Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

歴史演談を聞く(2)

2015-08-09 21:21:58 | Weblog

 7月29日市内のお寺で「江川担庵公との一日」と云う題で演談を聞いた。韮山の代官であった担庵が反射炉を造ったことはよく知られているが、外国から開国を迫られている時、勘定奉行吟味役として、国防を考え如何にして国を守るか苦悩する姿が描かれていた。ノンフィクションとはいえ、実話とは多少乖離したものと思うが、幕末の動乱期に如何にすべきかを考え行動した人物として魅力的人物であった。今も話の場面、場面をよく憶えている。

 この演者が静岡市の教覚寺の講堂で「鉄舟去薩埵峠危機」について9日午後6時から演談することを聞いた。因みに、この寺院は浄土真宗の寺で、その歴史は古く文暦元年元年(1234年)教祖親鸞が関東から京都に帰る折り、入江(清水)に居住していた光信房は親鸞の教えに帰依し、自宅を転じて一寺を建立した。これが教覚寺の起こりであった。その後元和2年(1616年)徳川家康の死去に伴い、家臣であった松平常慶が江戸の帰るとき、その屋敷を譲り受け、現在の地に移転した。明治に入っては、当時駿府藩の勘定組頭を務め、後に明治の大実業家となった渋沢栄一翁一家が、暫く教覚寺に寄宿していた寺である。それは現在まで受け継がれ、今も第21世を継承しているとのことであった。

 演談は、幕臣山岡鉄舟が、幕府の命を受け駿府伝馬町の松崎屋に陣を張る官軍の参謀、西郷隆盛に直談判し、江戸城無血開城を約す交渉を行なうため駿府に向った。しかし東海道の難所 であった薩埵峠に差し掛かったとき、警備の官軍の兵に見つかり危機に直面したが、由比望嶽亭の主人 松下七郎平の機転や、侠客清水次郎長の助けもあり、無事西郷隆盛と決死の直談判をするまでの話であった。山岡鉄舟のことは以前にも書いたが、それを倣った内容であった。しかし、この演談は続きがあった。その後蟄居した徳川慶喜を静岡まで護衛した旗本達は、刀や槍を鍬にかえ荒廃していた牧の原台地を開墾していく様も語られていた。時代の流れに翻弄されながら、新政府の役職を蹴っても大地に生きる旗本達の心根を感じた。

 明治維新を考えたとき、薩長等の勝者のことが語られるが、破れた幕府の徳川慶喜、旗本等の高級官僚が考えたことは、欧米の列強国がアジアを植民地化していく中で、その轍を踏まない様、国を割れて戦うことを避けたのでないか。江戸幕府は約250年続いて、その矛盾も露呈してきたと云え幕府には、人材も豊富であり、力もあったはずだ。しかし薩長等官軍が「錦の御旗」を掲げたとき、それに抗してまで戦うことは、日本を分断し外国の植民地になる最悪の道を避けたのかと思った。革命が起きず、維新と云う形で治めたのは、幕府軍の英断にあったのではないかと考えた。