moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

心とネットワークの類似性・・・雑感

2006-10-26 | エッセー(雑文)
心には目に見える形があるわけもないのに、
心は「砕け散る」

心とネットワークのあり方は、とても似ている。

意識は記憶、特に想起する働きによってその特有性(個性)を
発揮する。
ネットワークでは、情報検索のリテラシー機能で、
その個性が発揮される。

心は特に意思疎通に言葉を使用するが、そのつながりは
身体性のもつ機能「共振性」といえるような繫がりによって、
保障されているのではないだろうか。

ネットワークを維持するハード面も物理的な「共振性」によって、
保障されている。

だからといって、単純に身体が機械であるということを
肯定するわけではない。

問題なのは共振とか共感とかいわれる現象に重点をおき、
考察する姿勢・スタンスをパラダイムに与えることではないか

共感や共振によって形成されたものが心だとするなら
その心が砕けるとは、自分の心であっても
<自分一人=孤立した自分ではなく>
ある意味・あるかたちのネットワークが形成されていたものが
壊れるということ、繫がりが破砕されてしまうということではないか

しかし、そのとき人は孤立感を深め、すべてのネットワークから
遮断されているかのように思うのであるが、
だが、心が痛みを感じているなら、他のネットワークに繫がっていて
他のネッワークの形を形成し続けているのだろう。

つまり心が心であるかぎり、けっして孤立はしていないということである。
必ずそのネットワークは繫がっている。

絶望は、そういう意味では、他者の悪意による陥穽に落ちた
現象であり、もしくはウィルス感染した状態と考えるべきだろう。
そういう意味では、本来、自殺ということはありえない現象なのである。
悪意というウィルス感染によって、追い詰められた状態が
たとえば、イジメということであり、そうじて自殺を選択する
理由ではないか。