murota 雑記ブログ

私的なメモ記録のため、一般には非公開のブログ。
通常メモと歴史メモ以外にはパスワードが必要。

世界経済から見える歴史の視点

2018年04月09日 | 通常メモ
 2008年9月15日、米国の証券会社「リーマン・ブラザーズ」が経営破綻し、いわゆる「リーマン・ショック」がウオール街を混乱に落とし入れ、それが全世界の金融市場に広がった。これで米国ドルが国際基軸通貨としての地位から追放されるかと思いきや、実際の現象は、その逆だった。すなわち、「米ドルの入手」に全力をあげて努力しなければ、各国は自国の経済活動を維持できないという厳しい現実に直面した。リーマン・ショック後、「ドル高」が全世界の為替市場で発生したが、唯一の例外は日本の「円高」だった。そのように経済学者の斎藤精一郎氏が述べていた。

 更に詳しくいえば、米ドルを抜きにしては世界の貿易は出来ない。例えば2007年の実績でいえば、世界全体の国際貿易は13兆ドル、これは米国のGDPやEU全体のGDPとほぼ同額、これほどの巨大な経済活動を維持するのに必要な「貿易決済」のセンターはニューヨークにしかない。国際貿易では決済の基準が決まっている。平均「90日決済」である。年間13兆ドルの貿易決済には、その4分の1である3兆5千億ドルの「基軸通貨」が必要不可欠。それは米ドル以外には存在しない。また、米ドルだけが、貿易決済に必要な短期資金を集めることができ、かつ、その金融センターの運営により、13兆ドルの国際貿易全体の決済を安定させ、維持することが可能となっているのが実情だった。

 少なくとも3兆5千億ドルの短期資金を、3ヶ月の決済期限で集めて、運営できる金融センターはニューヨークにしか存在せず、ロンドンもフランクフルトも、ましてや東京、シンガポールといった金融センターは、それだけの短期資金を集めて運営するだけの集金力や資金の吸収力を持ち合わせていなかった。金融危機を通じて、短期資金を世界中から吸収し、貿易決済の原資として運用できる金融センターが地球全体を通じて、ニューヨーク一ヶ所にしか存在しないという事実を世界経済は思い知らされた。

 輸入業者も輸出業者もニューヨーク金融市場の決済業務を信頼して取引を行う。中国のGDPの40%を占めているのが輸出業務であり、その輸出経済の宛て地、すなわち中国商品を輸入してくれる世界最大の消費市場は米国である。リーマン・ショックが発生した時を転機に、中国の米国向け輸出は激減した。米国では、金融危機は必ず大規模な消費の縮小となるからだ。その結果、米国向けの輸出基地であった中国の広東省では大型倒産が連発した。これに伴う失業者数は200万人規模となった。これが当時の金融危機の一つの側面だった。
20世紀の経済の基調は「インフレ」だったが、21世紀は「デフレ」を基調とするものに移行した。本格的なデフレを経験しつつある人類は、150年以上前、19世紀後半に、「産業革命」が地球上の広範な地域に伝播しつつある過程で発生した「長期デフレ」を体験している。すなわち、1873年から1896年までの24年間に大幅な「価格下落」の時代があった。経済史の専門家はこの時期を「大不況」と呼んでいる。全ての工業製品から農産物を含めた食料品にいたるまで、全ての物価が50%以下に下落した時代だった。

 19世紀の初めに発生した「産業革命」が、欧州大陸、更には北米大陸へと伝播し、世界的な規模で「大工業国家」が発生し、当時には新しい人工的原動力、蒸気機関という画期的な原動機が全ての経済活動に影響を与え、地球が一つの「世界市場」となっていった。また、北米大陸と欧州大陸を結ぶ「海底電線」が1866年に開通、この海底電線のネットワークは、ロシア帝国を横断し、極東地域から日本にもつながり、中国を経由してアジア全域に通信の「ネットワーク」を広げた。更には、米国大陸を南北につなぐ陸上の電信線「ネットワーク」も完成した。

 地球上、いたるところで農地の開拓が始まり、北米大陸には世界最大の「穀倉」や「牧場」が出現し、欧州大陸への新しい食料の供給源となった。冷凍技術も導入され、テキサス州で飼育された大量の「肉牛」を処理し、その肉を冷凍状態で欧州大陸の食肉市場まで持ち込むことが可能になった。それまで水力や獣力で動かされてきたものが、蒸気機関、人工的な動力で稼動できるようになったわけである。そして地球全体が統一的なマーケットとなっていった。
 
 1866年というのは、欧州大陸と北米大陸が大西洋の海底に敷設された「海底電線」によって結ばれた重要な年であるが、同時にこの年は初めて電信線を使って「国際資金の移動」が大規模に展開できる条件が整備された年となった。それまで国際的な資金の移動は、金や銀の貴金属を金貨あるいは銀貨に加工し、それぞれの金融センターの間を輸送していた。1851年、英仏海峡の海底に初めて海底電線が敷設されて、ロンドンとパリの間で国際金融市場が構成されることになったが、1866年には北米大陸の中心地ニューヨークと結ばれることにより、世界の金融センターが結合した。従って、1873年の不況は、人類が最初に体験した「世界不況」の年でもあった。この年を原点に本格的な「デフレ」が始まった。

 鉄鋼を例にとれば、20数年で世界全体の生産量が70万トンから280万トン、実に40倍に増大し、鋼材の値段は半額になってしまった。鉄鋼業における技術革新、具体的にいえば、鉄鉱石と石炭から銑鉄を生産する「製銑」は英国において産業革命と同時に「高炉」という形で量産体制ができていたが、その「高炉」で生産した大量の銑鉄を鋼(はがね)に加工する技術が不足していた。坩堝(るつぼ)による製鋼では規模が小さく低能率であった。ここに「平炉法」「転炉法」という近代的な製鋼技術が導入され、鉄鋼業の生産は20数年で40倍という高度成長を実現し、鋼材の値段が半額になった。更には、英国、欧州大陸、北米大陸へと大規模な製鋼所が建設され、大量の鋼材が市場に供給されると激しい「デフレ現象」を生んでいった。大量に鋼材を使用する市場の拡大から、建築業における鉄骨鉄筋コンクリート技法の誕生であった。木造建築では木材の長さに制約された設計しかできなかったものが、安くなった鋼材を大量に使用し、高さの制限もなく、規模においても自由な設計が可能になった。これが世界の大都市を一挙に変貌させる役割を果たしたわけである。この時期に凄まじい勢いで進歩した「技術革新」が更に新しい産業を生み出してゆく。例えば、電力が照明や動力源として新しく登場し、世界で最初の「商業発電所」は1880年ニューヨークに建設された。また、蒸気機関に取って代わる新しい動力源としての内燃機関ではドイツの物理学者ディーゼルが「ディーゼル・エンジン」を開発、実用化した。同時期に「ガソリン・エンジン」が発明され、主流となっていった。農業においては、サトウキビが原料だった製糖業は「砂糖大根」を原料とする新しい技術によって世界全体の砂糖の生産量を600万トンから6400万トンと10倍にした。これは砂糖の値段が四分の一になるという結果になった。つまり、19世紀後半の「デフレ」は決して経済活動に対するブレーキの役割を果たすのではなく、新しい市場を拡大する原動力として世界経済を成長させた。

 化学の分野では、石炭を乾留することにより発生するガスの他に、この乾留を通じて発生する石炭タールを分留し加工する製品が市場に出た。例えば合成染料、医薬品、消毒剤その他である。また、新しい物質の合成も可能になった。この時期に放射線物理学の誕生もあり、レントゲン(X線)は自然には存在しない光源だが、物理学者の手で「新しい光源」として開発され、新商品の開発へと拡大していった。

 冷凍技術の開発によっても新しい産業が誕生した。海岸から遠く離れた大洋で大規模な魚網によるトロール漁法の誕生である。その前提としては「冷凍技術」がある。長い航海で漁獲した大量の魚を腐らせないで港に持ち帰るためには、捕獲したと同時に冷凍しなければならない。また、テキサスの広大な牧場で養われた肉牛を大量に処理し、冷凍して欧州大陸の市場に持ち込めば、欧州の食肉の値段を下げることになった。また、欧州では砂糖は贅沢品であって、王侯貴族がかろうじて口にできる高級食品だったのが、値段が四分の一になったおかげで、一般家庭で朝食の紅茶に使用するように変化したのである。米国のミシシッピ川を挟む東西に広がる「大平原」の開拓で、農産物の生産が拡大し、これを安いコストで大西洋岸の港まで輸送する「大陸横断鉄道」が実現、安い穀物が大量に欧州市場に運ばれた。当然、小麦粉の値下がりと小麦粉の質も向上した。皮と穀粒を完全に分離し、その穀粒だけを精穀する「純白」の小麦粉が欧州市場に供給されるようになった。欧州大陸の市民は初めて安価な白パンを日常、口にすることができるようになった。

 人類の平均寿命は「産業革命」とともに大きく変化した。当時すでに戸籍制度が完備していた英国は最先進国だったが、19世紀初頭の英国の平均寿命は男女とも平均30歳台前半であった。それが20世紀初頭には60歳台前半になった。すなわち倍の長さ、生存することができるようになった。「産業革命」による「デフレ」の効果は、食料品の量と質を改善すると同時に、収入の確保という面でも有利な状況を欧州大陸の人々にもたらした。最大の理由は、北米大陸への「移民」であった。欧州は人口過剰に悩み、農業危機の発生で大量の人口が喪失していた。1840年代のアイルランドのような大量の餓死者も稀ではなかった。「大西洋航路」の発達と同時に、欧州大陸から北米大陸へと大量の移民が移動した。その中には新しい成功のチャンスと夢を求める、意欲のある若い層の移民が大量にいた。その分、欧州では労働力供給の不足を生み、工業生産の向上と共に賃金水準が上昇するという「高賃金社会」が誕生していった。「人権」という概念も生まれ、社会福祉制度の原型が全て導入、具体化されていった。失業保険、労災保険、健康保険、老齢年金といった制度がこの時期に法制化されていった。

 1914年に第一次世界大戦が始まった。これが国家総力戦になっていくとは誰も予想していなかった。西部戦線では大量の武器弾薬の消耗があり、大量の人員の損失が発生し、経済の総力を挙げて取り組まないと、戦線を維持することが出来ない、これが4年にわたって続いた。最終的には、英国海軍の制海権のもとで、国際貿易から遮断されたドイツ、オーストリア、ハンガリーが、経済封鎖のおかげで食料、原材料の供給不足から力尽き、1918年11月に降伏した。国民は戦前の生活とは全く違った窮乏生活に耐えなければならなかった。そして、政治体制に対する転換を求める「革命」が必然的に発生してくることになる。

 最も遅れて参戦した工業大国は米国だった。米国は参戦した当初、武器弾薬は同盟国からの供給に依存せざるを得なかったが、巨大な工業生産力を持っていたので、本格的な量産体制に移行することは可能だった。しかし、その前に第一次世界大戦は終わってしまった。この教訓から、第二次世界大戦では、充分な兵力と武器弾薬を準備することになる。米国は世界一の農業国であり、工業国でもあった。従って、第二次世界大戦において米国は「民主主義の兵器廠」を自称し、自国の軍隊はもちろん、連合国の全ての軍隊に軍需品を供給した。その供給量において、枢軸国のドイツ、日本、イタリアを圧倒した。第二次世界大戦後、今度は冷戦が始まった。1950年の朝鮮動乱の発生により、「冷たい戦争」は、いつ本格的な「熱い戦争」に転換するかわからない厳しい時代に入っていった。朝鮮動乱の次は1960年代初めにベトナム戦争が始まる。第二次大戦後は世界は米国からの巨額な経済援助を「マーシャル・プラン」により受けつつ、経済の再建に全力を挙げてゆく。敗戦国であった西ドイツと日本の経済復興がきわめて順調に進められた。すなわち、世界で最も通貨価値の安定した「インフレ率の低い」経済体制を構築することに成功した。

 第二次大戦でいっさい戦場にならず、被害を受けなかった唯一の大国は米国であった。米ドルは世界で唯一の基軸通貨として、その役割を果たすことを宣言し、実行したのである。世界の四分の三に上る金を保有していた米国は、米ドルと金との交換性を確保し、世界最強の基軸通貨の地位を強化する政策を推進できた。世界最大の農業生産と工業生産力を保有する圧倒的な経済大国であった米国が徐々に敗戦国ドイツや日本の復興とともに相対的な地位の低下を避けられなかった。米ドルについても、1971年のいわゆる「ニクソン・ショック」により、金の裏づけを否定する通貨改革を断行、「管理通貨制度」に移行した。だが、管理通貨になった米ドルが、最も強力な国際貿易推進に大きな役割を演じた。それは、ニューヨーク金融市場の拡大とそこでの貿易決済業務の集中であった。

 その後、オイルショック等を経ても、米ドルの基軸通貨としての地位は揺るがない状態が続いた。1990年代後期になると米国は国内景気を維持するため、大幅な低金利政策を導入、当時の連邦準備制度理事議長のグリーンスパンは、連続して17回、基準金利を引き下げるという大胆な金融緩和を断行した。その影響は米ドル相場には反映しなかった。米ドルは高値を維持したまま、米国の長期金利は大幅に低落するという矛盾した現象が起きた。従って、米国への資金の流入がいっこうに衰えないという現象、「グリーンスパンの謎」と呼ばれる現象が起きたのである。米ドルは国際貿易のシステムの中に定着していった。ドル高を基盤とした安定した運営を展開していくことになる。

 米国が金融を緩和し、基準金利をどんどん引き下げているにもかかわらず、米国の長期金利は低下し、米ドルの対外為替相場は「ドル高」に推移するという状態が現出、それは、米ドルが世界の貿易決済業務の中核通貨となり、第三国間の貿易業務についても米ドル決済しか選択し得ないという状況になっていった。米国の金融市場に集中した世界の余裕資金は増加の一途をたどり、そして、デフレは余裕資金を大量に発生させる。デフレ進行の中で、世界の企業経営者や個人資産家は、ものを「買い急がない」。必ず物価は下がる、急いで投資する必要はないことを直感的に感じ、資産の流動性を確保しながら運用を進めるなら、ニューヨーク金融市場に資金を移動させ、新しい金融商品への投資を進めてゆくことが有効な資産形成の戦略という認識が広がっていった。その金融商品が具体的には「サブプライム・ローン」を担保とした「証券化商品」だったのである。これは、米国の低額所得者に対して長期の住宅ローンで中古住宅を売りつけるという「ブローカー業務」が生み出した不安定な質の悪い住宅ローンだった。低額所得者に対して、最初の借り入れの第1年度、2年度までは低金利、その当時の銀行預金の低金利と変わらぬ金利で提供する、しかし、3年度4年度になると数倍高い金利に変化するという一種の「詐欺」にも似たローンだった。

 中古住宅の価格が持続的に上昇するという「インフレ」の幻想が作用している間は良かったが、市場価格が下がり始めると、サブプライム・ローンを種とする金融商品は価値を失い、市場には売り手ばかりで、買い手が全くなくなり、金融危機を招く。それがあっという間に広がった結果が、2008年9月15日の「リーマン・ブラザーズ・クライシス」だった。米国人3億人の消費生活態度であった「インフレ幻想」を一挙に剥ぎ落とし、それまで「買い急ぎ」が特徴だった米国人の「クレジットカード」、一般の市民は15枚から20枚持っている、月末に請求が来る、その金額をカード会社に全額払う人は優良な消費者であり、殆どの人は全額は払えない。払い残しは自動的に「カードローン」という形でカード会社が貸し出すようになる。個人ごとに設定されているクレジットラインを超える「オーバーローン」になると更に金利は上る。金融危機の発生でカード会社はカードローンに充てる資金の調達が困難になり、支払不能のクレジットカードには「ノンバリッド」無効宣言をする。この強制力に対応して、米国の消費者は消費を削減し始めた。まずオーバーローンの返済に全力を挙げ、次にクレジットラインの範囲内にカードローンを抑え、無効宣言を受けないカードを最低1枚は確保しなければならない、その結果、高額な商品の消費は大幅に減った。かつてのオバマ政権が8250億ドルの不況対策予算の中で、2750億ドルの減税による「連邦政府小切手」がどの家庭にも舞い込む。これはたちまちに大手の小売業者チェーンの窓口に吸収された。米国の消費市場は回復し、消費不況は終了する方向に変わっていった。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
米国は強いね。 (T.S)
2018-04-09 09:30:43
オイルショック等を経ても、米ドルの基軸通貨としての地位は揺るがない状態が続いた。1990年代後期になると米国は国内景気を維持するため、大幅な低金利政策を導入、当時の連邦準備制度理事議長のグリーンスパンは、連続して17回、基準金利を引き下げるという大胆な金融緩和を断行。その影響は米ドル相場には反映しなかった。米ドルは高値を維持したまま、米国の長期金利は大幅に低落するという矛盾した現象が起きた。米国への資金の流入がいっこうに衰えないという現象、「グリーンスパンの謎」と呼ばれる現象が起きた。米国が金融を緩和し、基準金利をどんどん引き下げているにもかかわらず、米国の長期金利は低下し、米ドルの対外為替相場は「ドル高」に推移するという状態が現出、それは、米ドルが世界の貿易決済業務の中核通貨となり、第三国間の貿易業務についても米ドル決済しか選択し得ないという状況になっていった。米国は強いね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。