murota 雑記ブログ

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近代史で日本が起こした戦争の経過を振り返って

2024年10月06日 | 通常メモ
 「福翁自伝」をみると、福沢諭吉は必死に習得したオランダ語が世界に通用する言語ではなかったことに気が付き、思い直して英語の習得を始めている。万延元年(1860年)、諭吉に渡米のチャンスがやってきた。日米修好通商条約の調印のため幕府が使節を派遣することになり、使節を護衛して咸臨丸の総督として渡米する副使の木村摂津守喜毅に頼みこむ。木村家の家臣たちが、無事に帰ってこれるかどうか分からないような米国など行きたがらなかったからだ。そして、諭吉は英語を母国語とする自由で平等の国を実地に見聞することになる。当時の日本にあっては、ワシントンとナポレオンは日本人が最も好んだ英雄の名前だったが、興味を持とうとしないアメリカ人に諭吉は大きな衝撃を受けた。そしてアメリカという平等社会の本質を見抜き、いずれ日本もそんな国にならなくてはと強く感じたようだ。

 文久2年(1862年)、諭吉は再び海外に渡る。この年、幕府は攘夷運動が過熱したことから、列強諸国に対し、開市と開港を延期してもらうべく使節団を派遣した。これは最初の遣欧使節団だった。約40名の使節団の中に諭吉もいた。ヨーロッパの帰りにはエジプトのカイロなど、アフリカ大陸にも上陸している。ピラミッドやスフインクスの前で記念撮影もした。そして二度目の渡米の際には大量の本を買い込む。塾では、米国から持ち帰った原書を用いて授業を展開、教科書はあらゆる分野にわたっていたので、授業の質は一気に向上し、慶応年間に入ると、その噂を聞きつけて塾生の数も増え、百人近くになった。以後、慶應義塾は急激な発展を遂げ、多くの人材を輩出していく。

 さて、明治政府が恐れた外国は当時のロシア帝国だった。容赦なくロシアは領土を膨張させ、南下してきた。幕末には対馬列島を占領しようともした。また、日露両国人雑居となっていた樺太をロシア領土にしようと、現地日本人に圧力を加え、ついに日本が樺太を放棄する。そこで明治政府は朝鮮を開国させ日本の支援で近代化させ、日朝が協力してロシアの南下を食い止めようと考えた。ところが、朝鮮を属国と考えていた中国(当時は清国)がこれを認めず、明治27年(1894年)の日清戦争となる。日本の大勝に終わるが、清国を弱いと見た列強諸国が租借という形で清国の中に勢力範囲を設定し、中国大陸は列強諸国の半植民地状態に置かれる。特にロシアは満州を不法占拠し、朝鮮(韓国)に親露政権が生まれるという最悪の結果を招く。勝海舟は「氷川清話」の中で、「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもどうなる。支那の実力が分かったら、欧米からドシドシ押しかけてくる。欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。支那5億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか。東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。おれは維新前から日清韓三国合従の策をして、支那朝鮮の海軍は日本で引き受けることを計画したものさ。」と書いている。

 満州から朝鮮半島にまでロシアの力が及ぶと、日本は、ロシアの満州支配を認めるかわりに、ロシアに朝鮮からは撤退してほしいと外交交渉を始める。そして明治35年(1902年)日英同盟を締結し、ロシアを牽制する。日本国内では、英国の救援を得たとたん「ロシアと戦うべきだ」という主戦論が高まってゆく。だが、政府はロシアの実力を充分に知っていたので戦争を始めることには躊躇していた。結局は国民の声に押し切られるかたちで、明治37年(1904年)にロシアと開戦し、総力戦の結果、莫大な費用と人的犠牲を払って辛勝する。ロシアという白人の軍事大国に勝ったことで、日本人の間には、強国、大国意識が芽生え、欧米の列強諸国と肩を並べたという認識が生まれる。そして、台湾に加えて新たに朝鮮を植民地とし、中国に対しても優越感を持って差別的に接するようになる。特に韓国人に対する態度はひどかった。植民地にした朝鮮半島に神社をつくらせ、学校での日本語授業を強要し、名前も日本風に変えさせるという朝鮮民族抹殺へと進む。柳宗悦さんは、朝鮮の芸術や人々を深く愛する日本人だが、その著「朝鮮の友に贈る書」の中で書いている。「貴方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、人種的にも言語的にも真に肉親の兄弟である。・・・二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを切に願っている。・・・これは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。」と。

 その後、日本は、中国に対する侵略を加速させ、満州国という傀儡国家をつくりあげる。さらに華北へと勢力を広げ、中国と全面戦争に突入する。アジアの盟主として日・満・支による東亜新秩序をつくると宣言し、アメリカやイギリスなどの大国と張り合い、関係を悪化させ、太平洋戦争へと突入する。戦時中には、さらに東亜新秩序の概念を肥大化させ、「東アジア、東南アジアを白人の支配から解放する大東亜共栄圏を構築する」とぶちあげ、「天下を一つの家のようにする」という日本神話にある八紘一宇の概念を持ち出す。それが敗戦で砕かれることになる。

 日本が太平洋戦争で最初に攻撃したのはハワイの真珠湾だが、その時、ハワイには多くの日本人移民が渡っており、家族もつくり、日系二世も多く生活していた。ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている。また、ハワイの歴史を振り返ると、かつて、カメハメハが白人の力などを利用しつつ、ハワイ諸島を平定し、統一王朝を作り上げているが、1820年にアメリカのボストンから宣教師たちが来航し、ハワイ人の教育、経済、政治全般に進出し、1825年にはキリスト教がハワイの国教となった。その過程で、フラなどのハワイの伝統芸能が野蛮だとして禁じられ、洋風化が進展していった。この時期、日本の太平洋沖でクジラの群れが発見され、ハワイでは捕鯨業が全盛期を迎えている。カメハメハ3世の治世、1840年に憲法が制定され、ハワイ王国は立憲君主制に移行する。

 その8年後、土地改革により1862年までにハワイの土地のほとんどが白人の所有になる。1850年代後半から油田発見による鯨油の需要減、鯨の頭数減少、事故の多発などで捕鯨業は衰退、替わってサトウキビ産業が隆盛していく。1864年、カメハメハ5世は、憲法破棄と議会閉会を宣言して新憲法を発布するが、この憲法では議会が一院制、選挙権はある程度の土地保有者に限られた。1872年にはカメハメハの血統が断絶し、選挙によりカメハメハ大王の有力な助言者の子孫・カラカウアが王位につく。彼は3年後にアメリカ・ハワイ互恵条約を締結する。「ハワイ産製品を無関税でアメリカへ輸出できる。ハワイの領土をアメリカ以外の国に貸与・譲渡できない」という不平等条約だった。1887年にまた新憲法が制定されたが、これは武力による強制憲法で、王権を制限し、白人を優遇する内容となっている。1893年には、白人によるクーデターでリリウオカラニ王女は幽閉され、ハワイ王朝も終焉する。翌年、ハワイ共和国が誕生し、ドール大統領が誕生。彼はハワイ諸島をアメリカに併合させることにし、1898年、米国大統領のマッキンリーはハワイを正式に併合した。1920年代には、ハワイの人口のうち4割が日本人移民とその子孫(日系人)で占められており、多民族で構成されるハワイ社会において、圧倒的な多数派になっていた。ハワイの日系人は社会に溶け込み、経済的な力も持つようになっていた。ところが、それまでの日本人移民の努力を無駄にしてしまうような太平洋戦争の開戦で真珠湾攻撃が起きたのだ。ハワイの日系社会に打撃を与えただけでなく、日本生まれの1世と、アメリカ生まれの2世の対立を引き起こす悲劇を生んだ。日系人たちはアメリカ国家からひどい人種差別を受けた。

 昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃によって、日本人排斥運動は頂点に達する。アメリカFBI(連邦警察)は、真珠湾攻撃から数日間で1291人のリーダー的な日本人移民と日系人を逮捕した。昭和17年(1942年)ルーズベルト大統領は、大統領行政命令に署名し、日系人は次々と強制収容所に連行され、その数は12万人にのぼった。収容所に入るため、日系人は財産を手放さねばならなかった。家財や家屋などを適正価格の10%程度で泣く泣く売り払うしかなかった。砂漠や寒冷地の広大な敷地に有刺鉄線を張り巡らし、粗末なバラック小屋が立ち並ぶだけの場所、監視する兵士がいて、逃げようとすれば容赦なく射殺された。こうした扱いを受けたのはアメリカ本土の日系人たちで、ハワイにいる日本人移民、日系人は強制収容所へは送られていない。それは、ハワイ人口の4割を占めていたので、ハワイ経済が壊滅的な打撃を受けるからだった。ハワイの日系2世の間から、「自分たちはアメリカ人であり、日本人のようなだまし討ちをする卑怯者ではない、最前線へ行って勇敢に戦うことで証明し、アメリカに対する忠誠心を示し、自分たちの名誉を挽回したい」という声が高まった。アメリカは彼等の志願を受け入れ、日系人だけの部隊を編成し、ヨーロッパ戦線へ派遣した。

 1400人の日系人だけの第100大隊はイタリアや北アフリカで命がけの突進を敢行した。パープル・ハート部隊という異名を得ている。兵隊の人数より負傷者が多い、これは一人で何度も負傷しているのだ。日系人部隊はアメリカ史上、最も多く勲章を受けた部隊となった。この日系人兵士たちの活躍が、アメリカにおける日系人社会の地位を高めた。昭和51年(1976年)、フォード大統領は「日系人の強制収容は誤りであった、二度と繰り返してはならない」という誓約書にサインした。さらに昭和55年、カーター大統領は「アメリカ市民の戦時移住及び強制収容に関する委員会」を設置し、大戦中に日本人移民・日系人が被った不当な扱いや被害の調査を開始し、10回に及ぶ公聴会が開かれ、750人以上の証人が出席して証言を行った。収容所に隔離された存命の日系人6万人に対し、一人2万ドルの賠償を行い、アメリカ政府も国家として正式に彼等に謝罪すべきことを議会に勧告した。昭和62年、レーガン大統領も、「日系アメリカ人補償法(市民の自由法)」に署名し、戦中の強制収容という行為が基本的人権の侵害であり、大きな過ちだったことを認め謝罪している。

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