murota 雑記ブログ

私的なメモ記録のため、一般には非公開のブログ。
通常メモと歴史メモ以外にはパスワードが必要。

再び、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に迫る。

2021年09月24日 | 通常メモ
 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、このドラマは15世紀か16世紀のセヴィリヤを舞台にしている。宗教裁判の炬火が日ごとに異教徒を焼き殺している時代、キリストらしき男が訪れる。セヴィリヤの民はそれがイエス・キリストの再来であると感じ、その教えに従う。その一部始終を見ていた背の高い90歳の老人(セヴィリヤの大審問官)が、毅然として「この者を捕らえよ」と命ずる。衛兵たちはキリストを捕縛し牢獄につなぐ。セヴィリヤの夜の獄房に、暗い影のように大審問官が訪れ、キリストを相手に話をする。最初に大審問官はじっと眼を見て「おまえがイエスか」と問う。イエスは黙って答えない。そこで「返事はしないでいい」と言う。

 大審問官としてはキリストの正体などどうでもよい。かつてキリストが語ったことなど隅々まで知っていることだ。この「キリストの沈黙」こそ、ドストエフスキーが全ヨーロッパ社会の歴史の総体に問うた一撃である。大審問官の長い独白が始まる。神を使って事態を進めるか、それとも神などでなく、歴史の先に進んでいくか、二つに一つだ。大審問官は、どこまでも高潔である。その口元から発せられる言葉は神の眼光がまじっているかのごとく鋭く、その提示する問題は途方もなく大きい。最終的には「パン」と「奇蹟」と「権威」という3つの扱いになる。この3つは人間の歴史にとって必要なことなのか。もし必要なら、そのために神にいてもらう必要があるのか。大審問官は歴史上のイエス・キリストが採った3つの方針を問う。

 カラマーゾフ家の3兄弟の内の三男であるアリョーシャは、大審問官の強靭な独白を聞かされる。パンについては、イエス自身、人はパンのみにて生くるものにあらずと明言したものであり、キリストのその一言のためにどれほど多くの者が貧窮に喘ぎ、泥棒に走り、わが子の、間引き殺しをやってきたか。パンこそは犯罪と戦争の根本原因ではないのかと攻めたてる。また、奇蹟については、イエスは、悪魔がそこから飛び降りて奇蹟を見せてみよと唆(そそのか)したことを避けたくせに、自分ができる、たとえば眼病を治すような奇蹟だけは起こす。このいくつかの奇蹟によって、イエスが全ての奇蹟を起こせると民衆を信じさせた。これは、ひどい話ではないかと大審問官はイエスに詰め寄る。また、権威については、誰が地上の権威者になるのかという問題。悪魔が「おまえは地上の王者になればいいではないか」と唆(そそのか)したとき、イエスはこれを拒んで結局は火あぶりになった。火あぶりになったからいいようなものの、もし生きながらえていたら、イエスには社会を治める方法など、何ひとつなかった。つまり、イエスはキリストとして地上の王国を治める能力もなく、かつてのユダヤの王たちが失敗したように、いたずらに理想を失墜しただけだ。それゆえパウロは十字架上で早死したイエスを地上の王ではなく、天空の王としてのキリストに仕立てたのではないのかと攻めたてる。このように大審問官の問いは完璧だ。

 カラマーゾフ家を仕切っているのは父親のフョードル、旧ロシアを代表する地主、手に入るものなら何でも手にしてしまうという物欲の権化、そのくせヴォルテール派の啓蒙思想にかぶれ、横柄な無神論者。フョードルにとっては、金銭や快楽が極上のもの、人間とか神とか未来などは、いいかげんに扱ってさえいれば良いものだった。その肉体は著しい衰えを呈していて、フョードルの魂の空隙を「何かしら未知の恐ろしい危険なもの」が通り過ぎていく。そのフョードルはいずれ物語の中で殺されることになる。フョードルが「神様なんてあるのかい」と嘯いていたことを許せない者がいた。その犯人は、フョードルが「カラマーゾフ家というのは淫蕩、強欲、奇癖にある」と言い続けていたことも許せなかった。

 カラマーゾフ家には3人の兄弟がいる。長男ドミートリイ(愛称ミーチャ)は軍隊から帰ってきて、もともと放蕩無頼ではあるが、粗暴なロシア的情熱が溢れている。無垢な女性に対しては憧憬の心を持っていた。『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの最後の作品で未完のままとも言われるが、それまでドストエフスキーはこのドミートリイのような人物を一度も描いていない。そういう意味では、ドミートリイを作り上げることが、ドストエフスキーの最後の造型的目標だった。また、次男イヴァンは、神秘などいっさい認めない徹底した背神論者で、ひたすら透明な理性を磨き上げようとしている。イヴァンにとっては自身の論理がやすやすと理解されることのほうが堪えがたい屈辱だった。イヴァンはドストエフスキーが得意とするヨーロッパ理性に対抗しうるロシア的論理の貫徹する人物で、すでに『罪と罰』のラスコーリニコフや『悪霊』のスタヴローギンにその原型が描かれている。イヴァンこそは典型的なドストエフスキー“文学”的な人物でもある。

 敬虔な修道者で純真を求める三男アリョーシャは、その魂そのものがロシアの未来を確信してやまない。スラブ・ロシアの民の赤く爛れた精神を癒し、その煩悩や苦悩を我が身に一身に引き受けているようなところがある。アリョーシャには、二人の兄のような強烈な個性が見られない。純朴なアリョーシャに対しては、生涯の伴侶を約束した少女リーザが心底あこがれている。アリョーシャには人間性の最も澄んだ部分がある。ドストエフスキーは少女リーザのことを「悪魔の子」と指摘しているが、リーザには霊的なアリョーシャの優しさでは埋めつくせない狂気の血も流れていて、そこに兄イヴァンの悪魔的な魅力が関与してゆく。この可憐な少女はアリョーシャの神とイヴァンの悪魔の悲劇的な相克に引き裂かれてゆくことになる。長男ドミートリイ(愛称ミーチャ)と父のフョードルは憎しみ合っていた。遺産相続で長い間もめており、グルーシェニカという女性の奪い合いもしていた。ミーチャがフョードルを杵で殺したと町の住民は思っていた。ミーチャは裁判にかけられ、無罪を主張するが、有罪になり、20年間のシベリア送りとなる。実際にフョードルを殺したのはスメルジャコフ(フョードルの私生児)であった。スメルジャコフはミーチャの公判の前日に自殺していた。スメルジャコフは自分の犯行を次男イヴァンに話す。

 父フョードルと3人の兄弟に加えて、『カラマーゾフの兄弟』にはフョードルの私生児とおぼしき陰質なスメルジャコフと、陽朗な長老ゾシマが登場する。スメルジャコフはイヴァンにとってのメフィストフェレス(ゲーテの『ファウスト』に登場する誘惑の悪魔)みたいなものだ。長老ゾシマは、ロシア正教の荘重きわまりない人物で、教会や聖典にこだわることなく、その明晰玲瓏な心境の吐露によってその存在をドラマの中で輝かせている。このような一致点を見ない異常な3人の兄弟がばらばらに各地で成長し、カラマーゾフの「家」(カラマーゾフシチナ)で一堂に会し、深い亀裂を生じていく物語。

 父親フョードルが明日は殺されるという前夜、イヴァンがアリョーシャに語っていく予想外の話が展開される。それが大審問官の話であり、イヴァンがアリョーシャに語って聞かせた自作の劇詩だ。「反逆」の章で、イヴァンはアリョーシャと話している時に、世の中にある数知れない幼児虐待の例をあげ、もし未来の永遠の調和のためにこの幼児たちの苦しみが必要というなら、未来社会の入場券など突っ返してやりたいという。幼い受難者のいわれなき血を必要とする神など、絶対に容認できないとまでいいきる。
 アリョーシャはこのイヴァンの背神的無神論に対して、お兄さんの考えられることもわかりますが、仮にそのような問題があるにしても、それでも赦される唯一の存在というものがあって、それがキリストだと反論する。しかしイヴァンはふたたび断乎と反論し、イヴァンはキリストその人を舞台に引っ張り出してくる。

 アリョーシャは兄の物語を聞くうちに、この話が「外からの説明」であることに気づくが、これには反論できない。ドストエフスキーはこのレーゼドラマを観念の究極の仕上げの闘争にしたようだ。実は、ドストエフスキーは、このセヴィリヤの夜に匹敵する体験を、何度も経験してきている。ドストエフスキーの父親は実は殺されていた。それは、この文豪の個人史の内奥に突き刺さった最初の事件でもある。また、ドストエフスキーがニコライ1世の社会にいたことも忘れてはならない。この文豪の社会史の面貌に突き刺さった抜けない棘である。デカブリストの乱やポーランドの乱を制圧弾圧したニコライ1世が、1848年のフランスの二月革命を警戒して、そのころペテルブルクの唯一の自由サークルだった「ペトラシェフスキー会」の会員39名を一斉検挙した。その会員だったドストエフスキーは8カ月をペトロパヴロフスク監獄で過ごした後、20名の仲間とともに死刑を言い渡されている。死刑執行の直前になって皇帝の恩赦によって判決が変更され、ドストエフスキーは死を免れる。ドストエフスキーは自分の死の数分前の恐怖をたえず思い出す。ドストエフスキーはヨーロッパを旅行した時にヨーロッパ文明に対する疑問と不信を決定的にした。

 ローマ・カトリック教会が編み上げた全史に対して、ひそやかな反撃を試みている。大審問官の問いは、イヴァンが綿密周到に用意した歴史に対するアンチテーゼでもある。イヴァンはここではアンチキリストをめざしている。この歴史はイエスが荒野をさまよっていた時の悪魔の誘惑に、イエス自身が打ち克つために覚悟した3つの方針であり、イヴァンは大審問官にそこを詰問させている。それはアリョーシャにとっては目をまるくするような、答えられない衝撃だった。イヴァンもまた、弟の放心を見て、それ以上の追い打ちを遠慮する。こうしてドストエフスキーは、この思想劇をこの場面では収拾せずに、もうひとつのステージを用意する。ここでドストエフスキーが組み上げたのが、長老ゾシマの陽性な倫理的証明というものかもしれない。

 イヴァンはゾシマとの対決を迫られる。ドストエフスキーはついにロシア正教の核心に入っていく。大審問官の問題は、ここからが本番のドストエフスキーになる。イヴァンの主張は、「いったいこの世界に他人を赦す権利をもっている者などいるのだろうか」という一点に集約される。イヴァンはインチキ教祖まがいの「赦す者」がいたとしても、そんな者の軍門に屈服するくらいなら、むしろ贖われざる苦悩を享受することによって世界を生き抜きたいと思う。そして、そのような方法でしか人間の自由は獲得できないと主張する。これに対して、ゾシマは今は隠者だが、すでに苦悩しつづけて仙境に到達しつつある老人で、小柄で痩せてはいるが、その眼はいつも輝いている。その言葉は澄んだ知性を放っている。

 ドストエフスキーはこのゾシマにおいて、『カラマーゾフの兄弟』の主題が「神愛」(ポゴフィーリ)と「抗神」(ポゴフォーブ)の対照にあることを最終的に証そうとする。その対照は、作品の終盤にさしかかるに従って、沈黙するのは神愛ではなく、抗神であるという劇的な転回を見せてゆく。イヴァンの抗神はゾシマの神愛に包まれ、議論を一歩も進められない。大審問官がイエスとおぼしき男に長々と語り終えた時、男が黙ったまま立ち上がって大審問官の唇に静かに接吻するような感触にも似ている。イヴァンはゾシマを越えられない。ゾシマはイヴァンと対決したのではなく、イヴァンを包み込んだといえる。

 ドストエフスキーは神の存在を唯一の絶対的存在から解き放っている。ローマ・カトリックの絶対神の呪縛から、ロシア正教の痩せこけた老人にその担い手を移すことによって、キリストを拡散霧消させた。最も難解な形而上哲学による“神学崩し”に見える大審問官の問題は、15世紀のセヴィリヤのキリストと19世紀のロシアのアリョーシャという二つの沈黙と屈服を得て、長老ゾシマによってロシア的に解消されてゆく。ドストエフスキーが生涯にわたって抱えた「ロシア人は神をどのように扱うか」という大問題、それはカラマーゾフの兄弟たちの背中に張り付いていて離れない。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あまりにも悲し過ぎます (M.Y)
2018-11-24 09:51:57
ドストエフスキー本人が、ペテルブルクで兄の遺族の扶養や莫大な借金の返済など、経済的にも精神的にも追いつめられ、その苦境から脱するため、ある出版社に無謀な契約をして3000ルーブルを前借りし、当座の借金を返済し、国外旅行に出発してヴィースバーデンで恋人ポーリナと落ち合う、そこで残った金を全て賭博で失っている。一文無しの状態の中で構想をまとめ、友人の協力で帰国し、雑誌『ロシア報知』にて連載を開始した。“選ばれた非凡人は現行の秩序を超越できる”という独自の犯罪理論を持つ元大学生ラスコーリニコフが、強欲な金貸しの老婆アリョーナ・イワノーヴナの話を耳にし、金銭を奪い、それを社会のために使おうと殺害を企てた.。あまりにも悲し過ぎますね。当時の社会問題を提起しているような話、現代にも通ずる話にも見える。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。