John note~ヨハネのひとりごと

のんびりと気楽に書いてます。訪問し頂いた方に感謝。不定期。
書きたい時がきたら集中的に書くかもしれません。

マグダラの聖マリアがイエズス様の妻だと未だに信じている人はいないよね。

2019-08-22 00:26:28 | カトリックのひとりごと その2
イエズス様は神様だから何者をも必要としない。
イエズス様が結婚していたとか、妻を娶ったとかはあり得ない話で異端の考え方です。
何かの本の影響なのだろうか?

因みにマグダラの聖マリアはイエズス様によって救われた聖女だ。
罪の女から使徒たちを上回るほどの聖性をもった人です。
使徒たちの使徒と呼ばれるまでになりました。
十字架を離れず、復活したイエズス様に最初に会うという恵みを与えられた人です。

人の中にイエズス様を見ること

2019-08-17 19:38:08 | カトリックのひとりごと その2
人の中にイエズス様とを見ると、どんなに辛い思いをしても忍耐することが出来る。
人生において、親や兄弟姉妹、友達、先生、仕事の上司、同僚、異性など時として思ってもみない言葉を言われて傷ついてしまったり、悲しんでしまったり、また、怒ってしまったりしたいこともあると思う。
自分は人の中にイエズス様が見えてしまうから、困るのだ。
イエズス様がこんな言葉を言わせているんだと。
口は慎まなければならない器官であると聖書に書いてある。
心の思いが口から言葉として出る。
イエズス様が言わせているんだじゃなく、イエズス様がいうのを許しているという方がいいのかも知れない。
私達が言った一つ一つの言葉が、自分自身に返ってくると思わなければならない。
あなたたちの中にはイエズス様がいる。
そして、同じように私の中にもイエズス様はいる。
だから、決してきつい言葉を言ってはいけないんだ。


それぞれの役割

2019-08-15 05:57:02 | カトリックのひとりごと その2
ブログをやっている人たちの中には、それぞれの役割がある。
教会をもっと良くしたいがために頑張っている人がいる。
司祭様にかけよって話をしたり、司教様に話をしたり、またまた、嘆願書を出したりしたりと自分を犠牲にしてやってくれている。
やっぱり教会を良くしたい、という思いとまた何かに肩を押されてやらざるを得ない状況にさせられているのは確かだ。
つまり、神様がその人をお使いになられるわけだ。
自分がやりたくなくても、やらなければならない気持ちに駆り立てられるわけだ。

その一方で、そういう形ではなく自らの祈りや苦しみを捧げて神様に語りかけている人達もいる。
この人達も教会を良くしたい、という思いにかられている人達だ。

積極的活動をしている人達に目が行きがちだが、でも後者も神様を動かす神の道具となる。
それぞれの役割がある。
私は、後者の方。

人に知られずして祈りと苦しみにより、神様に嘆願するチームの一員だ。
隠れて行っている小さな行いも神様はちゃんと見ていて下さる。

聖母の被昇天の大祝日

2019-08-14 20:53:25 | カトリックのひとりごと その2
明日は聖母の被昇天の大祝日ですね。
明日はミサに行けます。

サルベレジナ

元后あわれみ深き御母
我らの命、及び望みなるマリア
我らちくたくの身なるエワの子なれば、
御身に向かいて呼ばわり
この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る。
ああ、我らの代願者よ、
御あわれみの御眼(まなこ)もて我を顧みたまえ。
また、このちくたくの終わらん後、
尊き御子イエズスを我らに示したまえ。
寛容、仁慈、甘美にまします童貞マリア、
天主の聖母、我らのために祈りたまえ。
キリストの御約束に我らをかなわしめたまえ。アーメン。

前の記事であれって思ったこと。

2019-08-14 17:11:04 | カトリックのひとりごと その2
俺ってバカだなぁ~って。
成人の洗礼は洗礼~堅信~聖体の順番だった。
何も不思議なことじゃなかった
ボンクリの方たちは聖体と堅信が逆になるだけ。
失礼いたしました。

最近の雑記。
体の痛みと心の痛みが酷くて大変です。
でも、この痛みをイエズス様の痛みと合わせているのでなんとか出来るのです。
教会には本当に若い子が来なくなりましたね。

そうそう、ネットでまたもや中傷されてしまいました。
自称ヨハネと名乗る人が教会をダメにしているんだって。
ユダなんだって、ヨハネたちが。
やっていることがユダそのものなんだって。

自称ヨハネを批判される筋合いはないぞ。
ちゃんとカトリック教会で勉強して洗礼名、堅信名で使徒ヨハネという名前をもらったんだから、
カトリック教会の洗礼台帳に公式に書かれている名前だからね。

しかしながらつくづくこういう奴のずる賢さには腹が立つねぇ。
やっていることがユダそのものってなんだよ。
書いた奴の系統はだいたい想像はつくけどね。

普通の善意のカトリック信者ならまずこういうコメントは残さないだろうね。
ブログも持ってない、謝りもしない奴が多い。
というか、謝りのコメントを一度も見たことがない。
善意のカトリック信者なら、まずは祈ってくれるはずだと思うんですよ。

やっぱりブログは難しいですね。
実際に会って顔を見ながら話せば仲良くなれる人もいるんだと思いますが。
文字だけだとそうはいかない部分が多々ありますね。

ひとつだけ言えるのは、イエズス様とマリア様のためにと、自分のためだけではなく、どんな人であっても救いのために力を尽くすということです。
嫌いな人であれ、考え方が違う人であれ、違う宗教の人であれ、、、。
そのためにミサであったり、祈りであったり、犠牲であったり、償いであったり、苦しみであったりを引き受けているのですから。

神様を愛する人なら同じだと思いますから。