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ヴォルテールの啓蒙的な能力

2019年06月21日 | 通常メモ
 かつて、イザヤ・ベンダサンの著作、『ユダヤ人と日本人』は大ベストセラーになった。この本は、書名も怪しいが、筆名は架空の人物名だが、実は山本七平だった。作家は筆名によって自分すら騙すものだ。ヴォルテールの『歴史哲学』も、歴史哲学とはいえないのに『歴史哲学』という書名になっている。この本は古代民俗誌とも古代風俗誌ともいうべき内容を扱った饒舌な報告だ。ヴォルテールが歴史哲学と銘打ったのも面白い。ヴォルテールが甘えたシレーのシャトレ夫人を念頭において綴ったものだ。そのシャトレ夫人に向けて「私が歴史の真実を語りかけているのだ」という芝居をしてみせた。そんな風に松岡正剛氏が述べていた。

 ヴォルテールという名前は筆名、ヴォルテールは「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの徒名(あだな)をもじった。本名はフランソワ・マリー・アルエ、なかなか優雅な名前。1694年のパリに生まれ、豊かな少年時代をおくった。ルイ14世の最晩期。フランソワが長じるにつれ、フランスは落ちこんでいく時期に入っていた。教科書にある「フランス革命を準備した啓蒙思想を代表する一人」などといえるものではないのかもしれない。フランソワ・アルエはその名にふさわしく、青少年期によく恋愛事件をおこした。両親の知り合いで“サロンの女王”と騒がれたニノン・ド・ランクロ嬢にかわいがられ、書籍購入費として2000フランをもらった。甘ったれており、その裏ではかなり鼻っ柱が強かった。

 ルイ14世が死にオルレアン公の摂政期になって、フランスがしだいに政情不安定になってくる。1716年、フランソワは筆禍事件にまきこまれ、バスチーユに投獄される。その後も、決闘事件でバスチーユに保護される。フランソワは変身を決意する。それがヴォルテールという捩れた筆名の誕生だった。筆禍事件がフランソワをヴォルテールに変えた。バスチーユを出たヴォルテールはいったんイギリスに行って、再起の準備を整える。あのドルリー・レイン劇場でシェイクスピアの芝居をたくさん見た。『哲学書簡』はこのときの随筆である。読むと「哲学」とはいいがたく、中身は英国通信ともいうべきもの、それを「哲学」と名付けたところが面白い。

 書名にヴォルテール流のハッタリがあっても、この本は役に立つ。ロンドンの株式取引所、当時のクェーカー教徒の動向、フランシス・ベーコンの正体、ニュートンの光学をめぐる噂、哲人ジョン・ロックの受け取られ方、アレキサンダー・ポープの社会感覚。ヴォルテールは読者を実感させることにやたらに長けていた。それがヴォルテールの啓蒙的な能力だ。ヴォルテールはプロシアのフリードリッヒ2世に招かれて1750年にベルリンに入り、ポツダム宮殿で帝王と話をする日々を送る。ベルリン・アカデミーの院長モーペルチュイに正体を見破られて、追われるごとくベルリンを去る。ヴォルテールは作書術の中だけで生きていた。更にヴォルテールが手を出したのは、自称“哲学小説”である。ドーミエに挿絵を描かせた『ザディグ』、カンディドが社会の悪に次々に翻弄されるという筋書をもつ『カンディド』、感覚を描写する『自然児』等々。これらはプレヴォーの『マノン・レスコー』に触発されて対抗したというが、やはり小説とはいえない。哲学でもない。
 こうしてヴォルテールが次にあげた看板が「歴史哲学」、この本は歴史哲学書ではない。それなのに、この用語はヴォルテールが初めて使った言葉であり、皮肉なことに、その後の学者たちはヴォルテールのこの用語を用いて歴史哲学という領域を継承してゆく。

 本書は旧約聖書を攻撃し、ユダヤ思想の表現に疑問をもつところから始まる。ヴォルテールがいかにも宗教批判をしているが、ユダヤ教が示した内容は異教徒たちが書く内容とそれほどの大差がないということを指摘する。多くの民族文献と細かく突き合わせて比較したテキスト分析というべきもので、わかりやすくいえば文化人類学的な比較文化研究だ。このあたり、ヴォルテールは近代学問の先駆者ともいえる。ヴォルテールの本書における記述のしかたは面白い。古代エジプト人や古代ギリシア人のことがまるで見てきたように活写され、遠いインド人や中国人ですら通りを横切っている。つまり作書家ヴォルテールが勝手につくった「世界」であり、そのようなヴォルテールの方法は、実はヴォルテールだけではなく、当時の大半の“啓蒙運動家”がやっていたともいえる。

1 コメント

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ヴォルテールの真実か。 (H.K)
2019-06-21 09:55:47
ヴォルテールが読者を実感させることにやたらに長けていた。ヴォルテールはプロシアのフリードリッヒ2世に招かれて1750年にベルリンに入り、ポツダム宮殿で帝王と話をする日々を送る。ベルリン・アカデミーの院長モーペルチュイに正体を見破られて、追われるごとくベルリンを去る。そんなことがあったとはねえ。
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