき活躍した豪族たちに官職をあたえて名目的には生きながらえていく。

 後漢が名実ともに消えるのは220年、後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に入る。一時的な統一の期間はあるが、350年ほど分裂が続く。その最初が三国時代。魏、呉、蜀、という三つの国に分裂する。まず魏(220~265)、都は洛陽、これが後漢に取って代わった。中国北部を支配、三国の中で最大最強、建国者は曹操、曹丕(そうひ)。事実上は曹操がつくった国だが、彼は皇帝にならずに、息子の曹丕の代になって後漢最後の皇帝から位を奪って魏の初代皇帝になる。形式的には建国者は曹丕。曹操はもちろん豪族。祖父が宦官で財産を作った。宦官でも養子をとって家を残すことがある。黄巾の乱の鎮圧で頭角をあらわし、その他大勢の豪族を傘下におさめた。三国志物語に出てくる彼の部下、武将や参謀、みんな豪族、それぞれ手勢を率いて曹操の配下に加わる。曹操が強かった理由はいろいろある。例えば、後漢末の群雄割拠の時代に呂布(りょふ)というスーパーマンみたいに強い豪傑、なぜ強いか、匈奴兵を率いていた。彼自身も現在の内モンゴル出身で遊牧民族の血を引いていたかもしれない。遊牧民は騎射に優れて勇猛、その呂布が死んだ後、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収した。青州兵という黄巾軍の残党まで自軍に編成している。三国時代で曹操は一番魅力的な人物、魅力の根本は従来の儒学の道徳から解き放されているところにある。曹操は法家だともいわれる。党錮の禁以来「逸民」的な生き方がブームになったが、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)、この逸脱ということの中身には儒学的な道徳からの逸脱ということも含まれる。そういう意味では法家的な曹操も逸民と同じ根っこをもっていた。その行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまとう。政治、軍事だけでなく文学の才能にもあふれた人物だった。

 曹操だけでなく息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才があって、「建安の文学」といって中国文学史上、黄金期のひとつ、彼等はみなその「建安の文学」を代表する詩人でもある。人生なんていうのは朝露のように短くはかないものだが、振り返ればいろいろな出来事が思い出されて、ゴツゴツと胸に引っかかる。そんなときにはうまい酒を飲んで歌おうではないかと。周の建国の功臣、周公旦(しゅうこうたん)は仕官したい者や政治について意見をもつ人がやってくれば、食事中でも口の中のモノを吐き出してまですぐに面会、みんなが心服した。周公旦に自分を重ねている。山が高いように、海が深いように、周公旦がそうであるように、曹操もそのようにあるとの気概が伝わってくる。魏の制度では屯田制と九品中正法。屯田制は後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させるための土地制度、九品中正法は漢の郷挙里選にかわる官吏登用制度、地方に中正官という役人をおいて、これが地方の人物を九等級に分けて中央に推薦する。中央政府はこれにもとづいて役人を採用していく。後漢末、中国北部を統一した曹操は南方に攻め込む。これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍だ。長江中流域で決戦になるが水軍になれない曹操軍は大敗する。これが有名な赤壁の戦い(208)だった。この敗北で曹操は統一をあきらめ、中国の分裂が決定的になる。

 孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222~280)。首都は建業、現在の南京。この国も南方土着豪族の勢力を結集してつくられた。劉備が現在の四川省を中心に建てたのが蜀(221~263)。首都は成都。有名な『三国志演義』という物語の主人公だ。関羽、張飛などの豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍し、諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主になる。物語も現実もこういう筋書きは同じ。彼等の歴史上の実像よりも物語での活躍の方が有名になり、虚像が一人歩きしている。中国でも古くから講談や演劇の題材になり今でもテレビドラマや映画になっている。劉備の武将の関羽は人気があって、神様としてまつられている。関帝廟というのがそれで、蓄財の神様になり、横浜の中華街にもある。軍師の諸葛亮は物語の中では、ものすごい知謀の持ち主で作戦や政策はピタリと的をついて劉備を一国の君主に押し上げていく。劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になるが、曹操や孫権のように一国一城の主として自分の地盤をつくれない。あちこちの地方の太守の居候(いそうろう)、客将ぐらしをしている。そんな時に諸葛亮という知謀の士がいると聞く。諸葛亮は田舎にこもって誰にも仕えていない。劉備は諸葛亮の隠遁場所に訪ねる。諸葛亮は留守。劉備はあきらめきれないので、もう一度自ら出向いていくが、またもや留守。普通ならあきらめるのだが自分の参謀に迎えたいのでもう一回訪ねていく。三回目。諸葛亮はお昼寝の最中、劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないといって、かれが目覚めるまでじっと待つ。自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたというので、劉備に仕えることになった。三回訪ねて隠遁している先生を引っぱり出した。実際にあった話らしい。考えてみると変な話で、劉備は一度も会ったこともない諸葛亮をどうしてそんなに家来にしたかったのか。まだまだ、勢力は小さいとはいえ、劉備はすでに有名人で将来は大きな野望をもっているのに、軽々しく自分から無位無冠の年下の人間を腰を低くして迎える。メンツを重んじる中国的な発想ではそうなる。劉備とは一体何者か。漢の皇帝家の血筋を引いているというが、実は何の身分もない庶民出身だ。田舎では筵(むしろ)売りをやっていた。黄巾の乱でチャンスをモノにしていくが身分は低い。後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのはみな豪族だ。曹操も豪族。孫権も豪族。だが劉備は違う。諸葛亮は大豪族の一員。諸葛家というのは中国全土に知られた大豪族だ。諸葛亮には兄がいるが、兄は呉の孫権に仕えている。大臣にまでなっている。又従兄弟(またいとこ)が曹操に仕えている。魏や呉にとっても諸葛一族は自分の味方にしておきたい大豪族だった。

 劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「ああ、あの諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのか。ならば、劉備も豪族仲間の味方と考えてやろう」と全国の豪族たちが思ってくれる。豪族勢力に認知される。実際、諸葛亮を迎えてからの劉備はトントン拍子で蜀の国を建国する。蜀の地方の豪族たちが、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には諸葛亮の存在が大きかった。これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だ。全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったので中国は分裂していた。後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国に分裂し三国時代となっていた。

 魏に代わるのが晋だ。「しん」と発音する王朝は、これで三つ目になる。以前には秦と新がある。晋が蜀と呉を滅ぼし中国を統一(265)する。しかし、混乱が起こり短期間で晋は滅ぶ。華北には北方、西方の異民族が侵入してきて、部族単位の小さな政権がたくさん生まれる。これが五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(316~439)、五つの異民族によって十六の政権ができた時代である。華北は大混乱の時代になる。やがてその中のひとつ北魏という国が華北を統一する(439)。北魏はやがて東西に分裂(534)して東魏、西魏が成立。さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わる。北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権で、これらを北朝と呼ぶ。異民族の政権ができたのは華北だけで、華南にまでの侵入はない。崩壊した晋の王族の一人が南に逃げて晋を再興する、東晋(317~420)だ。東晋と区別してその前の晋を西晋と呼ぶこともある。そして、東晋を滅ぼしたのが宋になる。このあと、斉、梁、陳という王朝が続く。この宋から陳までの四つの王朝を南朝と呼ぶ。華北の北朝と対峙する形になる。

 北周が北斉を滅ぼして華北を統一した後、581年に北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝である陳を滅ぼして再び中国全体を統一する(589年)。後漢滅亡後、隋の統一までの370年間が大分裂時代。この時代全体の呼び方、魏晋南北朝時代というのがいちばん一般的、また、南方の政権に着目して六朝(りくちょう)時代という言い方もある。三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝があるので六朝。この六つはすべて都が現在の南京にあった。六という数字を伝統的な読み癖で「りく」と読む。王朝の変遷というのは権力の最高位にある皇帝の家柄が代わっていくのを追っているだけの話で、大きな歴史の流れとしては権力が不安定で長い分裂がつづいた時代だ。なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したか、それは豪族の勢力が強かったからだ。豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れない。もうひとつは異民族の流入。前漢、後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族の間に徐々にではあるが、中国文明が浸透していく。匈奴の中にも中国国内に移住して生活するような部族が出てくる。華北の場合は彼等の活動がさらに混乱に輪をかけた。

 西晋(265~316)の建国者は司馬炎だ。この人の祖父が「三国志演義」で有名な司馬懿(しばい)。曹操に信頼されて大将軍をやっていた。ちなみに司馬懿は蜀の諸葛亮が魏の国に侵攻してくるのを防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島の公孫氏の独立政権を滅ぼした。この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者であり、有名な「魏志倭人伝」はこの魏の国の歴史書の一部分だ。歴史に「もし」は禁物といわれるが、もし、諸葛亮が早死にせず司馬懿が蜀との国境戦線に張り付けになったままだったら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれない。司馬懿は魏の国で実力者になっていった。彼の子も、孫の司馬炎も魏の大将軍の地位を続行した。魏は曹操、曹丕までは力があった。それ以後の皇帝がダメで、司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てたのだ。

1 コメント

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歴史の人間模様は面白いですね。 (K.K)
2016-05-22 09:17:04
後漢の政府は豪族の連合政権のようなもの。官僚というのは中央政界では官僚だが、出身地に帰ればみな豪族、彼等は二つの顔をもっている。儒学を教養として身につけてまじめに皇帝のために働いていれば国家は安泰だったが、「党錮(とうこ)の禁」で彼等は後漢の政府を見限ってしまう。官僚としての顔を投げ捨てた豪族たちがどういう態度をとったか、豪族としての私利私欲の追求に走った。または、世捨て人みたいになって精神世界の追求に入ってしまう。このタイプの人を「逸民(いつみん)」といった。この逸民的な生き方がけっこうブームになり、文化が生まれる要因にもなってる、面白い。
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