見沼・風の学校BLOG

知るより感じろ。――見沼田んぼ福祉農園で日々耕作をしているボランティア団体、見沼風の学校のブログです。

農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 2

2011年11月08日 | 農的若衆宿
1の記事に続き、前回の若衆宿での勉強会で出た意見です。
記事を書いたスタッフは震災後、岩手にボランティアに行きました。
そこでの体験も含めて、書かれています。


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「3.11のあとのこと」
■岩手に行ったこと
大学が休みになった4月、わたしは東北に行きたいと思った。何が出来るわけでもないのに、その場に行かなくてはと思った。なぜそう思ったのか、今も上手く説明できないけれど、その時は衝動だけだった。
私は4月の最後の週、岩手の三陸町と大船渡市と山田町に行った。雨が降っていた。地震から1か月が経っていたが、町のいたるところで捜索活動が行われていて、潮のにおいで満ちていた。窓枠に残った風にはためくカーテン。片方だけの下駄。年賀状。それは間違いなくだれかの生活の一部だった。なのにその生活している人がいない。町はとても静かだった。
自宅で見た津波の映像はまるで現実感がなくて、そのバーチャルな感覚に違和感を持っていたことは、岩手に行ったひとつの理由かもしれない。また3月11日から1か月が経ち、何もなかったかのような生活に戻っていくことに対する違和感もあった。岩手に行き、「まだ1か月」なんだいうことを痛感した。瓦礫だらけの静かな町。突き破られた分厚いコンクリの堤防。帰ってこない人。時間がとてものろのろと過ぎていくように感じた。
 多くの喪失と向き合うことは、とても辛かった。津波にあった人と会ってお話する時、なぜだか上手く言葉が出ないことが多くて、もてなしてくださったり、お土産を出してくださると「優しくしないでほしい」と思ってしまっていた。それは、わたしには帰る場所があり、自分のエゴで岩手に行ったからそう感じたのではないか、と今になって思う。

■放射能をこわがること
 放射能は、目に見えない。匂いもしない。感じない。でもどうしてわたしは「放射能はこわい」と思うのだろうか。それは信頼する方々が今回の原発事故や放射能について教えてくださったことも大きい。けれど、思い浮かぶのは大叔父のことだ。
 今年の6月、大叔父が亡くなった。長野県茅野市の専業農家で、米と野菜を作っていた。畑仕事が好きで、牛と蚕を「趣味」としてやっていたような人だった。毎季節ごとに段ボールいっぱいに野菜を送ってくれ、そのたび電話でおしゃべりをした。大叔父さんの戒名の中に「和」「耕」「養」という言葉がある。「和」は大叔父さんの名前の「和美」から。「耕」はこれまで田畑を耕してきた人だから。「養」はこれから大地に帰って土を豊かにしていくから、とお葬式で和尚さんは説明してくださった。「おじいさんの命は、なくなったのではありません。あなたのなかに生きています。あなたのおじいさん似の目、鼻、口、体となって、あなたのなかに生きています。心は、体と一緒に大地に帰ります。でも命はそうやって、人のなかに続いていく。」
 大叔父さんの死は悲しかった。もう「ほうか、ほうか」と相槌をうってくれたり、おしゃべりすることはできないんだな、と思うと寂しかった。でも和美叔父さんの命は、叔父さん似のわたしと同年代のはとこ達の中に流れていて、叔父さんの体と心は、大地を通してわたしの耕す足元までつながっている。嬉しくなった。そして生きること、死ぬことは大きな流れの中でつながっていると思うことが出来た。家族にかこまれ、近所の人から見送られ、死ぬってことは不幸なことではないのだと気づいた。
 同じ頃、今年の夏に高知・窪川と祝島をともに旅した広島市立大学の湯浅先生の論文を読んだ。その論文で、わたしはチェルノブイリ原発事故と東海村JOC事故で被曝した作業員の方の遺体が放射性物質に汚染され、特別な処置のもとで埋葬されたことを知った。
放射線は遺伝子を除去し、皮膚の再生能力を奪う。…汚染された遺体は、腐敗しても土壌に染み出さないようにと特別製の厚いコンクリートの間で埋葬される。…原発事故は、彼らの生活や大切な人々とのつながりを破壊したのみならず、遺伝子に刻まれた人類何万年にもわたる共生の歴史という過去を、そして自らが土となって他の生命を育む未来をも奪った。(湯浅、2011年)
 大叔父の死で感じた、生きて命をつなげること、死んで大地に帰って他のいのちを養っていくことの大きな流れ。放射能はその流れを断ち切ってしまう。生きている間だけでなく、死んでからも放射能から逃れられない。それはとても恐ろしいことだと思った。

■放射能と生きていくということ
最近家族が野菜や魚を買ってくると「産地は?測定はされてるの?」がわたしの口癖になった。最初は戸惑っていた家族も、慣れてこの頃はあきれた顔をする。おびえるなといわれて、喧嘩のようになったことも1度じゃない。
東日本での生活では、原発事故の放射能は排除しきれないと思う。だったらとことん向き合って生きるしかない。そう考えたら、放射性物質を含むものも含まないものも自分で選んだものを食べて生きていきたいな、と思った。
放射能と向き合って生きていくひとつのやり方として考えたのは、「放射性物質をどれぐらい許容するのかという基準を自分で持つこと」だ。もちろんすべての食べ物を把握することはできないけれど「できるだけ放射性物質を少なくする」という漠然とした考え方よりも、具体的だし、覚悟を決めることが出来る。
食べ物によって、その摂取の仕方は変わってくる。例えば、お茶の葉はお茶っぱを食べるわけではないから、そのお茶自体の線量は葉の何割もないだろう。しいたけは一回の食事で1キロも食べることはない。一回の食事では10グラムくらいだろう・・・。そうやって逆算してラインを設定することで、すこし放射線量の高いものでも基準の中でなら食べられるかもしれないと思った。
 もちろん、これが正しい選択であるとは思っていない。怖い気持ちもある。これからいろんな人と議論して、「放射能と共に生きていくこと」を考えていきたい。



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