John note~ヨハネのひとりごと

のんびりと気楽に書いてます。訪問し頂いた方に感謝。不定期。
書きたい時がきたら集中的に書くかもしれません。

最も小さい霊魂の会 追記事項

2019-12-21 18:55:53 | カトリックのひとりごと その2

 

私的祈りの会を以前立ち上げました。

しかしながら体調の不良、メンタル面の不良、そして何より会をフォローできないという理由から、同志であるチャロクロさんに会を委託しました。

チャロクロさんは熱意のある方で、一生懸命Twitterにて宣教なさっておられます。興味のある方はのぞいてみてください。

祈りの会では3つの祈りを祈ります。

①不思議のメダイの祈り

原罪なくして宿りたまいし聖マリア、御身により頼みたてまつる我らのために祈りたまえ。アーメン

聖コルベ神父は不思議のメダイを「聖母の弾丸」とおっしゃいました。

この祈りによって、聖母の思いが人々の心の中に撃ち込まれることを意味しているのでしょう。

②コンソラータの祈り

イエズス、マリア、ヨゼフ、我御身を愛し奉る。よって霊魂を救いたまえ。アーメン。

主は、この祈りを一回唱えるごとに、一人の霊魂を救うとおっしゃいました。

この祈りの偉大さに驚嘆するばかりです。

③緑のスカプラリオの祈り

聖マリアの汚れなきみ心よ、今も臨終の時も我らのために祈りたまえ。アーメン。

この祈りは、その人の信頼度によって恵みの大きさが変わります。

その恵みの大きさはMAX無限大です。

そして、スカプラリオを渡した人はもらった人の分まで祈ることができます。

 

ああ、自分にもう少し健康があったら、体とメンタルが強かったらと思います。

破壊された体と心は再生するのに時間がかかるのです。

否、体は再生しませんが・・・・😭

祈りを知ってもらいたいという思いの中には、私が祈れないとき(祈りたくないとき、祈るのを忘れたとき)に祈ってもらいたいという思いがあるからです。

 そうすることにより、祈りが途切れることなく環(わ)になって神様の元に聖母マリア様を通して捧げられるからです。

私のように常時、具合が悪いと祈る回数が少なくなります。

祈るのが億劫になってしまいます。

そういう時に祈って欲しいのです。

そのかわり、体調の良いときは私が代わりに祈ります。

また、ミサの意向として捧げます。

会の事は横において、祈れる方は祈って下さいませ。

きっと良いお恵みを頂けるはずです。


今日は病院でほぼ1日潰れました😱

2019-12-21 15:58:28 | のほほん雑記

めまいが続くので耳鼻咽喉科に行って検査。

終わったのが、11:30。

検査所見で脳神経外科で一度調べてもらった方が良いと言われたんで行こうと思ったらほぼ病院が11:30で終わりでした。

ネットでやっている表示をしている所にいったらやっぱりやっていなくて、諦める。

おっと、耳鼻咽喉科で処方してもらった薬を調剤薬局で買うのを忘れていた。

が、今日は土曜日で半ドンですね。

時すでに遅しでした😔

なんやかんやで家に帰って来たのが15:30過ぎ。

今日は終わったなあ・・・・と。

 

 


三人のファチマの牧童に与えられた祈りは日本人修道女にも与えられていた!

2019-12-21 09:05:34 | カトリックのひとりごと その2

「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。
また、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を、天国に導き給え。アーメン。」

ファチマの聖母が3人の牧童に教えた祈りです。
ロザリオの一連ごとに祈るようにと教えてくださりました。

私は煉獄の霊魂のための祈りだと思っています。
煉獄は凄くきつい場所であると知らされていますから。
これらの霊魂を早く出してあげなければなりません。



日本にも同じ祈りを教えて頂いたシスターがいました。
秋田の聖母の出現を受けたシスター笹川さんです。

日本がファチマと同じように祈りを与えられたということは何か意味があると思います。

前教皇様によると秋田の聖母のメッセージがファチマ第三の隠されていた預言らしい。

もうすでに出ていたということになる。

なるほど、バチカンが発表できない理由がここにあった。

 

 


あの~めまいがするんです😰

2019-12-20 23:39:08 | のほほん雑記
月曜日の朝からめまいがしてぐるくる、ふらふらしています。

歩いても右へ左へとふらふら😵

こんなに長引いたのははじめて😱

むむ・・・・😔

明日、病院に行きます。

内科の定期検診は伸ばします。

本当に"主の平和"なの?

2019-12-20 21:36:56 | ミサ日記
前に記事として書いたことがあるが、ミサのなかで司祭が"お互いに主の挨拶を交わしましょう"
と信者を招く。

自分の知っている人にしか挨拶をしない人がいまだにいる。
また、隣に座っている人にも挨拶をしない人もいまだにいる。

なんか、本当に主の平和なの?と思ってしまう。

イエズス様をしゅろの葉を持って歓迎した民衆は、同じイエズス様を十字架につけて
殺してしまった。

カトリック信者もカトリック信者を見殺しにする可能性はあると感じた。

踏み絵にしても、私は神を信じてはいません。私が信じているのは仏教ですと言わんばかりに踏み絵を踏むのだろうか?

あれほど、私達のために苦しんでくださった主の顔を見ることなく踏むのだろうか?

一人一人の信者の中にはイエズス様がいて、一人一人を愛してくださっている。

そのイエズス様を無視?するとは。

昔、迫害時代にカトリック者には連帯性、協調性があった。

それを見た人達がどんどんカトリック者になっていったという。

カトリック者同志がギスギスした関係で、どうして回りにいる人達がその輪の中に入って行きたいと思うのだろうか。

カトリック信者同志、信仰をわかちあうにはどうしたら良いのだろう。

とは言ってパウロとバルナバがマルコのことで別々に行動したこともあるから、使徒たちも私達とたいした変わらないことがわかる。 
それは、12使徒たちとて同じです。

社会のなかで生きていると、いろいろなことがある。 
この人、いい人だなぁと思っていざ一緒に働いてみると最悪な人だっり、また、なんか苦手だなぁと思っていても、実はすごく気を使ってくれる良い人だったり。
やっぱり、人間性がわかるのが失敗した時にどういう態度を取るのかですね!
失敗を凄く責め立てる人の人間性は最悪ですね。
逆に失敗を誰かがしたとしても、それを人に知られないようにフォローしてくれる人は尊敬します。  
もっとすごい人は、何故失敗したか?それをどのようにしたら次回、失敗しないように出来るかまでアドバイスしてくれます。
過去に絶対、失敗を怒らないでフォローしてくれる上司がいました。
同じ年だったのですが。それだけではありませんがとても尊敬しております。
仕事が凄くで来て、世間一般の器よりも大きい人なんだなぁ~と思ってしまいました。

でも私達にはイエズス様がいる。

忍耐強く憐れみ深いイエズス様に似る事ができたら、心から隣人に"主の平和"と言えるのではない
だろうか?