John note~ヨハネのひとりごと

のんびりと気楽に書いてます。訪問し頂いた方に感謝。不定期。
書きたい時がきたら集中的に書くかもしれません。

ニケア・コンスタンチノープル信条

2020-05-03 22:29:17 | ミサ日記

わたしは信じます。唯一の神、

全能の父、

天と地、

見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。

わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。

主は神のひとり子、

すべてに先立って父より生まれ、

神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、

造られることなく生まれ、父と一体。

すべては主によって造られました。

主は、わたしたち人類のため、

わたしたちの救いのために天からくだり、

聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、

人となられました。

ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、

苦しみを受け、葬られ、

聖書にあるとおり三日目に復活し、

天に昇り、父の右の座に着いておられます。

主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。

その国は終わることがありません。

わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。

聖霊は、父と子から出て、

父と子とともに礼拝され、栄光を受け、

また預言者をとおして語られました。

わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。

罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、

死者の復活と

来世のいのちを待ち望みます。アーメン

 

ライブミサがちょっと前から、通常の使徒信条からニケア信条に変わった。

なぜ?かはわからないが札幌教区もかわる可能性はある。

なので、少しなりとも目を通しておかないとね。


本当に"主の平和"なの?

2019-12-20 21:36:56 | ミサ日記
前に記事として書いたことがあるが、ミサのなかで司祭が"お互いに主の挨拶を交わしましょう"
と信者を招く。

自分の知っている人にしか挨拶をしない人がいまだにいる。
また、隣に座っている人にも挨拶をしない人もいまだにいる。

なんか、本当に主の平和なの?と思ってしまう。

イエズス様をしゅろの葉を持って歓迎した民衆は、同じイエズス様を十字架につけて
殺してしまった。

カトリック信者もカトリック信者を見殺しにする可能性はあると感じた。

踏み絵にしても、私は神を信じてはいません。私が信じているのは仏教ですと言わんばかりに踏み絵を踏むのだろうか?

あれほど、私達のために苦しんでくださった主の顔を見ることなく踏むのだろうか?

一人一人の信者の中にはイエズス様がいて、一人一人を愛してくださっている。

そのイエズス様を無視?するとは。

昔、迫害時代にカトリック者には連帯性、協調性があった。

それを見た人達がどんどんカトリック者になっていったという。

カトリック者同志がギスギスした関係で、どうして回りにいる人達がその輪の中に入って行きたいと思うのだろうか。

カトリック信者同志、信仰をわかちあうにはどうしたら良いのだろう。

とは言ってパウロとバルナバがマルコのことで別々に行動したこともあるから、使徒たちも私達とたいした変わらないことがわかる。 
それは、12使徒たちとて同じです。

社会のなかで生きていると、いろいろなことがある。 
この人、いい人だなぁと思っていざ一緒に働いてみると最悪な人だっり、また、なんか苦手だなぁと思っていても、実はすごく気を使ってくれる良い人だったり。
やっぱり、人間性がわかるのが失敗した時にどういう態度を取るのかですね!
失敗を凄く責め立てる人の人間性は最悪ですね。
逆に失敗を誰かがしたとしても、それを人に知られないようにフォローしてくれる人は尊敬します。  
もっとすごい人は、何故失敗したか?それをどのようにしたら次回、失敗しないように出来るかまでアドバイスしてくれます。
過去に絶対、失敗を怒らないでフォローしてくれる上司がいました。
同じ年だったのですが。それだけではありませんがとても尊敬しております。
仕事が凄くで来て、世間一般の器よりも大きい人なんだなぁ~と思ってしまいました。

でも私達にはイエズス様がいる。

忍耐強く憐れみ深いイエズス様に似る事ができたら、心から隣人に"主の平和"と言えるのではない
だろうか?


王であるキリストの主日(祭日)

2019-11-24 19:22:09 | ミサ日記

カトリック教会では王であるキリストの主日を持って一年が終わります。
明日からは待降節になります。アドヴェントともいいますね。
一般の暦ではまだまだ一年の終わりではないので何か違和感がありますね。

今日の福音はこうでした。
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。
もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください」
と言った。

するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
と言われた。

盗賊2人とイエズス様について考えてしまいました。
悪い盗賊は私達には関係ないのでほおっておきましょう。

ディスマスはなぜ、私を御国に入れてくださいとは言わないで私を思い出して下さいといったのか?
完全なる痛悔と告白をしたディスマスは神であるイエズス様に対して天国に入れてくださいとは恐れ多くて言えなかったと思う。
自分の罪と神のみいつを比べてますます謙遜になったのではないか?
思い出すという行為は愛していることを示す行為であるから、それがイエズス様の聖心に響いたのかもしれない。
罪だらけで、神様の事を少しも考えず、生きていながら人生の終わりの時にまことの神であるイエズス様に出逢い、今まで自分は何をしてきたんだろう。許してほしいと願う。
そして、その時はじめて直感的にあの十字架にかかったキリストが何者かがはっきりわかるのだ。

そして、このディスマスは多くの人類の象徴なのだと思う。
最後に救われる人のかたどりではないかと思うのだ。
若いうちは生きることや遊びや子育てや仕事や趣味に没頭し、宗教なんて定年後に考えればいいや、なんて考えている人が多い。
しかし、死が近くなると案外どう宗教と付き合っていいかわからないものなのだ。
日本は仏教が主流だか、その祈りや教えや意味を知っている人は案外少ない。

私の家は曹洞宗だが、開祖は誰?と言われても昔は分からなかった。
教えもいまだにわからないし、お経も意味不明だ。
お彼岸ってどういう意味なの?と質問しても大抵の大人は正確には答えられないだろうから。

私達は、死を間近にして本当の真実に出会う。
天国があり、地獄があり、神様がいて悪魔がいる
天使がいて、聖母マリア様がいるという事実を。

イエズス様は、人生の終わりまで盗賊をしていたディスマスを最後のあわれみにより、殉教者にする。
イエズス様は、自分の死の同伴者として、使徒たちやまたは信頼する弟子たちや敬虔深い人ではなく大きな罪人を選んだ。
これもまた、イエズス様がなせる業なのだと思う。
イエズス様は善人を招くためではなく、罪人を招くためにきたと言われた。
イエズス様の憐れみはすべての人に開かれており、その人が死ぬ最後の瞬間まである。
イエズス様は、救い主であるから決してあきらめない。
イエズス様は、すべての人の救いを望まれており、そのことに対して決して妥協しないで忍耐強く罪人の回心を待っておられる。


いつくしみの主日のミサ

2019-04-29 08:51:39 | ミサ日記

昨日はいつくしみの主日のミサでした。
主のいつくしみのことは少し語っても、聖ファウスチナにどういう経緯でいつくしみの主日を作ったかは語られることはありませんでした。
主は復活の主日の次の主日をいつくしみの主日とするように聖ファウスチナに言いました。
何故かはわかりません。
いつくしみの信心はとても大切な信心だと思います。
さて、今日は告解をする日でしたが、神父様の異動などで神父様は忙しいのでしょう。
ミサ開始15分前に聖堂に現れませんでした。
なので、また、告解は延期になりましたが、心の中で告白しました。
イエズス様はすべてをご存知でいらっしゃるのでイエズス様にお任せしています。


告解をさせてくれるタイミング

2019-04-07 19:36:04 | ミサ日記

今日は選挙のためいつものミサのひとつ前に与る。

もうすぐ復活祭なんでミサ前に十字架の道行の祈りがあり、

告解は一人もしてもらえず。

いつものミサのあと黙想会があり、その後告解が時間として割り当てられていた。

一体、告解のスタートが何時からで、何時に最後の人が終わるのか見当もつかないので止めました。

聖体も聖体奉仕者が2人になっていて、いつもの神父様がいなかった。

これからは一人あたりの神父様の割り当て教会が増えていって告解するのも難しい、ちゃんと事前準備をしないとできないのかな?と思った。

もう、教会にいれば神父さまがいるという時代ではなくなったんだと。

教会が閉じられる時代とは今、もう来ていたんだと思った。

神父様がいない教会になるとますます信徒による聖体祭儀がふえて、ますます汚聖が増えるんだろうなと思ったりしてます。

だから、ますます霊的聖体拝領が増えるんだろうなと。

今日は、歯茎が痛くてそれどころではありませんでした。

歯がいたくなると決まって体調が悪くなります。

困ったもんです。

なんか、最近思うんですけど、ミサの30分くらい前から聖堂に入っていない人が多いなぁって。

別に悪くはないんだけど、ロザリオとか、十字架の道行なんかを祈るのがわかっているときは早めに来て祈るのがいいんじゃないかな?って思います。

家で祈らないなら、そうしたほうがいいんじゃないかな?って思います。