カトリック教会では王であるキリストの主日を持って一年が終わります。
明日からは待降節になります。アドヴェントともいいますね。
一般の暦ではまだまだ一年の終わりではないので何か違和感がありますね。
今日の福音はこうでした。
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。
もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください」
と言った。
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
と言われた。
盗賊2人とイエズス様について考えてしまいました。
悪い盗賊は私達には関係ないのでほおっておきましょう。
ディスマスはなぜ、私を御国に入れてくださいとは言わないで私を思い出して下さいといったのか?
完全なる痛悔と告白をしたディスマスは神であるイエズス様に対して天国に入れてくださいとは恐れ多くて言えなかったと思う。
自分の罪と神のみいつを比べてますます謙遜になったのではないか?
思い出すという行為は愛していることを示す行為であるから、それがイエズス様の聖心に響いたのかもしれない。
罪だらけで、神様の事を少しも考えず、生きていながら人生の終わりの時にまことの神であるイエズス様に出逢い、今まで自分は何をしてきたんだろう。許してほしいと願う。
そして、その時はじめて直感的にあの十字架にかかったキリストが何者かがはっきりわかるのだ。
そして、このディスマスは多くの人類の象徴なのだと思う。
最後に救われる人のかたどりではないかと思うのだ。
若いうちは生きることや遊びや子育てや仕事や趣味に没頭し、宗教なんて定年後に考えればいいや、なんて考えている人が多い。
しかし、死が近くなると案外どう宗教と付き合っていいかわからないものなのだ。
日本は仏教が主流だか、その祈りや教えや意味を知っている人は案外少ない。
私の家は曹洞宗だが、開祖は誰?と言われても昔は分からなかった。
教えもいまだにわからないし、お経も意味不明だ。
お彼岸ってどういう意味なの?と質問しても大抵の大人は正確には答えられないだろうから。
私達は、死を間近にして本当の真実に出会う。
天国があり、地獄があり、神様がいて悪魔がいる
天使がいて、聖母マリア様がいるという事実を。
イエズス様は、人生の終わりまで盗賊をしていたディスマスを最後のあわれみにより、殉教者にする。
イエズス様は、自分の死の同伴者として、使徒たちやまたは信頼する弟子たちや敬虔深い人ではなく大きな罪人を選んだ。
これもまた、イエズス様がなせる業なのだと思う。
イエズス様は善人を招くためではなく、罪人を招くためにきたと言われた。
イエズス様の憐れみはすべての人に開かれており、その人が死ぬ最後の瞬間まである。
イエズス様は、救い主であるから決してあきらめない。
イエズス様は、すべての人の救いを望まれており、そのことに対して決して妥協しないで忍耐強く罪人の回心を待っておられる。