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資本主義の矛盾と人類の知恵どうなる。

2018年05月06日 | 通常メモ
 今の資本主義は、中心と周辺で構成され、周辺つまりフロンティアを広げることで中心が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していく。最近は、地理的な市場拡大が限界に近づき、また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、百万分の一秒、一億分の一秒で取引できるようなシステム投資をして競争している。コンピュータ金融取引というか、一億分の一秒単位で投資しないと利潤を上げられない。また、日本をはじめ、米国やユーロ圏でも政策金利はゼロ金利といわれ、10年国債利回りも超低金利となり、資本の自己増殖が不可能になりつつある。まるで資本主義の終焉を予感させるかのようだ。富裕層と貧困層の格差が広がり、中間層が恵まれていない。最近では資本主義への疑念も出てきている。そのように水野和夫氏はその著「資本主義の終焉と歴史の危機」に書いている。氏の主張を振り返り、考えてみたい。

 新興国と呼ばれる国々は今後20年や30年くらいは成長を続ける可能性はある。また、労働力を安く買い叩くことで利益を上げ続けるグローバルなブラック企業もある。だが、そんな局所的な成長ではなく、経済システム全体の今後の成長が可能かどうかの時代に入ってきたようだ。シェークスピアの作品の一つ「ヴェニスの商人」にもある、人にお金を貸して利子を取るという単純な経済行為、これは13世紀に利子率というものがローマ教会によって公認されている。昨今の先進各国の国債利回りに着目すると、際立った利子率の低下が目立つ。先鞭をつけたのは日本、1997年に2.0%を下回り、2014年に0.62%にまで低下した。米国、イギリス、ドイツの10年国債も2%を下回り、短期金利は事実上ゼロ金利にまで落ちた。なぜ利子率の低下が重大といえるのか、金利は、資本利潤率とほぼ同じだからだ。資本を投下し利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本的な性質であり、利潤率が極端に低いということは資本主義が機能していないことになる。超低金利が10年も続くと、既存の経済・社会システムは維持できなくなる。今や、利潤を得られる投資機会もなくなってきた。先進各国で超低金利が続いている。まさに21世紀の利子率革命ともいえる。利子率とは長期的に見れば、実物投資の利潤率を表す。

 資本利潤率というのは、ROA(使用総資本利益率)として把握される。これは、借入コスト(社債利回り、借入金利)とROE(株主資本利益率)の加重平均だ。総資本に占める割合は負債のほうが大きいので、ROAは国債利回りに連動する。10年国債の利子率が2%を下回るということは、資本家が資本投資をして、工場やオフィスビルをつくっても、資本家や投資家が満足できる利益が得られないということだ。つまり、設備投資をしても利潤を生みださない設備、つまり過剰な設備になっている。世界史的にみると、この異常なまでの利潤率の低下は1974年から始まっている。1973年、79年のオイルショック、75年のヴェトナム戦争終結、これらの出来事は、近代資本主義の前提である「エネルギーコストの不変性」が成立しなくなったことを意味している。また、米国がヴェトナム戦争に勝てなかったことは地理的・物的空間を拡大することが不可能になったことをも意味する。イランのホメイニ革命などの資源ナショナリズムとオイルショックにより、「エネルギーコストの不変性」も崩れ、現在、先進国がエネルギーや食糧などの資源を安く買い叩くことも不可能になってきた。

 交易条件とは輸出物価指数を輸入物価指数で割った比率で求められるものだが、輸出品1単位で何単位の輸入品が買えるかを表す指数だ。日本を例に単純化してみると、ある基準年に車1台の輸出で1単位の原油輸入が対応しているとすれば交易条件指数は100、翌年に原油の輸入価格が2倍に上昇し、車の輸出価格が不変なら交易条件指数は50に半減する。車1台で原油は0.5単位しか輸入できなくなり、交易条件は悪化したことになる。1973年の第一次オイルショックまで交易条件は改善傾向にあったが、2度のオイルショックで交易条件は相当に悪化している。その後、少しは改善したが、1999年以降、資源価格が高騰し、再び悪化に転じている。

 振り返ってみれば、地理的・物的空間での利潤低下に直面した1970年代半ばの段階で先進各国は資本主義に代わる新たなシステムを模索すべきだったのかもしれない。米国は、別の空間を生み出すことで資本主義の延命を図っていた。つまり、コンピュータ・金融空間ともいえる利潤のチャンスを見つけ、金融帝国への道を進んだ。これで資本は瞬時にして国境を超え、キャピタルゲインを稼ぎ出すことが可能になった。1980年代半ばから金融業への利益集中が進み、それが米国の利潤と所得を生み出す中心的な空間となっていた。

 1971年のニクソンショックの時にドルは金と切り離され、ペーパーマネーになった。その時からドルは自由に目盛りが伸び縮みし、バブルが起きやすくなった。1995年、国際資本が国境を自由に超えるのが統計的にも明確になり、債券の証券化など、さまざまな金融手法を開発することで、世界の余剰マネーをコンピュータ・金融空間に呼び込み、その過程でITバブルや住宅バブルが起きた。米国は世界中のマネーをウオール街に集中させ、途方もない金融資産を作り出した。原油価格高騰に合わせるように、米国主導の金融自由化が進められた。それは、高騰したエネルギーを必要としない場をつくることが利潤を極大化させる唯一の方法だったからだ。この米国の金融帝国化は、中間層を豊かにすることはなく、むしろ貧富の格差拡大を進めた。これを進ませたのが新自由主義だ。政府よりも市場のほうが正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方である。それが、1980年代のレーガン大統領の経済政策レーガノミクス、民主党政権のクリントン大統領、21世紀のブッシュ大統領へと引き継がれてきた。資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側の利潤を増やすので富める者がより富み、貧しい者がより貧しくなる。これが中間層の成長を放棄することになる。

 当時のレーガン政権は新自由主義の政策とともに、当時のソビエトに対しては軍拡競争を展開し、1991年にはソビエトが崩壊。計画経済を実施していた東欧諸国が資本主義の世界市場に取り込まれ、新たなマーケットが一気に広がった。その後、米国金融帝国も2008年の9.15リーマンショックで崩壊、つまり、自己資本の40倍、60倍で投資をし、そのレバレッジの重さで金融機関が自壊した。そのリーマンショックが誘引となってEUの巨大金融機関は、米国の大手投資銀行以上に大きな痛手を受け、全世界のコンピュータ・金融機関も縮小へと転じていく。実際、リーマンショック後に米国の長期国債利回りは急低下している。2008年にFRB(米国連邦準備制度理事会)は事実上のゼロ金利政策に踏み切り、さらに長期国債買い入れの検討を表明し、非伝統的金融政策に舵を切った。そして2013年5月まで長期国債利回りの2%割れが続く。実物経済の利潤低下がもたらす低成長の尻拭いをコンピュータ・金融空間の創出で乗り越えようとしても、バブルの生成と崩壊を繰り返すだけであった。クリントン政権時のサマーズ財務長官が「3年に一度バブルは生成し崩壊する」といっていたことも記憶に新しい。

 BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)が台頭する以前の20世紀末までは、中心が北の先進国(さらに中心がワシントンとウオール街)で、周辺が南の発展途上国という位置づけだった。21世紀に入ると、北の先進国の地理空間では満足できる利潤が得られなくなり、実物投資先を南の途上国に変え、成長軌道に乗せていった。資本主義は周辺の存在が不可欠であり、新たな周辺をつくる必要があった。米国でいえば、サブプライム層であり、日本でいえば、非正規社員、EUでいえば、ギリシャやキプロスになる。これらは、21世紀の新興国の台頭と、コインの裏と表の関係だ。国境の内側で格差を広げることも厭わない、そして、資本のための資本主義は民主主義をも破壊していく。民主主義は価値観を同じくする中間層の存在なしには成り立たない。所得が減少する中間層の没落は民主主義を破壊していく。

 新たな投資機会をねらう米国の思惑通り、BRICS諸国は2000年代に入って急成長を遂げた。それも現在では、陰りが見えてきた。成長著しかった中国も2012年の実質国内総生産(GDP)の伸び率は7.7%に、2013年も7.6%に、成長率を誇ったブラジルでも2011年に2.7%、2012年には0.9%まで下がった。リーマンショック以前は約10%の成長を遂げていたインドも2013年は3.8%にとどまり、そのうえ成長率を超える2桁のインフレ率にも苦しんでいる。先進国の消費ブームは二度と戻ってこないと思われる。リーマンショックというのは、先進国が今後は地理的・物的空間では成長できないため、コンピュータ・金融空間で無理な膨張、つまり高レバレッジやCDSなどの欠陥金融派生商品などを発生させ、それらが破裂して起きたものだった。

 振り返ってみれば、1995年に国際資本が国境を超えて移動するようになってから、米国はわずか10数年で140兆ドルを超えるマネーを創出した。リーマンショックと欧州危機によって余剰マネーの行き場は新興国に集中するが、これを新興国で吸収できるはずもない。新興国の経済規模は総額で約28兆ドル(2013年)、経済成長に必要な固定資本形成というのは、ピークでも国の経済規模の3割程度。日本が1973年に民間設備投資と住宅投資と公共投資を合わせて約33%だった。先進国の中で、この33%の水準を超えた国は日本以外になかった。28兆ドルの規模の経済をもつ新興国にとっては、近代化に必要な資本は、たとえ国内貯蓄がゼロだとしても3割強の9.3兆ドルあれば十分ということになる。これでは、とても余剰マネー140兆ドルを吸収できるわけがない。余剰マネーは少しでも利潤の多く得られるところを目指して世界中を駆け巡り、新興国に過剰な投資が一斉に集まってくる。例えば中国では誰も住まないようなマンショが立ち並んでおり、景気の減速によって過剰設備が危険視されている。そこで必然的に起こるのはバブルとなり、そしてその崩壊だ。これは日本とドイツが実証済だ。

 これからも中国に国内外の余剰マネーが集まってくる。過剰生産となれば、中国の外側に中国の過剰設備を受け入れる国はないので、日本以上のバブル崩壊が起きるのは必然だ。ただ、日本でのバブル崩壊は中成長の段階で起きている。すなわち、オイルショックによって、10%成長から4%成長になり、そこでバブル崩壊が起きてゼロ成長となった。しかも、それは、国際資本の移動が完全になる1995年より以前の出来事だった。中国では高い成長率の現段階で、すでにバブルが起きている。中国ではGDPの半分を、住宅投資、設備投資、公共投資など、固定資本投入過剰に10年以上も続いている。中国が世界の工場と呼ばれた時代は、資本投入が過剰でも世界市場が受け皿になってくれた。だが、輸出主導の経済が終わり、内需主導の経済へと転換できないなら過剰設備の用途はなくなる。もはや中国も生産能力過剰時代を迎えている、つまり、バブルが弾け、デフレになり、ゼロ金利、ゼロ成長になろうとしている。

 資本主義とは内在的に、過剰、飽満、過多を有するシステムだ。日本はバブル崩壊後、「失われた20年」に突入したが、もっと成長率の高い中国のバブル崩壊が世界経済に与える影響はそんなものではすまない。中国が世界経済の新たな覇権国になる可能性は低い。世界経済の覇権をとった国は、実物経済がうまくいかなくなって金融化に走るというのが過去の教訓だ。もはや、近代資本主義の土俵の上で覇権交代があるとは考えられない。次の覇権は、資本主義とは異なるシステムをつくる国が握る。その可能性を最も秘めている国が、近代のピークを経験し最先端を走る日本だと考えられる。先進国の中では、最も早く資本主義の限界に突き当たっているのが日本だ。1997年以来、超低金利がこの国で続いている。近代社会を特徴づけていた大量生産・大量消費社会が1970年代半ばにピークを迎えた。1973年度に日本の中小企業・非製造業の資本利潤率が9.3%でピークをつけたのも同じことだ。中小企業・非製造業は、営業基盤を基本的に国内に置いているので、その資本利潤率が日本国内における資本利潤率を代表している。1973年度にピークをつけた事実は、その時点で国内における拡大路線が終わったことを示す。さらに1974年は日本の合計特殊出生率が総人口を維持できる限界値の2.1を下回った年でもある。これ以後、出生率は現在まで低下し続けている。これは地理的・物的空間の膨張が止まったことを示唆している。

 なお、日本は省エネ技術によって二度のオイルショックを乗り切り、1980年代には自動車と半導体の生産で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇った。日本の省エネ小型車は米国のビッグスリーの一角を追い詰め、半導体の生産金額では1986年から92年まで世界一になり、40%のシェアをとった。わずかに残されていた実物投資空間を制して世界一の経済大国にのし上がっていた。延命レースのトップを走ったがゆえに、資本主義の限界点に達するのも早かった。それが1980年代のバブルだった。1980年代の日本の個人貯蓄率は年平均で約13%と高く、首都改造計画や地方リゾート開発ブームで土地は値上がり続けた。また、日本は中間層が7割を占める社会をつくることに成功し、消費行動が似ていたので乗用車やテレビなどの普及率が早く100%に近づき、飽和点に達した。また、少子化は、先進国の中で最も早く進行したことで、成長が問題解決の決め手にならない領域に真っ先に突入した。当時の米国は個人貯蓄率が低く、財政と経常収支の双子の赤字に悩まされ、日本のような金融バブルが生成する条件が整っていなかった。1990年代後半になって、米国は国際資本の自由化を実現させ、過小貯蓄の米国でも世界の貯蓄を利用できるようになり、やがてバブルの条件も整い、ITバブル、住宅バブルと連続して起き始めた。

 資本主義の最終局面では、経済成長と賃金との分離は必然的な現象である。グローバル資本主義を維持しようとすれば、雇用なき経済成長という悪夢を見続けなければならない。1990年代後半以降の日本の労働政策、1999年には労働者派遣法が改正され、製造業などを除いて、派遣対象業務の制限が撤廃された。2004年には製造業への派遣も自由化された。資本の絶対優位を目指すグローバリズムにとっては、人件費の変動費化を実現する、そのための労働市場の規制緩和は不可欠であった。生産拠点を人件費の安い海外へと容易に移せる大企業と、容易に働く場所を変えられない企業の雇用者という状況になった。雇用なき経済成長でしか資本主義を維持できなくなった現在は、経済成長だけを目的とする経済政策を考え直すべきかもしれない。アベノミクスの考えどころでもあろう。財政出動というが、雇用なき経済成長の元凶にもなるのだ。積極財政政策は過剰設備を維持するために固定資本消耗を一層膨らませ、賃金を圧迫する。企業利益を確保し、株主への配当を増やさないでいれば、経営者は翌年の株主総会でクビになる。つまり、経営者は株主への配当を増やすために雇用者の報酬を削減する。景気回復は株主のためであり、雇用者のためではなくなっている。雇用者報酬の減少そのものの原因は過剰設備の維持のためだったということになる。

 ダンテは資本主義の黎明期に、資本主義の危機を見抜いていた。最初の資本家が誕生した12、13世紀のイタリアのフィレンツェで「商業についての助言」という小冊子、資本家が競って読んでいたが、その中に、「貧乏人とはつきあうな、彼等に期待すべきものは何もない」とあり、これにダンテは異を唱え、「強欲で妬み深く、思い上がった手合い」と強く非難している。資本主義の強欲と過剰にブレーキをかける必要があった。本来、キリスト教では金利を受け取ることは禁止されていた。中世後期から高利貸しも禁止されていた。世俗界でもカール大帝が789年に聖職者ならびに一般信徒に対して、ウスラ(高利貸し)を禁止している。12、13世紀の市場金利は10%程度なのに、西欧では33%が認可ぎりぎりの線と認めている。これは明らかに過剰であり、強欲といえよう。このメンタリティは現在の資本家とも共通している。

 少数の者が利益を独占する、つまり、現在の新自由主義者が云う規制緩和とは、要するに一部の強者が利潤を独占することが目的なので、国境を超える巨額の資本や超グローバル企業だけが勝者となり、ドメスティックな企業や中級階級は敗者に転落していく。富める人の定員は15%しかいないのが資本主義だ。それでも今日まで存続できたのは、資本主義の暴走にブレーキをかけた経済学者、思想家がいたからだ。「道徳感情論」で、お金持ちが多くの富を求めるのは徳の道から堕落するとアダム・スミスはいった。「資本論」で資本家の搾取こそ利潤の源泉と見抜いたカール・マルクス、失業は市場で解決せず、政府が責任を持つべきと主張したケインズ等が偉大なブレーキ役だった。ブレーキ役がいないと資本主義は自己破壊してしまう。それで1972年くらいまでは持ちこたえた。オイルショックが起き、スタグフレーションになり、ケインズ政策の有効性が疑われるようになって、そのブレーキを外そうとしたのが、フリードマンやハイエクが旗振り役となった新自由主義であり、ブレーキなき資本主義となった。今は、ようやく新自由主義のいうブレーキなき資本主義に警鐘を鳴らす声が聞こえるようになった。新自由主義も金融緩和も危機脱出の突破口を見いだせなくなった現在、「ケインズに帰れ」が叫ばれている。そして、積極財政によって国内で需要を創出すれば経済は持ち直すという人もいるようだが、それでも焼け石に水の効果といった程度と考えられる。

 現在の日本は定常状態の必要条件は満たしているが、ゼロ金利だけでは十分ではない。国が巨額の債務を抱えていてはゼロの成長下において税負担だけが高まる。基礎的財政収支(プライマリー・バランス)を均衡させておく必要はある。日本は現在、ストックとして1000兆円の借金があり、フローでは毎年40兆円の赤字をつくっている。GDPに対する債務残高が2倍を超えるほどの赤字国家なのに破綻しない。なぜか、フローの資金繰りに関していえば、金融機関のマネーストックとしてある800兆円の預金が年3%、約24兆円ずつ増えている。多くは年金だ。年金が消費に向かわず預金として銀行に流れている。企業は、資金不足だが1999年以降恒常的に資金余剰の状態が定着しており、2013年第3四半期時点で1年間の資金余剰が23.3兆円にも達している。家計部門と企業部門を合わせた資金余剰は48.0兆円(2013年第3四半期時点での1年間の累計)で、対GDP比で10.1%と高水準を維持している。これが銀行や生命保険などの金融機関を通して国債費の購入費に充てることのできる金額、すなわち毎年40兆円発行される国債が消化できている金額になっている。こんな辻褄合わせはいつまでも続くわけがない。

 いずれ国内の資金だけでは、国債の消化はできなくなる。かつて日銀の試算では2017年には預金の増加が終わると予測された。そうなると、外国人に国債を買ってもらうことになる。外国人は他国の国債金利と比較するので、金利の動きも不安定になる。金利は上がり、利払いが膨らむので日本の財政はクラッシュしてしまう。そうならないために財政を均衡させる必要がある。当時は国の予算収支をみると、歳出90兆円に対して、40~50兆円の税収しかなかった。放っておけば1000兆円の借金が1100兆、1200兆と膨らんでゆくと予測された。そうなると財政破たんを免れることはできなくなる。残された時間はあと3、4年しかないとも考えられた。ともかく、基礎的財政収支を均衡させることは喫緊の課題であろう。従って、消費税増税もやむを得ないことになる。

 欠陥のある資本主義に対して、近代経済学は、供給曲線と需要曲線とが均衡するところが価格だと定義づけた。それはあくまで資源を1バレル2~3ドルで買ってつくった製品であれば国内市場で需要と供給が一致するという仮定にもとづいた話だ。資本主義は、資本主義という仕組みの外部に資源国という「周辺」があってこそ成立してきたもの。もはや地球上に、その「周辺」はなく、無理矢理にその「周辺」を求めれば、中産階級を没落させ、民主主義の土壌を腐敗させることになる。必要でないものは購入する必要もない。それは消費者が決定することだ。ゼロ金利、ゼロインフレの日本は、定常状態を実現することで、豊かさは十分に手に入る。より速く、より遠くへ、より合理的にという近代資本主義を進めてきた理念を、よりゆっくり、より近くへ、より適当にと転じてゆくべきなのかもしれない。脱成長という成長もある。その先に、どのようなシステムをつくってゆくかは、これからの人類の智慧の勝負になってくる。

1 コメント

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脱成長という成長 (K.K)
2018-05-06 07:59:00
より速く、より遠くへ、より合理的にという近代資本主義を進めてきた理念を、よりゆっくり、より近くへ、より適当にと転じてゆくべきなのか。脱成長という成長もある。面白い発想ですね。
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