Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

旗本 中條景昭こと

2015-08-19 23:04:38 | Weblog

 先日市内教覚寺で牧之原開墾の話を聞いた。これは徳川慶喜を護衛し静岡に来た中條景昭隊長以下数百名は版籍奉還によって生活の糧を失った。その時中條景昭は、皆で話し牧之原開拓に入ることを決めた。そして、当時静岡藩大参事平岡丹波、藩政補翼の勝海舟らに申し入れた。その時の様子は勝海舟座談よれば、中條は「聞くところによると遠江国の金谷原は不毛の土地で、水路に乏しく、民が捨てて顧みざらること数百年に及んでいる。もし吾輩にこの土地を与えてくれださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」と誓った。彼は300人近い幕臣たちを統率して不毛の台地牧之原に踏み入り苦難の末牧之原台地を大茶畑に造り替えた。

 幕府崩壊によって旗本の多くは、慣れない商業や農業等に転職し生活も一変した。しかし成功したのはほんのわずかで、慣れない仕事で没落していったケースは数多あった。そんな中で、彼は、多くの幕臣を束ね茶農家になったことは成功者と云えるが、過去の栄光を断ち切り、明治7年神奈川県令の就任依頼があったが「自分は茶畑の肥やしになる」と云って辞退した。そして彼は牧の原台地で生涯を閉じている。魅力的人間であり、彼のことを調べた。

 彼は文政10年旗本の庶子として生まれる。青年期、山鹿流、心形刀流、北辰一刀流を習得。13代徳川家定に仕える。幕府が講武所を開設すると剣術教授方に就任する。大政奉還後は、慶喜の身辺警護するため精鋭隊を発足、当代一流の剣客として精鋭隊の頭に抜擢される。慶喜が水戸に退くときも、そして静岡に強制的に移住されることになったときも中條は慶喜に従い精鋭隊とその家族200人と共に静岡に移住する。それ以降のことは、上記に示した通りであるが、徳川の幕臣として最後まで徳川家を守ろうとした武人であり尊敬してやまない。

 同じ旗本の勝海舟より4歳年下であり、最初の旗本の石高はあまり変わらなかった。ただ海舟とは仲のよい友人であったようだ。江戸幕府が崩壊しないで継続していたなら、2人の栄達は中條にあったのかもしれない。しかし海舟は、時代を読む力があった。剣術は直心影流の免許皆伝とあるが武人としては中條の方が上と思われる。しかし海舟は蘭学を学び佐久間象山の知遇を得、またペルー艦隊が来航し開国を要求されると老中首座の阿部正弘は、鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。海舟の意見書が老中の目にとまり、幕府海防掛の大久保一翁の知遇を得る。これが海舟の人生の運をつかむところとなり、歴史上の英雄となった。しかし中條は茶農家として牧之原で77歳の生涯を閉じた。この葬儀委員長は勝海舟が務め、牧の原台地のふもと初倉村の種月院に葬られている。私は彼の生き方が好きだ。