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習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

男はつらいよ/今さら寅さん(1)

2020-02-16 15:24:51 | 映画
 2019~2020年の年末年始映画、『男はつらいよ/お帰り寅さん』がヒットしたらしく、私も年末に見たので、今さらながら『寅さん』シリーズの話を少々、と思った次第。

 しかし、そんなにヒットしたんだとしたら、やはり観客は既存の中高年ファンだったんだろうか。何しろ最終作だった『紅の花』が1995年。ということは四半世紀もブランクがあるわけで、その間に多少は若い世代の新規ファンができたとしても、わざわざ劇場に観に行く人のほとんどは私のような中高年だろう。
 たしかに、人口減の少子高齢時代なのだから、こういう人口の多い中高年を最初からターゲットにした映画の企画というのは、マーケティング理論上も正しいはずだ。まあ、山田洋次監督は、ヒット作を作りたいからというより、死期を意識する年齢になって、最後に改めて自らのライフワークにワンモアピリオドを、と純粋に思ったのだろうと、その動機付けを推察するが。

 映画そのものの感想はと言うと、『お帰り寅さん』は、前作『紅の花』(1995)からあまりに歳月が経っているので、シリーズものの一つとしての評価は難しく、あくまで、上記ワンモアピリオドとしての評価となる。で、まあ、吉岡秀隆の目つきがなぜか心底怖かったとか(※1)、後藤久美子の演技がちょっと棒読みで下手やなあとか(※2)、当たり前だけど後久美も老けちゃったよねとか(※3)、言いたいことはあるんだが(※4)、それでも、昔からのファンのために、冥土のみやげのプレゼントということで、今作るなら、ひとまず、あれ以上はないかなという感じか(※5)。

 さて、『寅さん』と言えば、国民的人気シリーズだけに、何百万という『寅さん』ファンそれぞれの『寅さん』持論がある。『寅さん』は初期に限るとか、リリーさん編がいいとか。おいちゃんは二度交替しているが、歴代で誰がよかったかとか、満男は先代の素人満男と吉岡秀隆とどっちがいいかとか(※6)。
 素人の先代満男について言えば、もともと90年代なかばまで50作近く続くシリーズになるなんてことは想定していなかったからこそ、満男役は「ただ背景として子どもがそこにいればいい」ぐらいの感覚で、撮影所の近所の子どもに出てもらっていたのだろう。最初から国民的人気長寿シリーズになるとわかっていれば、さくら夫妻の子どもには、杉田かおるのような上手い子役を充てていただろう(※7)。
 長く続くシリーズとわかっていれば、そもそも第一作に、さくら・博の恋愛、結婚、出産と全て詰めこまず、もっとじっくり時間をかけて描いていたろうし、全体で何作、あと何年といった見通しがはっきりしていれば、満男の弟や妹が生まれる物語もアリだったろうし(※8)、タコ社長の子どもも、いきなり娘が結婚なんていう唐突な現れ方でなく、思春期に反抗期、受験に恋愛というような十代の少女のドラマも多少触れたってよかったかもしれない(※9)。

 と、そんな周縁的な話題はともかくとして、『男はつらいよ』シリーズで、どのあたりの時期、どのあたりの作品を評価するかだが。まあ、大まかな時期で言えば、最初期を最も評価する、あるいは最初期しか認めない、という人はいるだろうし、脂の乗り切った73年頃から78年頃こそピークとする向きも多いだろう。一方で、80年代以降の後期の作品や、90年代の満男が完全に主役になってからの作品を、「これはこれで悪くない」と評する人はいるだろうが、さすがに後期や満男主役シリーズのほうが70年代の作品よりすきだ、とか、80年代~90年代の『男はつらいよ』こそが真の『男はつらいよ』だ、なんて言う向きは全くいないのではなかろうか。


 上記で、初期だの後期だのと言ったが、改めて時期別に整理するとしたら、私なら、こんな具合に整理するだろうか。

(1)初期:第1作(1969)~8作目『寅次郎恋歌』(1971)・・・ヤクザな若き寅(※10)のワイルドなパワーが炸裂する元気な最初期。初代おいちゃん・森川信、寅さんの母・ミヤコ蝶々の名人芸や、志村喬(たかし)、森繁久弥といった名優の助演も必見。

(2)過渡期その1(松村時代):9作目『柴又慕情』(1972)~13作目『寅次郎恋やつれ』(1974)・・・『寅さん』人気がいよいよ高まって、吉永小百合や浅丘ルリ子といったシリーズを象徴する人気マドンナが続々登場(※11)。冒頭の夢のシーンやマドンナを囲んでの団らんシーンなど、シリーズのパターンが確立(※12)。

(3)安定期:14作目『寅次郎子守唄』(1974)~24作目『寅次郎春の夢』(1979)・・・おいちゃんや満男などのレギュラーキャストも固定し、毎回安定したクオリティで、芸者ぼたんの回など、ファンに人気の高い回が次々に生まれたピークの時期で、いちばん安心して楽しめる時期。

(4)過渡期2:25作目『寅次郎ハイビスカスの花』(1980)~32作目『口笛を吹く寅次郎』(1983)・・・80年代になって、さくら夫妻がアパートからマイホームに越したり、満男が交替したりと、寅さん一家にも変化が見えはじめた試行錯誤の苦心と工夫の時期。物語フォーマットとしては、実は柴又とらやの比重が激減し、旅先の比重が圧倒的に大きくなった時期でもある。

(5)停滞期:33作目『夜霧にむせぶ寅次郎』(1984)~37作目『幸福の青い鳥』(1986)・・・さすがに息切れしてきたか、過去の人気作のセルフリメイクでしのぐも(※13)、勢いとしては衰えてきたことは否定しがたく、実際、キネ旬ベストテンからもめっきり遠のく。とくに『幸福の青い鳥』(1986)は絶望的な駄作。この時期のキーパーソンは美保純演ずるタコ社長の娘「あけみ」。

(6)末期:38作目『知床慕情』(1987)~41作『寅次郎心の旅路』(1989)・・・世界のミフネ(※14)の客演した『知床慕情』(1987)が久々のキネ旬ベストテン入賞というV字回復となって、そこから、寅さんの子連れ旅『寅次郎物語』(1987)、ターミナルケアと大学生の青春を描いた『寅次郎サラダ記念日』(1988)と水準作を連発し、めでたく有終の美・・・と言いたいが、ウィーンロケの『心の旅路』(1989)だけは救いようのない駄作(※15)。なお、この間、美保純の「あけみ」は知らぬまに退場し、とらやの店員の新キャラがいつのまにか登場。とともに、舞台のとらやが気づいたら「くるまや」に。でも、世の多くの人にとって、既に『寅さん』シリーズ自体が過去のものになりつつあって、どうでもよかったろうか。

(7)スピンオフシリーズ『満男はつらいよ』:42作目『ぼくの伯父さん』(1989)~48作目『寅次郎紅の花』(1995)・・・これらはもはや、『寅さん』シリーズとは言えないと私は思うので、私にとっては評価対象外なのだが、もし『ぼくの伯父さん』が最終作なら、それはそれで、そういう結末もありかなと言えたろう(※16)。



(※1)
それにしても、小学生の頃にあんなにかわいくて天才的な子役だった純=満男が、どうして十代後半以降はあんなに魅力のないルックスで大根演技をする俳優になってしまったんだろうか。
私見だが、吉岡秀隆は、芸能人稼業としては相対的に成功した子役あがりと言えるだろうが、演技力としては子どもの時がピークだったと思う。


(※2)
後藤久美子は女優業のギャップがかなり長かったし、もともと若い頃から演技巧者タイプじゃなかったんだし、これはまあしょうがないね・・・と言いつつ、空港でのキスのシーンは、ある種のオーラを感じさせた。もっとも、「たかがキス」とは言え、設定からしたら「不倫」になるのではと、気にならなくもないが。


(※3)
以下は私の単なる偏見的好き嫌いの話題なので、ファンの人には不快な物言いをお詫びするしかないが、どうも私は昔からこの後藤久美子という人をまったく評価できないのだ。
まあ、私にとって後久美は同年代であるし、その率直で飾り気ない人柄には比較的好印象を持っているのだが、『寅さん』時代、あるいはその前の時期の「後久美人気」というのは、どうしてもオスカープロモーションの茶番ゴリ押しだったと思えてならないのだ。
これは統計的な根拠のある話ではなく、あくまでミクロ的な印象論なのだが、後久美と同学年たる私の通っていた高校にも、当時のいろいろなアイドルのファンを自認する男子生徒が多数いた中、当時(89~91年頃)の一番人気はダントツで宮沢りえで、次いで牧瀬里穂、高岡早紀、渡辺満里奈、さらに当時まだ駆け出しの松雪泰子、観月ありさ、『高校教師』前の桜井幸子らが人気を集めていたようだった。たまたまかもしれないが、私の通っていた高校では、後久美ファンというのは全く見たことがなかった。ただ、繰り返しになるが、これは先述の通り、統計的エビデンスに基づいた話ではなく、あくまで、当時の私の周囲では、という地域と時間を限定した話である(ちなみに、当時の、ゴリ押しに実人気がついて行かなかった類例としては、喜多嶋舞もいるかな)。そういえば、これは高校時代より少し後のことだったかもしれないが、後久美のことを「フィリピンパブみたいな顔だ」と、差別的な、しかしなかなか言い得て妙な形容でディスってた知人もいたっけか(ついでのついでに、くだんの知人は、後久美の相方のアレジのことも、「フランス人というより、不法滞在のイラン人みたい」と評していて、思わず大笑いしてしまった)。
と、それはさておき、『男はつらいよ/お帰り寅さん』は、それまでまったく『寅さん』を見たことない人でも内容の理解自体はできるし、全盛期の『寅さん』しか知らない人でも感動はできるが、しかし既に巷で指摘されている通り、後久美シリーズの、『ぼくの伯父さん』(1989)と『寅次郎の休日』(1990)、『寅次郎の告白』(1991)、『寅次郎紅の花』(1995)あたり、とくに『紅の花』は見て踏まえておかないと、いちげんさんにはちょっとキツいかもしれない。(さらに、まったくどうでもいい余談の余談の余談だが、たしか後久美シリーズの2作目か3作目だったと思うが、満男の部屋にティンマシーンのポスターが貼ってあるという豆知識がある。『ドラえもん』の「タッチ手袋」で、ジャイアンがレッド・ツェッペリンのシャツを着ているというのと並ぶブリティッシュ・ロック・トリビアか。ボウイの大ファンだった昔の親友に教えてあげたい)。


(※4)
他にも、満男の娘があり得ないほどいい娘すぎて無理があるとか、そんなことも気になったり。そりゃあ、広い日本なので、絶対にいないとは言い切れんが、ここまで中高年男性から見て都合のいい、「理想の娘」は実際には限りなく皆無に等しいんじゃないか。たぶん、実際に中高生の娘を持つ親が見ても、実際の中高生が見ても、あり得ないだろう。
まあ、80の老人にリアルな若者を演出できようはずがないし、そもそも現実をありのままに描く趣旨ではなく理想を描く趣旨の映画があっても何も悪いわけではなくて、『寅さん』シリーズ自体もとよりそういうもんだが。
このあたり、山田洋次は、けっこう独裁者型の監督らしいから、たぶん誰も監督に意見することはできなかったんだろうなあ。末期の『拝啓車寅次郎様』(1994)で、新人サラリーマンの満男が、父の博に「かなわねえよなあ、親父にかかっちゃあ」なんて台詞を言っているが、94年時点でも十二分に古くさい、「若者がこんな言い方は絶対にしないだろ」という台詞だったんじゃないか(同じく、『ぼくの伯父さん』(1989)の満男の台詞「俺の自由なんて、猫の額ほどだよ!」も。19歳の若者が親に反抗する時にわざわざそんな古典的イディオムを使うだろうか?)。ついでのついでに、若い世代が使う死語・・・といえば、『寅次郎サラダ記念日』(1988)の三田寛子の置き手紙もそう。80年代の大学生が、「二時の『汽車』で帰ります」とは書かないだろ(笑)。当時の特急あさまは既に電気で自走してたし(たしかに中国人なら車で帰る時に「汽車で帰る」と言いそうだがw)。
また、かなり口うるさく細部をつっこむと、ホームドラマとしての家族間の会話ばかり書いているから、その癖で引っ張られたのか、シリーズ中、苗字で呼ぶべきところを下の名前で呼ぶ場面が多すぎるとも思う。
博が家の中で「博さん」なのはいいが、職場内でも常に「博さん」呼びなのはいかがなものか。社長は博の十代なかば頃からの育ての親らしいので、とくに若い頃は「博」、「博さん」でもいいが、いい年齢になって、社内ナンバー2のベテラン管理職になってからも、社長のみならず女性事務員からも下の名前で呼ばれているのは、やはり不自然だと思う。よほど、周りみんな同じ苗字の田舎とかでない限り、普通は苗字で「諏訪さん」と呼ばれるだろう。
同じく、満男も家の中では「満男」、「満男ちゃん」、「満男君」でいいが、小学校の先生、予備校・大学の友人、滋賀県在住の大学時代の先輩らも、全員ファーストネーム呼びなのは、やはり違和感がある。女子ならともかく、男子の場合は、小中学校でも高校でも大学でも、下の名前で友人を呼ぶことはあまり多くないはず。また、学校の先生は、学級内に同姓がいない限りは、原則、男女とも児童生徒を苗字で呼ぶものである(子どもを一個人として、社会的存在として扱うなら、それが当然)。
さらに、27作目『浪花の恋の寅次郎』(1981)の対馬の彼氏がとらやに電話してきて「マコトです」と名乗ったこと、32作目『口笛をふく寅次郎』(1983)のカメラマン志望の中井貴一がとらやを訪問してきて「カズミチです」と名乗ったこと、そして37作目『幸福の青い鳥』(1986)のマドンナが同じくとらやに来た時に「ミホです」と名乗ったことなども、社会人として明らかにおかしいと思うのだが。親戚のおじさんの家じゃないんだからね。まあ、彼らはまだ若いから千歩譲って目をつぶるとしても、あまつさえ、28作目『寅次郎紙風船』(1981)のクリーニング店の旧友まで、いい年して、とらやで「ヤスオです」と挨拶していたのは、やや非現実的ではなかろうか(他では、とらや内だけでなく、旅先でも21作目『寅次郎わが道をゆく』(1978)の武田鉄矢がさくらに「トメキチです」と自己紹介しているし、40作目『寅次郎サラダ記念日』(1988)のサブマドンナが寅さんと初めて会ったときにも「ユキです」と自己紹介している。後者は叔母さんがうちの姪、と寅さんに紹介した流れ上だからまだしも、前者はいい年した大人としてあり得ないかな。まあ書いていて嫌になるぐらいに野暮な指摘ではあるが・・・)。
他にもまだある。36作目『柴又より愛をこめて』(1985)でのタコ社長の娘・あけみの台詞「私、人妻なの!」だって、普通は「私、結婚してるの!」ぐらいが適切だろう。70年代ロマンポルノのタイトルじゃあるまいし、現実の会話で「人妻」なんて単語はそうそう使うもんじゃなかろうに。
あと、28作目『寅次郎紙風船』(1981)で、マドンナが「私、カラスの常の女房です」と自己紹介していたのも、不自然かなあ。テキヤ階級のことはよく知らないが、一般的には「妻です」とは名乗っても、「女房です」と、自分で名乗るか?(ついでのついでながら、この時のマドンナが三人称で夫のことを「亭主」と呼んでいたのも、同様にテキヤ階級はいざ知らず、一般的にはあまりないだろうね。何作目か忘れたが、さくらも博のことを、「これ、うちの亭主」と紹介していたような?まあ、普通は三人称で夫のことを言うときは「主人」か「夫」か苗字呼び捨てか、だよね。教養ある人なら。ちなみに、三人称で夫のことを「旦那」と呼ぶ人も多いが、知性も教養も夫への最低限の敬意もいずれもまったく感じられない、実に耳障りで嫌な呼称だね(私見)。自分の夫を三人称で「旦那」と呼ぶ人は、夫が自分のことを三人称で「女房」と呼んでいても文句は言えないでしょ)
・・・で、話がそれすぎたんで、『おかえり寅さん』の満男の娘に話を戻すと、実はよ~く考えたら、上記の、満男の非現実的に素晴らしすぎる娘と、タコ社長の娘・あけみのドイヒーな息子が同年代というのは、満男とあけみの年齢差からしたら不自然なことかもしれない(なお、この作中での満男の娘とあけみの息子の対比は、「子どもには大当たりの子どもと大外れの子どもがどうしてもいる」という厳しい現実を教えてくれるという面もあって、遺伝子のせいなのか、しつけのせいなのか、単なる運・不運なのか、あけみが外れをひいたのは本人の責任なのか運が悪かったのか・・・と、いろいろ考えさせられるところもある)。
あと、もう一つだけ、無粋な揚げ足取り。『おかえり寅さん』で、あけみが満男の著書『幻想女子』を「げんそうおなご」と読み間違える・・・って、そんなこと、あり得まへん(笑)。「じょし」と読むより「おなご」と読むほうがよっぽど難しいでしょ(笑)。


(※5)
とにかく、この『お帰り寅さん』で誰がいちばん存在感があったかと言えば、それは主人公の吉岡秀隆でも、ヒロインの後藤久美子でもなく、倍賞千恵子でも浅丘ルリ子でもなく、前田吟でも池脇千鶴でもなく、もちろん夏木マリでも橋爪功(そういえば、なぜ後久美の父親役はオリジナルの寺尾聡じゃなく橋爪功に代わったんだ?寺尾聡と山田洋次の間で何かあったのか?)でもなく、そこにいない渥美清であったという事実。これこそ、渥美清の偉大さを物語るものであろう(「不在の存在感」という逆説は、映画で言うと、ヒッチコックの『レベッカ』(1940)のタイトルロールのことを思い出す向きも多かろう)。
否否両論の物議を醸した桑田佳祐のオープニング主題歌起用も、エンディングまで見ると、むしろ引き立て役効果というか、エンディングの「本物の歌」のありがたみがより一層、ひとしおになるという意味で、案外成功だったのかもしれない(サザンファンの人には悪いが、もし仮に、エンディングで、桑田の歌声が大音声で流れていたら、と思うと、悪い意味でゾッとする)。
ちなみに・・・また話がそれるが、個人的には、満男が『おかえり寅さん』で、小説家になっていたことは、「残念」の一言である。
だって、観客はそれまで、浪人したり、三流大学ゆえに就活に苦しんだり、慣れない営業マン仕事に悪戦苦闘したりと、無様に必死にもがきがんばる「等身大」の満男に感情移入し、応援してきたのだから。
それが、八重洲ブックセンターでサイン会を開く有名作家になっているなんて・・・それまで文芸好きなどという伏線が一切なかったことには一億歩譲って目をつぶっても、「みんなの満男君」、「となりの満男君」が遠くに行ってしまったような寂しさを覚えた人は少なくないのではなかろうか。
もちろん、作劇上の都合として、サラリーマンよりフリーランスのほうが動かしやすかったこと自体は理解するけれど(あと、満男だけでなく、なにげに泉ちゃんの現在設定も無理がある。外国人と結婚してヨーロッパに移住、フランス語が堪能で国連勤務というのは、中の人が実際に外国人と結ばれてフランス語を話せるヨーロッパ在住の人なので観客も違和感を持たなかったかもしれないが、もともとの泉ちゃんの設定上の学歴、職歴、成育歴を考えたら、普通そうはならないだろうな)。


(※6)
私が子どもの頃、両親とも『寅さん』ファンだったので、テレビで『寅さん』が流れるときには親と一緒についていけないながらも見ていたものだが、車竜造は寅次郎とさくらの「叔父」なのに、「おいちゃん」と呼ばれているのが不思議でならなかった。「おじ」と「おい」では真逆なのにと。もちろん竜造さんが寅さんの甥っ子には絶対に見えないしと。
それはさておき。おいちゃんの歴代では、喜劇メンバーとしての「巧さ」で言ったら、テレビ版以来の初代・森川信が別格で、二代目の松村達雄も三代目の下条正巳も比較にすらならないが、個人的にすき、というより見慣れているから「しっくりくる」おいちゃんは、下条正巳のおいちゃんであり、満男も吉岡秀隆になる前の先代の素人満男のほうである。とらやの茶の間には、その組み合わせが自分にとって「絵的に落ち着く」のだ。
先代の満男は、たしかにかわいいわけでもなく、何の「演技」もしているわけではない、本文に書いた通り、大船撮影所の近所にいた子どもをただ背景として出しただけに過ぎない。なので、あくまで素人の先代満男のままでは、やがて中学、高校と成長して、台詞も増え、物語に絡んで・・・は無理だったろう。先代の素人満男にたとえノスタルジーを感じても、思春期、青年期と、満男を成長させるためにはプロ子役の吉岡秀隆との交替は不可避だったろう(それにしても、おいちゃんもそうだが、満男は、中の人が交替したことで、キャラクターまで随分と変わってしまった。改めて70年代の全盛期の作品を見て気づくことは、満男のキャラの後の時代とのギャップだ。先代満男は、とにかく脳天気そのもので、とても吉岡版の満男のようなイジケた青年に成長しそうには見えない。まるで別人・・・って、だからまあ、本当に別人なわけだが(笑)。もしあのまま先代の満男がずっと出続けていたら、どうなっていたのだろう。そしたら、元気モリモリ、ごはんモリモリで、中高とも運動部にでも入って大暴れして、体育会パワーで進学も就職も社会人生活も何ら行き詰まることなく、恋愛に悩んで家出とか就活に悩んで家出なんてことは間違ってもなく、「おじさんはいいよなあ、悩みがなくて」どころか、「満男はいいねえ、悩みがなくて」と、寅おじさんのほうが羨ましがってたんじゃなかろうか(笑)。まあ、もっとも吉岡の満男も、『ぼくの伯父さん』(1989)で主役昇格する前は、『真実一路』(1984)や『青い鳥』(1986)や『サラダ』(1988)の時など、実はかなり女の子にモテモテで、内気でもオクテでもなかったんだが。これはけっこう見落とされがちなご都合主義的キャラ変である)。
なお、上で私は「先代満男」と書いているが、厳密に言うと、満男は5代4人である。
初代は、第1作(1969)の乳児時代で、石川雅一。プロ子役ではなく柴又の和菓子店の一般人だそうな。赤ちゃんなので、個性も演技もヘッタクレもないが。
2代目が2作目『続・男はつらいよ』(1969)~8作目『寅次郎恋歌』(1971)の中村はやと。こちらもプロ子役ではなく、先述の通り、大船撮影所の近所の電器店の子どもに出てもらったらしい。
で、その中村はやと少年が何らかの事情で出られなかった9作目『柴又慕情』(1972)だけ、代役の沖田康浩。これが3代目。この人は児童劇団所属の子役だったらしい。1作だけでセリフもほとんどなかったので、「満男が普段と違う」ことに気づかなかった人も多いだろうが、注意してよく見ていれば、いつもの満男より髪が長く、「いいとこのお坊っちゃん」ぽい雰囲気だと気がつくかも。
その後、上記の中村はやと少年がまたすぐに4代目として復帰して、10作目『寅次郎夢枕』(1972)から26作目『寅次郎かもめ歌』(1980)まで、幼稚園から小学校高学年まで、長く務める。この間に、浅丘ルリ子にチューされたり(11作目)、後ろから吉永小百合の胸を触ろうとしたその手を払いのけられたり(13作目)、学校の作文で騒動を起こしたり(23作目)、「オナラブー!」(12作目)、「ウルトラマン変身!」(14作目)、「タイ焼き~」(19作目)、「電線マン死ねーっ!」(20作目)、「イヒヒヒヒ~」(22作目)、「ミジメー」(22作目)、「タイガー!」(24作目)といった寅さんファンにひそかに人気の迷言・珍言を残したりする(しかし、先代満男のセリフって、ほとんど一単語だな(笑)。中村満男の全セリフ合わせても、吉岡満男の一作分より少ないんじゃないか??)。
そして、27作目『浪花の恋の寅次郎』(1981)から最終作『寅次郎紅の花』(1995)までの5代目が、ご存知、吉岡秀隆となる。この時点で『遥かなる山の呼び声』(1980)で山田組を経験済みで、自身の代名詞たる『北の国から』(1981~2)も撮り終えていたプロ子役が、満を持して登板。
そんなわけで、一般には満男と言えば、「純君の満男とかわいくないほうの満男」の2人と認識している人が多いだろうが、5代4人というのが正確なところとなる。まあ、実質的には中村はやとと吉岡秀隆の二人という印象になるのは無理からぬところだけど(ちなみに本数では中村が最多、期間では吉岡が最長となる)。


(※7)
1969年の映画『男はつらいよ』第一作はご存知の通り、その前年に始まったテレビドラマを映画化したもので、寅さんとおいちゃん以外はレギュラーキャストが入れ替わっている。さくらが長山藍子から倍賞千恵子に、博が井川比佐志から前田吟に、という具合に。
おそらくさくらが倍賞千恵子になったのは、配給元に決まった松竹が自社の看板女優だからというので倍賞千恵子の起用を推してきたのかもしれないし、それ以前から倍賞千恵子を重用してきていた山田洋次監督の意向もあるだろう(ちなみに、テレビ版は第1話と最終話だけ映像が残っているので、そこで長山藍子のさくらが見られるが、橋田ドラマに見慣れている目で見ると、ついつい長山藍子といえば姉キャラという先入観にとらわれてしまい、長山藍子の妹キャラというのはどうも違和感がある)。
また、博が井川比佐志から前田吟になったのも、博の職業設定がインテリからブルーカラーに変わったからというのもあろうが、それよりやはり山田洋次自身が前田吟をかねてから気に入っていたということなのだろう。
おばちゃんも、テレビシリーズのときの杉山とく子という『キューポラのある街』(1962)で吉永小百合の母親を演じていた俳優座の女優から、おなじみの三崎千恵子に変わっているが、これは映画化されたときに杉山とく子がスケジュールの都合がつかなかったからという経緯らしい。もし四半世紀に渡って50本近く続く国民的シリーズになると最初っからわかっていれば、杉山とく子は無理してスケジュールを空けてでもレギュラーポジションを死守したに違いない。そう考えると、この杉山とく子という人は運が悪かった、本当に。逆に、三崎千恵子は運が良かった、本当に(なお、私自身は、見慣れているからというのもあるだろうが、ご多分に漏れず、テレビ版で見られる杉山とく子のおばちゃんより、映画版の三崎千恵子のおばちゃんのほうが、やはりいかにも「これぞ日本のおっかさん」然としていて、よかったと思う)。山田監督も杉山とく子のことを不憫だと思ったのだろうか、せめてものお詫びに、ということか、第5作『望郷篇』(1970)、第29作『寅次郎あじさいの恋』(1982)のマドンナの母親や、第35作『寅次郎恋愛塾』(1985)のアパートの管理人のおばさんなどでたびたび杉山とく子に仕事をまわしている。第20作『寅次郎頑張れ!』(1977)では、パチンコ屋で隣に座っているおばさんという、ただそれだけの、台詞のない役ながら、なかなかの存在感で強い印象を残している。これらゲスト出演作の中で代表作と呼びたい重要な役が、言うまでもなく第44作『寅次郎の告白』(1991)の鳥取のおばあさんである。


(※8)
もし妹がいたとしたら、配役はもちろん中嶋朋子だ・・・と妄想したい人がいても無論OK。
ただし、真面目な話としては、年の近い兄妹では『北の国から』の純&蛍とかぶるので、満男のほうは差別化で、年の離れた姉弟にでもしたほうがよかったかも(それじゃ『オレゴンから愛』になっちゃうかw)。


(※9)
タコ社長の子どもは、実は初期の第6作『純情篇』(1971)に台詞はないながら男女あわせて4人ぐらい出てきていたのだが、その後はほとんど触れられることもなく、十数年後の33作『夜霧にむせぶ寅次郎』(1984)で、いきなり娘の結婚式という話題で再登場し、しかもそれ以降はまるで一人娘であるかのような扱いになっていたのも不思議なことではある。
不思議といえば、美保純のタコ社長娘は、いつのまにか何の断りもなくレギュラーになったかと思えば、またいつのまにか何の断りもなく消えていたのが不思議なところで、山田洋次との間に何があったのかと様々な憶測が乱れ飛ぶもとにもなったわけだが、それが『お帰り寅さん』でちゃっかり復活していたのもサプライズであった。まあ、たしかに太宰久雄亡き今、美保純を出さないと、「裏の工場のタコ社長」をしのぶよすがが何もなくなっちゃうから当然か。
と、それはさておき、美保純の『寅さん』レギュラー時代の代表作と言えば、疑いなく、36作『柴又より愛をこめて』(1985)であろう。停滞期の作品ではあるが、ここでは美保純がもう一人の主役と呼ぶべき大活躍で、ストーリーの骨子は、後の90年代の満男主役シリーズの紛れもないプロトタイプである。


(※10)
ここで、寅さんの年齢について、ちょっと考察したい。
作中で明確に寅さんの生まれ年が出てくるのは26作目『寅次郎かもめ歌』(1980)。ここで1940年生まれと書かれた寅さんの履歴書が映る。ということは、この26作目の時点で満40歳ということになる。
そしたら、1作目(1969)の時点では29歳ということか?でも、1作目の冒頭で、「20年前に家出して、20年ぶりに柴又に帰ってきた」と言っている。9歳で家出してそれっきりというのは無理がある。そもそも26作目の作中での、中学中退という経歴とは明確に矛盾してしまう。寅さんは、28作目『寅次郎紙風船』(1981)で、柴又小学校をちゃんと卒業したと明言しているんだから、9歳で家出しているはずはない。
だから、まあ、15歳で家出して20年経ってから1969年の第一作の時に柴又に帰ってきた、という設定を尊重して考えるならば、1934年頃の生まれで、第1作の時は35歳ぐらいということになるか。
そうやって年齢を重ねていくと、ヒゲ男に看護師さんを奪われた頃に40歳、課長さんを探しに鹿児島に行った頃に50歳、カメラ好きの奥さんと琵琶湖で出会った頃に60歳といった具合か(そして、『おかえり寅さん』(2019)では、仮にどこかで生きていたとしても85歳という後期高齢者になる・・・)。
渥美清の実際の生まれ年が1928年らしいので、中の人とは6歳差。ま、こっちのほうが、蘭ちゃん回で語られた(騙られた?)1940年説よりはずっと無理がない。
ただし、普通「寅次郎」という名前は寅年生まれの二男につけられる名前である。昔の日本の、とくに農村などでは、辰年生まれの長男が龍太郎か龍一郎、未年生まれの三男が羊三郎、亥年生まれの四男が猪四郎(ゴジラ?)、丑年生まれの五男が丑五郎、女子なら酉年生まれのトリ子に戌年生まれのイヌ子、みたいな安易な命名がとても多かった。その伝でいくと、寅次郎は寅年生まれと考えるのが自然なので、生年推定時期付近だと、1926年か1938年の二択となろう(その発想法だと、異母兄の「龍一郎」は1916年生まれか1928年生まれで、寅さんと10も年齢が違うことになってしまい、家族写真の印象とはかけ離れすぎてしまうが・・・)。
前者だと渥美清本人よりさらに年長で、第一作の時点で43歳になる。そしたら、「20年前の家出」はとうに成人した23歳の時となってしまい、中学校中退というエピソードと矛盾してしまう(そもそも旧学制の世代になってしまうし)。しかし、後者だとしたら、蘭ちゃん回の話での1940年説と同様、小学生のはずの11歳で家出しなければならないので、やはり無理である。
ゆえに、第一作の「1969年から見て20年前に家出し、その際に中等教育をドロップアウト」という設定を活かすなら、寅年云々のこだわりは捨てて、蘭ちゃん回での公式もサバを読んだんだと強引に解釈することでスッパリ無視して、先述の1934年頃の生まれと考えるのが妥当なところだろう。


(※11)
短い期間ながら人気作の多い松村時代は、ローリング・ストーンズでいうなら、ミック・テイラー時代みたいなものか。
そうすると、松村達雄がミック・テイラーに該当するんなら、個性溢れる初代の森川信がブライアン・ジョーンズ、結果的に歴代最長となった温厚な3代目の下条正巳が、同じく結果的に最長となった温厚な3代目のロニー・ウッドってところか?
そしたら、相方の三崎千恵子がキース・リチャーズ?かなりイメージ違うけど(汗)。せめて、ビル・ワイマンぐらいに(笑)。
で、前田吟がチャーリー・ワッツ、太宰久雄がイアン・スチュワート、倍賞千恵子がキース・リチャーズ、そして、渥美清がミック・ジャガーってことで(無理やり過ぎ)。


(※12)
過渡期1は、お盆とお正月の年2回の2本立て興行というスタイルが確立した時期でもある。
『寅さん』は結果的に四半世紀に渡る長寿シリーズになったがゆえ、末期の頃には、はからずも日本映画全盛時代のスタイルを今に伝える「生きた化石」になった。
すなわち、戦前から50年代・60年代まで当たり前だった、「オープニングでクレジットは全部出しきる」、「エンディングではシンプルに『終』マークをドンと出しておしまい」、「1時間半ぐらいの映画を2本立てで興行」という邦画黄金時代のスタイルを、90年代まで保っていた稀有な作品であった(70年代のジャンプコミックスの様式を21世紀まで「生きた化石」的に継続していた『亀有』単行本の巻末コメントコーナーみたいなものかw)。
まあ、90年代には、『息子』(1991)や『学校』(1993)といった他の山田作品では既に、同時代のほぼ全てのメジャー映画と同じエンドクレジットスタイルになっていたし、歳月を経た『お帰り寅さん』でも、さすがにそうなっていたが。
ところで、古い映画では、富士山マークや波三角マークの後、すぐにタイトルとクレジットが出つくして、そして映画の最後は「終」マークで簡単に締めくくられるのが当たり前であったわけだが、それに対し、今はほぼ全て、富士山マークや波三角マークとそれに続く製作委員会各社のロゴマークの後は、アヴァンタイトル(コールドオープン)という短い導入ドラマがすぐ始まる。それで、キリのいいところでタイトルが出て(『うる星やつら2/ビューティフルドリーマー』(1984)なんて、あまりにもいつまで経ってもタイトルが出ないので、みんな完全に忘れてたら最後に出てくるという、かなり挑発的な作品だ)、主要キャストと主要スタッフだけ物語を進行させながら簡単に表示し、映画が終わったときに全てのキャストとスタッフをズラズラ出す長いエンドロールとなる。
だいたい80年頃までに定型が入れ替わったように思うが、はて、日本最古のアヴァンタイトルと日本最古のエンドロールは、何という作品なのだろう。知っている人がいたら、教えてほしいものだ(最古かどうかはわからないが、『張込み』(1958)なんてかなり初期の先駆作だと思うのだが・・・)。
さらに「生きた化石」関連の余談を続けると、90年代までオープニング主題歌のセリフで、
「人呼んでフーテンの寅と発します」
と、登場し続ける「フーテン」という言葉も68〜9年頃の流行り言葉である。たしかに谷崎潤一郎も使っていたぐらいだから、言葉自体は昔からあったろうが、「ヒッピー」、「アングラ」、「サイケ」などと同じく全共闘時代のカルチャー用語でもあり、だから60年代末にリアルタイムで見ていた観客には説明不要な語彙でも、われわれ70年代以降生まれの寅さんファンにはあまり理解されていない名乗りだったのかもしれない。


(※13)
33作目『夜霧にむせぶ寅次郎』(1984)は、シリーズ屈指の人気作『寅次郎相合い傘』(1975)のセルフリメイクと言ってよい。どちらも、寅さんとマドンナに謎の中年サラリーマンが同行して、三人で北海道を旅する話だが、『夜霧』は『相合い傘』に比べて暗い。良くも悪くもとにかく暗い。
また35作目『寅次郎恋愛塾』(1985)は『寅次郎頑張れ!』(1977)のリメイクと言えようか。「秋田県出身の男が長崎県島しょ部出身の女に惚れ、寅さんのコーチで上野でデートするが、失恋したと思い込んで、人騒がせな自殺未遂」という『恋愛塾』のあらすじは、「秋田県」と「長崎県島しょ部」を入れ換えれば、そのまま『頑張れ!』のあらすじになる。


(※14)
三船敏郎と言えば、今日では若い世代にはむしろ「三船美佳の父親」と言ったほうが通りがいいぐらいになってしまっているかもしれない。三船敏郎と三船美佳では、芸能人としての「格」は神様とプランクトンぐらい違うが、これも時代の流れで、致し方あるまい。
その三船美佳は、知っている人は知っていると思うが、三船敏郎から見ると非嫡出子、すなわち愛人の子どもである。
三船敏郎が後半生において、正妻とその子ども(三船史郎他)を捨て、愛人と同棲し、その愛人に産ませた子どもが三船美佳となる。父娘というより祖父と孫ほど年齢が離れているのは、そのためである。
言うまでもなく、嫡出子に対する非嫡出子、すなわち婚外子、昔の言い方で「妾腹」の子どもを差別することは許されない。それはもう、最高裁で違憲とされているぐらいである。
だが、三船が妻子を捨てて愛人に走るも、晩年、三船が認知症になって要介護になったら、その愛人は奪える財産だけ奪って、さっさと三船を見捨てて逃げてしまい、結局、晩年の三船の面倒は、捨てられた正妻のほうが看ていた・・・・・・なんていう話(真偽のほどは各人の自己責任で判断すべし)を聞くと、いくら正式に認知した「三船敏郎の娘」であるからと言って、そして婚外子の差別が違憲だからと言って、その愛人の子どもが本名でなく「三船」美佳という芸名を名乗って、「三船敏郎の娘」を売りにして芸能活動をしていることに対して、三船史郎は決していい気持ちはしてないだろうなと、その心中は察するに余りある。
ちなみに、『寅さん』関係で言うと、30作目『花も嵐も寅次郎』(1982)にワンシーンだけ出た朝丘雪路も、画家・伊東深水の非嫡出子=「妾の子」である。朝丘雪路が、テレビで「お父様がね」などと、いい年して言って父親を売り物にしているのを見て、「何だこいつ、妾の子どものくせに!」と差別的なことを言っていたのは・・・私の亡くなった身内である。
(繰り返しになりますが、婚外子への差別は憲法違反です!←それはあくまで相続の話だろ)


(※15)
なぜ駄作か?
それは、つまらないからだ。・・・では当たり前すぎるので、別の理由を書くと、一つには、せっかく寅さんが海外に行ったのに、現地の人と交流せず、日本人とばっかり交流しているからだ。
同行した柄本明は、まだしも現地の人とある程度は交流しているのに、寅さんはまったく別行動。柄本とすら一緒に行動せず、竹下景子と淡路恵子としか、ほとんど交流しない。
もったいない。
広場で地元のおばさんと何となくわかりあってしまうシーン(『心の旅路』の本当に数少ない名シーン)のようなものがもっとあればよかったのに。あるいは、せめて最後の夜の地元のビアホールに寅さんも柄本と一緒に行って柄本及び地元の人たちと一緒に飲んでいれば。
これじゃ、本当に誰とどこに行ったのかの意味がないよね。


(※16)
『ぼくの伯父さん』には、ゲイの人を思いっ切りネタにして笑いものにするギャグがあるが、89年当時は許されていたとしても、今ならば絶対に許されない表現だろう・・・というのは、余談(というより、そもそも未遂に終わったとは言え、性被害を笑いにするということ自体が許されない、と断ぜられて当然だろう。もし笹野高史に襲われるのが女の子だったら、とてもじゃないがギャグにはならないはず。なのに同性間なら笑えるシーンになる?・・・だとしたら、それこそ異常な感覚であろう)。
それはそうと、どう考えても満男&後久美シリーズを何年も何年もしつこく引っ張る必要はなかったと思う。まあ、山田監督も引っ張りたくて引っ張ったわけじゃなく、おそらく会社の命令でシリーズを続けざるを得なかったといったところで、実際は末期の『ドラゴンボール』みたいに、本人はとっとと終わらせたくても、経済的影響力の大きさゆえに終了させてもらえなかったんじゃなかろうかと思うが。実際、この時期の山田監督は、『息子』(1991)や『学校』(1993)のほうにはるかに力を注いでいたのではあるまいか。現に、映画としても、『満男はつらいよ』よりそっちのほうがずっといい。私はとくに『学校』がすきだ。『学校』には続編もあるが、やはり第一作がいい。これはうがった見方だが、会社命令で『寅さん』シリーズ(実質満男シリーズ)を無理して続けるかわりに、年2回だった『寅さん』を年1回にして、そのぶん山田監督自身の撮りたいものを撮らせてもらうという、暗黙のバーターがあったんじゃなかろうか。長年あたためていた『学校』の企画が実現した経緯は、たぶんそのへんじゃないだろうか。
なお、これは余談になるが、改めて見ると、『学校』は、「山田洋次=橋本忍の弟子」という事実を、ものすごく痛感させる作品である。教室でのディスカッションという現在時間軸をベースに、時系列がバラされた数々の回想シーンをメインにして映画を紡いでいくその脚本構成は、まさに橋本忍秘伝の極意であろう。
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