あしあと ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、 わたしと語り合ってくださると約束されました。 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、 あなたが、なぜ、、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時にあしあとがひとつだったのは、 わたしはあなたを背負って歩いていたからだよ。」
有名なカトリックなら定番の詩だ。
でも、暗闇の人生を歩いていたならわからないし、感じられないだろう。
これが本音だ。
神様に見捨てられ、人間に見捨てられ、様々のものを失い、その上で神様に背負われているなんて感じられない。
いや本当はこうなのだ。
神様は私達のためにありとあらゆる苦しみをうけ、そして聖体を与えてくださり、聖霊をも送ってくださった。
神様にもう出来ることはないのだ。
それが、神様が沈黙されていると我々が感じる理由だ。
神様は私達を背負わない。
神様は私達を絶えず憐れみつづけ、赦し続けている。
これが私が神様に信頼する理由だ。
なおも私達をイエズス様に背負わすなんて出来ない。
むしろ、イエズス様が聖体のうちに私達と同化し、一緒に背負ってくれているのだとおもう。
そして、背負えなくなった重荷に対してはイエズス様が力を貸してくれる。
そうおもう。