近所のドーナツカフェは、主婦の社交の場である。
そう頻繁に行くわけではないが、行くたびに、声高く、誰それの噂話や、近況報告で盛りあがっている。
携帯片手に、
「今、ミスドにいるから、おいでよー」
といったようなメールを本人に直接打てるようになったのが、
集まりやすくなった所以である。
米粉ドーナツの試食券が広告にはいっていたので、早速出向く。
隣に座った二人組。
仮にAさんとBさん。
Aさんは、別の友人Cさんに、ご立腹の様子である。
太ってる割には神経質だと、しつこく言われたのが、そうとう気に食わぬらしい。
向かいに座ったBさんに、何度も言い募っては、うっぷんを晴らしている。
「太ってる、太ってる」と、あまりにも連呼するので、
どれどれ、とわたしは隣から、彼女の体型を、盗み見る。
まあ、丸顔ではあるが、痩せてはいない。
はっきりと太っていれば、むしろ人はその話題を避けるものだ。
そういう意味では、からかいやすい微妙なレベルとも言える。
その後、過去のあの事、この事、具体的なj事例をあげて、結果、
「Cさんたら、自分のことは棚に挙げて、他人の悪口ばかり言うホントにいやな奴」
と言う結論に達した模様である。
そういうあんたたちが、今、盛り上がっているのは、ほかでもない、他人の悪口じゃないのか??
と隣から、突っ込みを入れたくて仕方がなくなってくる。
こういう社交の場面に交わっていなくてよかったと思いつつ、ガラス越しに日差しを浴びて、
ぽかぽかと身体も温まったので、店を出る。
先日、職場で、『副所長と運転手さんを囲む会のお知らせ』
が回覧されてきた。
ふたりとも、3月いっぱいで、定年退職されるのである。
出席なら○、欠席なら×。
わたしは管理課の親睦会に入っていないということもあって、当然×をつけた。
しかも、待ってましたとばかりに、ボールペンでくっきりと。
同じ欠席でも、遠慮勝ちに小さく鉛筆で、×を書いて、その横に、
残念ですが、とか、どうしても抜けられない用事があって…などと言い訳がましく、
あ、イヤ、礼儀正しく書かれる方もいるようだが、
むろん、そんなことは、書かない。
それで、何となく自己主張的になっているつもりになっている自分が可笑しい。
一体何を自己主張したいのか、わからない。
「価値観の問題なんです。自分が価値をおかないことに、
無駄なエネルギーと時間を注ぎたくないので。
他にもそう思っている方、多いと思いますよ」
などと、聞かれもしないのに、そう宣言している自分を想像して、いい気になっている。
言っていることはもっともらしいが、何だか不遜極まりない。
みんなが慣れ親しみ始めると、おいてけぼりを食ったように感じ、
段々他人と距離を置き始める傾向が、わたしにある。
関係性づくりが他人と逆行しているのである。
それを思えば、自己主張だの、価値観だなんて大層なことではなく、
単に、人と馴染めないことをヒガンでいるだけじゃないの、という考え方もある。
ともあれ、 ○の行列の中の、たったひとつの大きなバッテン。
寂しさと引き換えではあるが、スッキリしたのは事実である。
今から想像できる場面がある。
場所は、老人ホーム。
縁あって入居したとする。
そこでは、お決まりのリクリエーションとして、ボール投げがある。
みんなで輪になり、歌に合わせてボールをパスしあう。
散切り頭のお爺さんや、お婆さんが、無表情で、飛んできたボールに手を伸ばす。
合間に、やたらに元気な施設職員の掛け声と褒めのセリフが響く。
落っことしたって、誰も、咎めたりしない。
そもそも、落ちようが続こうが、どうだっていいのだ。
離れたところに、ポツネンとわたし。
加わっていなくても、目は、輪の中にいる、お気に入りの職員に注がれている。
わたしゃ、しないね、子供じゃないんだから。
一体何が面白くてあんなこと、してるんだか。
自由参加だろ?それなら、別にいいじゃん。
(年寄りが、語尾に”じゃん”ってつけるのって違和感あるけど、多分お国訛りとして、
一生治らないんだろう)
カチカンの問題ですよ。
誘われもしないのに、お断りする場面を、何度も何度も
頭の中で反芻する。
誘ってくるのは、もちろんお気に入りの職員である。
それで、自分はほかの人とは違うんだわい、と主張したつもりになっている。
でも、実際には、どこからどう見ても、だたの散切り婆さんに過ぎない。
そもそも、ドーナツのタダ券持っていそいそとお店に行くようでは、
俗世から離れることなど、できないのである。
慰問で配られるおやつも、関心ないフリして、車いすの爺さん婆さん押しのけ蹴散らし、
実は一番に駆けつけていたりするんだろう。
なんて小憎らしい。
そうと、わかっていても、かわいげのあるお婆さんには、なれそうにない。
そう頻繁に行くわけではないが、行くたびに、声高く、誰それの噂話や、近況報告で盛りあがっている。
携帯片手に、
「今、ミスドにいるから、おいでよー」
といったようなメールを本人に直接打てるようになったのが、
集まりやすくなった所以である。
米粉ドーナツの試食券が広告にはいっていたので、早速出向く。
隣に座った二人組。
仮にAさんとBさん。
Aさんは、別の友人Cさんに、ご立腹の様子である。
太ってる割には神経質だと、しつこく言われたのが、そうとう気に食わぬらしい。
向かいに座ったBさんに、何度も言い募っては、うっぷんを晴らしている。
「太ってる、太ってる」と、あまりにも連呼するので、
どれどれ、とわたしは隣から、彼女の体型を、盗み見る。
まあ、丸顔ではあるが、痩せてはいない。
はっきりと太っていれば、むしろ人はその話題を避けるものだ。
そういう意味では、からかいやすい微妙なレベルとも言える。
その後、過去のあの事、この事、具体的なj事例をあげて、結果、
「Cさんたら、自分のことは棚に挙げて、他人の悪口ばかり言うホントにいやな奴」
と言う結論に達した模様である。
そういうあんたたちが、今、盛り上がっているのは、ほかでもない、他人の悪口じゃないのか??
と隣から、突っ込みを入れたくて仕方がなくなってくる。
こういう社交の場面に交わっていなくてよかったと思いつつ、ガラス越しに日差しを浴びて、
ぽかぽかと身体も温まったので、店を出る。
先日、職場で、『副所長と運転手さんを囲む会のお知らせ』
が回覧されてきた。
ふたりとも、3月いっぱいで、定年退職されるのである。
出席なら○、欠席なら×。
わたしは管理課の親睦会に入っていないということもあって、当然×をつけた。
しかも、待ってましたとばかりに、ボールペンでくっきりと。
同じ欠席でも、遠慮勝ちに小さく鉛筆で、×を書いて、その横に、
残念ですが、とか、どうしても抜けられない用事があって…などと言い訳がましく、
あ、イヤ、礼儀正しく書かれる方もいるようだが、
むろん、そんなことは、書かない。
それで、何となく自己主張的になっているつもりになっている自分が可笑しい。
一体何を自己主張したいのか、わからない。
「価値観の問題なんです。自分が価値をおかないことに、
無駄なエネルギーと時間を注ぎたくないので。
他にもそう思っている方、多いと思いますよ」
などと、聞かれもしないのに、そう宣言している自分を想像して、いい気になっている。
言っていることはもっともらしいが、何だか不遜極まりない。
みんなが慣れ親しみ始めると、おいてけぼりを食ったように感じ、
段々他人と距離を置き始める傾向が、わたしにある。
関係性づくりが他人と逆行しているのである。
それを思えば、自己主張だの、価値観だなんて大層なことではなく、
単に、人と馴染めないことをヒガンでいるだけじゃないの、という考え方もある。
ともあれ、 ○の行列の中の、たったひとつの大きなバッテン。
寂しさと引き換えではあるが、スッキリしたのは事実である。
今から想像できる場面がある。
場所は、老人ホーム。
縁あって入居したとする。
そこでは、お決まりのリクリエーションとして、ボール投げがある。
みんなで輪になり、歌に合わせてボールをパスしあう。
散切り頭のお爺さんや、お婆さんが、無表情で、飛んできたボールに手を伸ばす。
合間に、やたらに元気な施設職員の掛け声と褒めのセリフが響く。
落っことしたって、誰も、咎めたりしない。
そもそも、落ちようが続こうが、どうだっていいのだ。
離れたところに、ポツネンとわたし。
加わっていなくても、目は、輪の中にいる、お気に入りの職員に注がれている。
わたしゃ、しないね、子供じゃないんだから。
一体何が面白くてあんなこと、してるんだか。
自由参加だろ?それなら、別にいいじゃん。
(年寄りが、語尾に”じゃん”ってつけるのって違和感あるけど、多分お国訛りとして、
一生治らないんだろう)
カチカンの問題ですよ。
誘われもしないのに、お断りする場面を、何度も何度も
頭の中で反芻する。
誘ってくるのは、もちろんお気に入りの職員である。
それで、自分はほかの人とは違うんだわい、と主張したつもりになっている。
でも、実際には、どこからどう見ても、だたの散切り婆さんに過ぎない。
そもそも、ドーナツのタダ券持っていそいそとお店に行くようでは、
俗世から離れることなど、できないのである。
慰問で配られるおやつも、関心ないフリして、車いすの爺さん婆さん押しのけ蹴散らし、
実は一番に駆けつけていたりするんだろう。
なんて小憎らしい。
そうと、わかっていても、かわいげのあるお婆さんには、なれそうにない。