John note~ヨハネのひとりごと

のんびりと気楽に書いてます。訪問し頂いた方に感謝。不定期。
書きたい時がきたら集中的に書くかもしれません。

自分にちょっと共通点のある聖人

2019-06-30 22:06:43 | 聖なる人たちの紹介

 自分にゆかりのある聖人は意味が違いましたので、訂正させて頂きました。

 

福者エウゼビア・パロミーノ 1899年12月15日、スペインのカンタルピーノで誕生。 非常に貧しい生活を強いられたが、家庭にはキリストの平和が満ちあふれていた。幼いエウゼビアは物質的な食べ物には恵まれなかったが精神的な喜びを味わっていた。 母親が夕食を準備する間、父親は娘たちに、神の教えを説いていた。しかし、父親の怪我により収入が途絶えたとき、カスティリア地方の寒さに耐えるため、父親と二人で、村から村をまわり、施しをうけるため戸口に立つまでの貧しさに追いやられた。 8歳から12歳まで、近所の家庭のベビーシッターと家事手伝いとして、さらには、サラマンカ市では家庭教師として雇われるが、やがて、ホームシックにかかり、家に帰る。彼女は、再び、貧しく見捨てられた老人たちのヘルパーとして雇われて生活しているうちに、サレジアン・シスターズのオラトリオに行き、祈っているとき、聖母の招きを聞く。シスターズの好意により家事手伝いとして住み込むことになる。18歳のときのことである。 やがて、召命を感じ、さまざまな困難や試練にあいながら、奉献生活の道を準備した。1924年、誓願式の数か月前、地下室で転び、手にしていた瓶が割れ、腕の動脈切断と出血多量のためにひん死の状態に陥った。エウゼビアの修道生活への強い願いは聞き入れられ、延期された誓願は、8月に受け入れられた。 立願後、ヴァルヴェルデに送られ、修道女としての生活をそこで過ごすことになった。院長と4人の同僚を助けて、家事のさまざまの用務をこなし、オラトリオの責任も果たした。子どもたちから、平凡でおとなしいと思われたエウゼビアは、非凡な魅力を輝かせて、少女たちの心をとらえていった。 このころから、奇跡を行う恵みが与えられた。深い霊性がそれに伴い、聖母の娘は「マリアの奴隷」になることを自らの謙そんな行いで示した。そのころ始まったスペインの内乱に際して祖国の救いのために、いけにえとして神に身をささげた。それに呼応するかのごとく、エウゼビアは侵入者に投打されて、持病のぜんそくも併発し、3年間の長期にわたり激痛に悩まされた。その病床を訪れた院長のカルメン・モラノに殉教を予言した。 1935年2月10日の早朝、晴れやかな表情を見せて、36歳の苦難に満ちた生涯を神にささげた。 2004年4月25日、教皇聖ヨハネ・パウロⅡ聖によって福者の列に加えられた。 記念日は2月9日である。

 

自分にゆかりのある聖人を見つけました。

現代の聖人としては初めてです。


ヨハネの雑記

2019-06-28 22:50:47 | のほほん雑記

最近、ふと思ったのですが、聖ファウスチナと似てきてます。

なので、ファウスチナの日記に助けられています。

ああ、ファウスチナもこんなことやられたんだって。

扱われ方が雑なんですよ、

やっぱり、神様のみ旨なんだなぁってつくづく思います。

体も痛くって、毎日寝るのが大変です。

神様もずいぶん雑な扱い方をしますな・・・!

なんて思いつつ、でも、イエズス様はひどい扱われ方をされましたので、師に少し近づけたかな!

カトリックになって、祈って敬虔になって聖化されてなんてことは全然違うと感じた。

神様を感じるのには、苦しい思いをすること。

だと思うんです。

確かに辛いです。

だからこそ、神様を本当に信頼できるようになるんです。

病気が治らない、

仕事がうまくいかない

人間関係がうまくいかない

さまざまな苦しみがあります。

苦しみは神様の恵みです。

イエズス様は、ゲッセマニで血の汗を流しながら祈り

鞭打たれ

嘲笑されていばらの冠を被せられ

十字架を背負わされ

十字架に磔にされました。

私達は、すこしでもこの苦しみにあやかり、忍耐することにより神様に近づくことができます。

綺麗事はブログで、誰でも書けます。

そういうブログにはうんざりしてきました。

どういったところで苦労しているのか?

どうやって抜け出せたのか?

どうがんぱっているのか?

発信してくれたらいいのに。

真のカトリック信者なら苦しんでいないわけはないと思います。

 


福者殉教者Mercè Prat i Prat S.T.J

2019-06-27 22:54:35 | 聖なる人たちの紹介

修道女であることを理由に殺された。

なぜ?

こんな理由で人を殺す世界が信じられない。

神様を信じているだけで、生きずらいこの世の中が信じられない。

なぜ?

答えは簡単。

この世は悪魔に渡されたから。


ヨハネの雑記~どうでもいいじゃないか、

2019-06-21 23:01:26 | のほほん雑記

最近どうでも良くなってきた。

司祭が口に聖体を授けてくれないのなら、手で受ければいいかなと。だって授けてくれないんだからしょうがないじゃない。

(自分は口で、拝領させていただいていますが、本州の一部信者のは拝領させてくれない司祭がいる)

それが嫌なら霊的な聖体拝領すればいい。

聖ビアンネは霊的な聖体拝領は莫大な価値があるとおっしゃっている。

私のような凡人はそういうのがわからない。

誠に信じれば天使が聖体を運んでくれるんだろうね。

あと、トリエントミサだの、⭕⭕会ミサだの、普通のミサだの、優劣をミサにつけるなっての!

主催者はイエズス様だから、司祭がどんな人であれ、普通にやっていればすべてミサは有効だと考える。

あと、ホスチアや葡萄酒の問題にしても変なことをする司祭がいるからややこしくなるんだよ、

普通にミサで使っているものを使えば問題なし。

わざわざパンを自分で焼いたり、葡萄酒を葡萄ジュースにする必要なし。

結局は、心の問題なんだよね。

トリエントミサがいいとか、言っている人がいたとしても形式ばかりにこだわっていたとしたら残念だし。

なんか、聖人たちにもダークな部分があってもいいと思ってきた。

あの人は立派な人だから・・・

明るいし、親切だし。

あの人は、残念な人だね、

暗いし、社交性なしだし。 

 

前者でも、影で悪口を言っている人はごまんといる。

後者でも、いい訳をせず、罪の償いと人々の救いのために捧げている人はごまんといる。

ダークじゃない。世間からみると異質に見えるだけだ。

神様はいろいろなジャンルの人間から聖人を作り出す。

それが人を裁いてはいけないと言われる理由の1つだ。