moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

坂口安吾「堕落論」を読んで

2006-02-13 | エッセー(雑文)

坂口安吾(1906年~1955年)の「堕落論」角川文庫を読んでみた。
この作家の小説を読んだことがないので、この「堕落論」というエッセイ集がお初となる。
どうやら戦後のモラル混乱期に、戦前の日本モラルを否定し新たなる倫理再生を
試みるために、書かれたもののようである。
特に「日本文化私観」「青春論」「堕落論」「続堕落論」「デカダン文学論」
「戯作者文学論」「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」までの
戦前の倫理批判に向かおうとする姿勢は面白い。
「日本文化私観」は1943年に刊行されたらしいので、36歳前後の書いたものと思われる。
東洋大学文学部印度哲学科やアテネ・フランセで語学習得に余念がなかったらしく、
どちらかといえばフランス哲学的な左翼ぽい傾向がうかがえるが、
明治以来の戦前軍国主義的なモラルの「反運動思想」の動機が強く、
それより以前の日本武士社会のモラル性を、本人は気づかず拠り所としている様なところが
妙に愛嬌がある。特に「青春論」の中で語る剣豪宮本武蔵論は、実利的人物像として描いている。
剣に高尚な極意などなく、相手より先に切るためのスキル上げこそが剣術の本道であり、
それにともなう形式的な心構えにこだわることは、劇画的な滑稽さにすぎない。
武蔵の剣術は即妙の奇跡の賭けのような剣術であり、実力をはみだしたところで勝負する
賭け事の世界の剣術であったと分析している。
それを安吾は「リン落」といいい、「続堕落論」では「リン落」のすすめを盛んにけしかけ、
「封建遺制のカラクリ」から転落し、裸となって真実の大地に立たなくてはならないと主張する。
ここだけを取り上げるとモラルの再生を訴えかけているように思えるが、
安吾の場合「堕落」こそが人間の実相であるという東洋哲学的に帰るのが面白い。
「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」のなかでも、その性の欲望を
体制を批判することで、肯定しながら
堕落は制度の母体であり、「カラクリにたより、カラクリをくずし」生々流転の繰り返しが
人間の実相であり、それをきびしく見つめ、少しずつよく生きることが、我々になしうることに
すぎないという論旨をくりかえすことになるようだ。

サルトルの実存主義やレヴィ=ストロースの構造主義との交流があれば、もっと進展した
個人や組織間における対立抗争の論を展開できたのかもしれないが・・・
(特にサルトルとはほぼ年代が一緒なので60年代も存命なら、
サルトルより学生らに影響が強かったかもしれない。
さらに、記号論のバルトとの交流があればどうなっていたんだろうか)

現在のニートやひきこもりさらにオタク的な「青春」は安吾的には「リン落の青春」のひとつと
考えられるかもしれないが、奇跡の賭けで勝利する天才的な「努力」をおしむなかれという
暗黙の前提と、限度を知るという戦いを決意する安吾との距離は大きい。
が、やはり青春のただ中にある「ニートやひきこもりさらにオタク」は、
安吾「堕落論」角川文庫を読むことで、ステップアップもしくは
スキル向上につながり、もし二律背反的な迷いにあるとするならば、
いいキッカケとなり振り切れるかもしれない。
特に自嘲的高校生の春休みの読書には最適かもしれない。
 

坂口安吾について以下参詳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE