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(歴史メモ) 日本の鎖国当時に進出してきた外国、驚きの背景

2019年03月12日 | 歴史メモ
 ポーランドはドイツとロシアにはさまれた国、ここは、16世紀後半にヤゲロー朝が断絶してから、貴族の選挙によって王を決めていた。選挙王政といわれる。もともと貴族の力が強かった、王は強大な権力を持つことができなかった。だから、ヨーロッパの潮流になっていた絶対主義による中央集権的国家建設ができなかった。強力な中央政府を持たないポーランドは、隣国による分割で消滅してしまう、これがポーランド分割、ポーランド分割は三回あって、第一回が1772年。ロシア、プロイセン、オーストリアによって領土を奪われる。このときのロシア皇帝がエカチェリーナ2世、プロイセン王がフリードリヒ2世、オーストリア皇帝がマリア=テレジア。この段階では、ポーランドは領土が縮小したが、まだ存続していた。第二回が1793年。ロシア、プロイセンによって、さらに領土が奪われた。第三回が1795年。ロシア、プロイセン、オーストリア三国によって、残されていた領土も完全に分割され、地図上からポーランドが消滅する。この時にロシア軍に対してコシューシコという愛国者が抵抗運動をしている。この人はアメリカ独立戦争に義勇兵として参加していることでも有名で、現在ポーランドでは英雄になっている。

 また、ポルトガルがインド航路にどのように進出していったかをみてみると、ポルトガル人が進出する前から、インド洋には海上交易ネットワークがあった。インド商人、イスラム商人が活躍していたが、特にエジプトのマムルーク朝が海上貿易に積極的で、アジアとヨーロッパを結ぶ中継貿易で利益を得ていた。ポルトガルの進出は、そこに割り込むことになる。ポルトガルは、ライバルとなるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保した。当時、アジアでは、ポルトガル人の持っていた大砲と鉄砲の威力は抜群で、ポルトガルはインド洋沿岸各地を占領して要塞を作った。「インド洋のポルトガル要塞」という地図がある。ずらりとポルトガルの要塞が並ぶ。アフリカ東海岸には、マリンディ、キルワ、モザンビーク。アラビア半島の沖合のソコトラ島、ペルシア湾岸のホルムズ。 インド西海岸には、ディウ、ダマン、バセイン、チャウル、ゴア、アンジェディヴァ、オノール、マンガロール、カナノール、カリカット、コーチン。ところで、ポルトガルは香辛料貿易を独占しようとしていた。香辛料貿易でどれくらい利益を得たのか。1506年のリスボンでの値段だが、香辛料1キンタル(50.8キログラム)あたりの、輸送料を含めての原価と販売価格、コショウが原価6.08クルザード、販売価格22クルザード、利益率262%。クローヴが原価10.58クルザード、販売価格60から65クルザード、利益率467から514%になる。ナツメグ、これは原価7.08クルザード、販売価格300クルザード、利益率4137%、大変に利益を得ている。だから、要塞を各地に作ってインド航路を独占しようとした。独占すれば値段はさらにつり上げられる。ポルトガルがアジア貿易に入りこんでいく。インドの重要な拠点ゴアを占領するのが1510年、翌年の1511年にはマレー半島のマラッカを占領、マラッカは香辛料の原産地モルッカ諸島とインドの中間点、狭いマラッカ海峡を押さえる重要な中継地点、1517年には中国の広州で中国貿易もはじめる。中国の当時の王朝は明。ポルトガルは、明の倭寇退治に協力して、1557年にはマカオに居住権を得ている。ポルトガル人がはじめて日本にやってきたのが1543年、火縄銃を種子島に伝えたのが最初といわれる。その後ポルトガル人は日本の九州各地にやってきて貿易を行っている。日本史では南蛮貿易といわれる。

 このポルトガルのアジア貿易独占は長く続かない。16世紀後半からポルトガル勢力は衰退した。その理由はオランダとイギリスの参入だった。オランダ、イギリスと対抗するために軍事費がかさんで、この負担に耐えられなかったのだ。ポルトガルの当時の人口は150万人。この中でアジア貿易に出かけられる成年男子となるともっと数が少なくなる。国の人口規模に比較してあまりにも広い交易圏を独占しようとしすぎた。ポルトガルがひとり勝ちしていたときでも、その香辛料の取引量は全体の14%しかなかったといわれる。在来のインド商人、ムスリム商人がポルトガルを避けながら、交易を続けていた。この時期に、スマトラ島の西端にアチェー王国、ジャワ島の西にバンテン王国、中部にマタラム王国が発展してくるが、これらは、ポルトガルをさけて開発された航路沿いに発達した国々だ。16世紀から17世紀前半の東南アジア海域は「商業の時代」といわれるくらいに貿易が活発におこなわれていた。中国明朝の経済発展が著しい。中国貿易が活発になるのは当然の成り行きで、ポルトガルも中国貿易をするが、1571年にはスペインもフィリピンにマニラを建設して、アジア貿易に乗りだす。スペインは、ポルトガルとは逆回りのアメリカ大陸経由でアジアにやってきた。堺など日本の商人が積極的に海外に出かけていくのもこの時期だ。イエズス会のフランシスコ=ザビエルがインドで日本人に出会ったのも、そういう例だ。他にもタイのアユタヤ朝で活躍した山田長政などもいた。

 オランダは、1602年に東インド会社を設立した。ポルトガルを追い落としながら、積極的に植民地経営とアジア貿易の独占をめざしていく。東南アジアの各地に商館を建設したが、その中心が、ジャワ島中部に建設されたバタヴィア。現在のインドネシアの首都ジャカルタだ。オランダは、さらに東のモルッカ諸島にも根拠地を建設。このモルッカ諸島が、香辛料の特産地。イギリスも香辛料貿易に参入してきた。しかし、当時はオランダの方が強い。遅れてやってきたイギリス勢力を、東南アジアから追い払おうとして起きたのが、1623年のアンボイナ事件、モルッカ諸島のアンボイナというところにオランダの商館があった。商館というよりは要塞に近いものだが、1623年2月のある日、この要塞の中に、日本人が入り込んで何かを調べていた。この日本人はイギリス人に雇われた傭兵だった。日本では応仁の乱以来、戦国の世が長く続いていたから、戦士として有能で、アジア各地で傭兵として活躍していた。当然、オランダ側は不審に思う。そこで、イギリス商人たちを捕らえて尋問した。実際は拷問を加えたようで、苦痛に耐えかねたイギリス商人たちは、オランダ商館襲撃計画を白状した。その結果、オランダはイギリス商人とその仲間を処刑する。これが、アンボイナ事件だ。処刑されたのはイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人。イギリス人はわずか10人で、本国から遠く離れたアジアで活動していたのは、このくらいだった。この事件で、イギリス勢力はモルッカ諸島から撤退することになる。同じ年に、イギリスは日本にあった平戸商館を閉鎖している。かなりのダメージだったと思われる。結局、オランダによる香料貿易の独占が実現する。翌1624年、オランダは台湾の南部を占領し、現在の台南の近くにゼーランディア城を建設する。ゼーランディアは、中国と日本に対しての貿易拠点としてつくられたもの。ちなみに、当時の台湾は、どこの国の領土でもなかった。このあと、オランダは日本との貿易も着々とのばしてゆく。

 徳川幕府が徐々に鎖国の方針を固めていく時期、ポルトガル、スペインは日本から撤退していくが、オランダだけはうまく幕府に取り入って、ずっと日本と貿易をつづけることができた。たとえば、1637、38年、島原の乱があった。キリシタンの反乱だが、このときオランダはキリスト教国にも関わらず、幕府を援助して海上から原城跡に立てこもった反乱軍に砲撃をくわえている。ポルトガル船が日本への来航を禁止されて、オランダによる日本貿易独占がはじまるのが、島原の乱鎮定後の1639年。オランダは、1641年ポルトガルからマラッカを奪い、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を建設。ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な中継地点。オランダはアジア航路を確保し、アジア内貿易蓄積した富をヨーロッパに送るという体制を作り上げた。

 16世紀から17世紀前半まで、アジアは活気にあふれた「商業の時代」だった。ところが、17世紀後半から長い不況に入る。原因はいくつかあるが、日本の鎖国もその一つだ。もっと大きかったのは中国の政変だった。中国では1644年、明が滅亡し、満州から侵入してきた女真族の清朝が成立。明の復活をはかる勢力が、台湾を根拠地にして清朝に抵抗した。この指導者が鄭成功である。鄭成功たちは中国沿岸地域で軍事活動を展開する。清朝は、これに対抗するため、1655年以降「海禁政策」をとる。海外貿易禁止だ。貿易が鄭成功勢力の資金源になっていたからだ。さらに、1661年には「遷界令(せんかいれい)」という命令を出す。福建省・広東省などの海岸から20キロまでの住民を強制的に内陸部に移住させて、鄭成功たちを孤立させようとした。「遷界令」は二十年近くおこなわれる。中国は巨大市場であり、陶磁器や絹など多くの特産品がある。この中国が国際交易から完全に消えたので不況になって当たり前だ。さらに、同じ時期にヨーロッパでコショウの大暴落がおきて、香料貿易で以前のような利益を生めなくなったことも大きな原因だ。オランダは商業活動から植民地経営へと政策を転換する。商品を運んで稼ぐのでなく、商品を生産しようと考えた。そこで、領有地を拡大し、プランテーションをつくり、コーヒーなどを栽培する。それをヨーロッパに輸出する。商館を中心とした点の支配から、面の支配に変わる。当然、人も支配するようになる。それが植民地経営だ。その結果、ジャワ島ではバンテン王国、マタラム王国といった国々を圧迫していくことになる。

 ヨーロッパは、アフリカ・アメリカ大陸とはどのような貿易をおこなっていったのか。それが、三角貿易とよばれるものだった。アメリカ大陸と西インド諸島ではヨーロッパからの入植者がサトウキビを栽培する。綿花を栽培する。タバコを栽培する。金・銀を採掘する。労働力となったのは、アフリカ大陸から連れてきた奴隷たちだ。生産した商品はヨーロッパに輸出される。ヨーロッパは、工業製品、銃などの武器、綿織物やガラス工芸品などの雑貨をアフリカに輸出する。アフリカでもギニア湾に面した地域が中心になる。アフリカが輸出するのは奴隷。ヨーロッパ商人は雑貨を売って、奴隷を買い、アメリカ大陸に運ぶ。こうして、三角貿易は成り立っている。奴隷貿易で一番活躍したのはイギリス、特に、リバプールの商人が有名だ。イギリスは資本を蓄積して工業化をおこなっていった。アメリカでは三角貿易の結果、農業のモノカルチャー化が進む。モノカルチャーとは、単一種の作物しか栽培しないことだが、その作物が値崩れすると、モノカルチャー経済の国はいっぺんに経済が破綻する。奴隷の供給源になってしまったアフリカは、社会に破壊的な影響が出る。16世紀後半から19世紀初頭までで一千万人以上のアフリカ人が奴隷として連れ去られた。人間がいなくなったら、その社会が発展するはずがない。現在、アフリカは貧困で苦しんでいるが、奴隷貿易によるダメージが続いていると考えていい。ヨーロッパからやって来た奴隷商人たちは、どうやって奴隷を集めたのか。白人たちが奴隷狩りをしたというイメージを持っている人がいるかもしれないが、そういうことはまずなかった。白人商人たちが、アフリカの港に入港すると、現地の奴隷商人たちがすでに奴隷を取りそろえて待っている。アフリカ人の奴隷商人がいて、彼らは奥地に入って違う部族の村を襲ったりして奴隷を狩り集めてくる。ベニン王国のように奴隷貿易で繁栄した国が成立したりする。

 「アフリカ西海岸の風景」という絵がある。これは、アフリカの港にやってきたヨーロッパの奴隷商人が、アフリカの奴隷商人から奴隷を買っているシーンである。左端のところには帆が見える。それが奴隷船だ。沖合にも停泊している。真ん中に白人と、黒人グループが向かい合っている。これは、下に寝かされている奴隷の値段を交渉している。よく見ると、この奴隷の口を無理矢理こじ開けている白人がいる。歯茎を調べて健康状態を見ようとしている。あまり健康じゃなかったら値切ろうというわけだ。左では、買い取られた女性の奴隷が腕に焼きゴテをあてられている。まるで牛と同じに見える。右の向こうの方からは、何人もの女性達が歩かされている。丸太棒に数人づつ首をくくりつけられて、横一列に並んでいる。泣き叫んでいる。奥地からさらわれて、奴隷市が立っているこの港に、今連れてこられたという雰囲気だ。左の奥には、鞭で打たれている奴隷が見える。奴隷船に乗せられているところだ。こうして集められた奴隷たちは、アメリカ大陸や西インド諸島に運ばれるが、この奴隷船が地獄だった。教科書、資料集には、奴隷船の内部構造が載っている。ぎっしり黒く描かれているのが奴隷。一回の航海で、できるだけ多く運べるように、船の内部を低い天井で仕切って奴隷を横に寝かせている。逃亡や反抗をさせないように、全員の足首が鎖でつながっている。男女とも頭は剃られ全裸、腕には会社のブランドマークが焼き付けられている。トイレはない。ただ、ワンフロアに二個か三個のバケツが、オマルがわりに用意してある。バケツの所まで行くには、自分とつながっている何人もの人たちを引きずっていかなければならないので、事実上オマルを使うことはできない。しかたなく横になったまま垂れ流しだ。奴隷にされた人たちは、船に乗せられて出向した段階で恐怖の最高潮だ。トイレさえ人間らしくできなくて、もう生きる望みはなくしている。自殺をはかる者もいた。ただ、死ぬための手段がない。朝晩に食事があたえられるが、それを食べない。食べないと死んでしまう。奴隷商人としては、商品に死なれては困るから、食べようとしない奴隷に無理矢理食べさせる。マウスオープナーという道具があって、これで食べない奴隷の口を強引にこじ開けて、流動食を流し込む。大西洋を横断するのにだいたい40日から70日かかる。船の中は、衛生状態が最悪だから、伝染病、衰弱などで、奴隷たちはどんどん死んでいく。死亡率は8%から25%、かなり幅があるが、だいたい6人に1人の割合で死んでしまう。大西洋の真ん中で奴隷船が他の船とすれ違う。姿が見えなくても奴隷船が近くにいるとすぐにわかったという。理由は悪臭だ。数キロ先まで、悪臭が漂っている。奴隷船が進む後にはいつも、鮫の群れがついて泳いでいた。奴隷が死ぬ。その死体は船からポーンと海に捨てられる。毎日毎日、死体が捨てられる。それをねらって鮫の大群が集まってくる。

 海外貿易で富を蓄えた最初の国はスペインだったが、オランダ独立の頃からスペインは衰える。17世紀前半はオランダが商業覇権をにぎる。中継貿易と加工工業で繁栄し、アムステルダムはヨーロッパ金融の中心となる。イギリスも海外貿易に乗り出すが、オランダにはかなわない。1623年、アンボイナ事件でオランダに負けていた。ところが、ピューリタン革命、名誉革命の頃から、イギリスは急速に力をつけてオランダをしのぐようになる。クロムウェルが制定した航海法はオランダを標的にしたものだ。航海法が原因で1652年から英蘭戦争がはじまる。この戦争で商業覇権が、オランダからイギリスに移る。北アメリカではオランダが建設した植民地ニューネーデルラントが1644年にはイギリス領になる。のちに、ここにあったニューアムステルダムという町が、ニューヨークと名前を変えて発展する事になる。アジアでは、モルッカ諸島からしめだされたイギリス東インド会社は、しかたなしにインドで貿易をはじめるが、これが大当たり。インドの綿織物をイギリスにもっていったら、爆発的な人気を呼ぶ。今では、綿の布なんて珍しくも何ともないが、木綿というのは、軽くて、手触りが柔らかくてあたたかい。しかも白くて清潔感がある。手軽に染めることもでき、好きな模様をプリントできる。これは、それまで一般的だった毛織物にはなかった特色。人気が出る。香料貿易はオランダに取られたが、インド綿布の貿易でイギリス東インド会社は莫大な利潤を得る。やがて、綿織物を自国で安くできないかということで、産業革命が始まる、これは後の話。オランダにかわってイギリスが覇権をにぎるのが17世紀後半だが、このイギリスのライバルとして、登場してくるのがフランス。ルイ14世時代以来、積極的な重商主義政策をとって、各地でイギリス勢力と衝突。これは第二次英仏百年戦争(1689~1815)といわれる。

 ヨーロッパで戦争がおこると、それにあわせて北米大陸でイギリスとフランスが戦う。
 1689~97、ヨーロッパで、ファルツ継承戦争。北米で、ウィリアム王戦争。
 1702~13、ヨーロッパで、スペイン継承戦争。北米で、アン女王戦争。
 1744~48、ヨーロッパで、オーストリア継承戦争。北米で、ジョージ王戦争。
 1755~63、ヨーロッパで、七年戦争。北米で、フレンチ=インディアン戦争。
 これらの戦争を通じて、イギリスはフランスから植民地を奪い、北アメリカ大陸の支配権を確立していく。戦争名は、戦争時のイギリス王の名前。フレンチ=インディアン戦争は違う。フランスはインドにも進出していて、1757年、インドでイギリス、フランスが戦った。プラッシーの戦いという。これもイギリスが勝つ。これ以後イギリスは本格的なインド支配をはじめる。フランスとの百年間の抗争は、イギリスの勝利で終わる。これ以後、イギリスが世界経済の中心となっていく。20世紀になってアメリカ合衆国が台頭するまで、この状態は続く。

 ヨーロッパの商業覇権の移り変わりと、政治体制を確認すると、16世紀、商業覇権はスペインにある。カルロス1世、フェリペ2世の時代。政治的には絶対主義がここからはじまる。経済政策は重商主義。16世紀末。オランダがスペインから独立戦争をはじめる。国内産業の発展がなかったスペインはそのまま没落し、オランダが商業覇権を握る。ポルトガルもスペインと同じ運命をたどる。オランダの独立を助けたイギリスはエリザベス1世以後、政治は絶対主義だったが、17世紀半ば、ピューリタン革命、名誉革命で絶対主義は終わる。かわりに市民階級が権力をにぎる。このあたりから、イギリスは急速に力を伸ばし、オランダを追い抜いて、覇権を握る。フランスは、絶対主義の絶頂期だが、イギリスに対抗して重商主義政策をとる。アメリカやアジアでイギリス、フランスがしのぎを削っている時に、ようやく中央集権的な国家をつくりはじめるのが、ロシアのピョートル1世。18世紀前半の人だった。18世紀後半になって、イギリス、フランスの先進的な部分を取り入れて、国家改造をはかったのが、プロイセン、オーストリアの啓蒙専制君主といわれる人たちで、フリードリヒ2世やヨーゼフ2世だった。プロイセン出身でロシア皇帝となったエカチェリーナ2世も、啓蒙専制君主として政治改革を行う。これらの国々は、イギリスやフランスのように海外に進出できるような地理的な条件がなかった。国内産業が未発達だったので、穀物を西ヨーロッパに輸出することで、貿易を成り立たせようとした。安い穀物を生産するため、農民に対しては抑圧的になる。海外貿易で富を得て、市民階級が発言力を増すイギリス、フランスとは、反対の政治風土が生まれていった。

1 コメント

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ヨーロッパの商業覇権の変遷か。 (T.H)
2019-03-12 09:26:50
ヨーロッパの商業覇権の移り変わりと、政治体制、16世紀、商業覇権はスペインにあった。カルロス1世、フェリペ2世の時代。政治的には絶対主義、経済政策は重商主義。16世紀末。オランダがスペインから独立戦争をはじめ、国内産業の発展がなかったスペインはそのまま没落し、オランダが商業覇権を握る。ポルトガルもスペインと同じ運命をたどる。オランダの独立を助けたイギリスはエリザベス1世以後、政治は絶対主義だったが、17世紀半ば、ピューリタン革命、名誉革命で絶対主義は終わる。かわりに市民階級が権力をにぎる。このあたりから、イギリスは急速に力を伸ばし、オランダを追い抜いて、覇権を握る。こんな変遷があったんですね。面白い。
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