1週間ほど前、あることから、作曲家滝廉太郎について調べていたら、島崎赤太郎と言う作曲家を知った。この島崎赤太郎は私の出身高校の校歌の作曲家である。この歌を聞くと勇気が湧いてくるような歌である。そんなことから興味を持って島崎を調べた。彼は明治7年生まれ、東京音楽学校で学び明治26年卒業、そのまま母校の助教となり、明治35年3月ドイツのライプツィヒ王立音楽院へ留学オルガンと作曲を研修し明治39年に帰国している。
滝廉太郎が明治12年生まれであるから、島崎は5歳年上である。その彼はドイツに留学、病気の滝廉太郎の帰国を支援した後同じライプツィヒ王立音楽院に9月に入学している。年の若い滝の方が先に留学したことは、滝の方が才能があったのかもしれない。
帰国後は東京音楽学校の教授として「オルガン教即本」や大正天皇の「御大礼奉祝合唱曲」「最上川」等、多くの曲を作曲をしたが、何故か滝廉太郎のような今も歌われる歌曲はあまりない。しかし明治中期から昭和初期にかけて、わが国の楽壇リベラル派の最重要人物として、滝廉太郎や岡野貞一、中田章 信時潔らも島崎の影響を受けたことは事実である。しかしその業績はほとんど埋もれている状態である。
滝廉太郎には才能の素晴らしさと、23歳で夭折した悲運さがある反面、島崎は滝に代わってドイツに4年間も留学出来たこと。これはこれで才能があったればこそと思う。
しかし島崎赤太郎について、誤った伝聞が語られることが多いし、不利な記述をする著書も複数あると言う。
その原因は定かではないが、明治の音楽創成期に世にでた2人の才能はあまり変わりはなかったのではないかと思う。悲運な滝廉太郎はその業績を正しく評価されたが、島崎赤太郎は順調に生き過ぎたことへの風当たりが強く、事実とは違った評価がなされているのではないかと思った。
滝廉太郎から知った島崎赤太郎であるが、学校教育に残した業績は多い。それはそれで評価されているが、一面風評に基ずく俗説が伝えられているのは、残念なことである。
作曲家島崎赤太郎のことを知って感じた。
滝廉太郎が明治12年生まれであるから、島崎は5歳年上である。その彼はドイツに留学、病気の滝廉太郎の帰国を支援した後同じライプツィヒ王立音楽院に9月に入学している。年の若い滝の方が先に留学したことは、滝の方が才能があったのかもしれない。
帰国後は東京音楽学校の教授として「オルガン教即本」や大正天皇の「御大礼奉祝合唱曲」「最上川」等、多くの曲を作曲をしたが、何故か滝廉太郎のような今も歌われる歌曲はあまりない。しかし明治中期から昭和初期にかけて、わが国の楽壇リベラル派の最重要人物として、滝廉太郎や岡野貞一、中田章 信時潔らも島崎の影響を受けたことは事実である。しかしその業績はほとんど埋もれている状態である。
滝廉太郎には才能の素晴らしさと、23歳で夭折した悲運さがある反面、島崎は滝に代わってドイツに4年間も留学出来たこと。これはこれで才能があったればこそと思う。
しかし島崎赤太郎について、誤った伝聞が語られることが多いし、不利な記述をする著書も複数あると言う。
その原因は定かではないが、明治の音楽創成期に世にでた2人の才能はあまり変わりはなかったのではないかと思う。悲運な滝廉太郎はその業績を正しく評価されたが、島崎赤太郎は順調に生き過ぎたことへの風当たりが強く、事実とは違った評価がなされているのではないかと思った。
滝廉太郎から知った島崎赤太郎であるが、学校教育に残した業績は多い。それはそれで評価されているが、一面風評に基ずく俗説が伝えられているのは、残念なことである。
作曲家島崎赤太郎のことを知って感じた。