見沼・風の学校BLOG

知るより感じろ。――見沼田んぼ福祉農園で日々耕作をしているボランティア団体、見沼風の学校のブログです。

農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 3

2011年11月09日 | 農的若衆宿
今回は実行委員長面川の文章です。
彼は3.11当日実家の宮城県角田市で被災をしました。

その実体験を含めた文章です。

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はじめに
3・11東日本大震災が起こり、その時宮城県角田市の実家で米作りの手伝いに帰っていた私の目線で当時の様子を振り返りながら、自分の考えを整理したい。

) 3・11以降を振り返って
〈トピックス〉
① 震災直後 ライフライン(水道・電気)が止まり、ガソリンも手に入りにくく
1日、1日生きていくので精一杯だった。原発事故も発生。家で過ごしていると不安に押しつぶされそうになるので、地元の震災ボランティアの手伝いをする。
その頃の情報源はラジオと新聞だけだった。
② 1週間がたち電気が回復する。更に1週間後水道も復旧。テレビやインターネットも使えるようになる。あらためて、震災直後の津波の映像や原発事故を映像で見ることで、今回の震災の被害の凄まじさと自分の知っている街並みが破壊されていくのをみてショック受ける。同時に今年のコメ作りがなんとか進められることがわかり、そのことが希望にも。
③ 震災1ヶ月後 目に見える範囲で、ほぼ震災以前と変わらない生活が戻ってきた。その頃の関心も自分の生活や地元のことから、となり町などの津波の被害に遭った町のことに移る。実際に津波の被害に遭った、山元町の震災ボランティアにも行く。
④ 大学に戻るため東京へ 風の学校復帰。地元との関心のズレ。宮城だとこの頃の関心ごとは震災被害だったが、東京に来ると放射能の話題が中心に。必然的に放射能関係の情報に多く触れることになり、今後自分が宮城で農業をやっていけるのか不安に襲われる。これからのことが気になりだした。
⑤ これからのことを考えるため窪川へ
放射能汚染に対していかに考え、その事実を踏まえて角田で生きていくのか。農業をしていくのか。その見通しがたたない中で、なんらかの道筋がたつのではないだろうかと希望を胸に、有機農業者で窪川原発反対運動のリーダーだった島岡幹夫さんに会いに行く。

  〈関心の変化〉
①⇒② その日、その日の生活、地元について
②⇒③ 震災被害のことや津波の被害に遭った町のこと。原発報道中心のマスコミに対して苛立ちも
③⇒④ 震災のことから放射能へ
④⇒⑤ これからの自分の生活 これからの自分の農業について


) 窪川で学んだこと
 
〈反原発運動から新たな地場産業の創出〉危機を逆手にとる
 ただ原発に反対するのではなく、地域の未来を見据えて、原発に頼らなくてもいい町づくりの方向を示した。そして、原発反対運動で生まれたネットワークが人と人、人とモノを結びつけて、農林業をベース新たな産業の創出した
 EX) 減反田に大豆を作り、納豆や豆腐産業
 
〈反原発運動の中での学習・仲間づくりの姿勢〉今までの関係性を編み直す
変化する状況の中で、その都度、意思決定を迫られる原発運動を経る中で、人々に学習されたのは、単に原発の危険性でも、放射線や住民投票の知識でもない。むしろ、不確実な状況の中で、対話をついじて、人と人、人とモノ、人と知識を結びつけ、その問題に対して、解決を図ろうとする、その姿勢こそが学習された。〈原子力帝国への対抗政治に向かって:猪瀬〉


)今後のコト 福祉農園・風の学校の活動を通して
 現在の自分の現場
・福祉農園:食料をつくる生産の場と同時に自分にとっては将来の消費者と出会える場 
・宮城県角田市:自分の帰る場所。農業を行う現場

・将来の消費者と向き合う。現在の不安を不安のまま終わらせない。その先に自分の目指すべき方向性があるのだと思う。

・農業は自分のつくった食べ物を他の人に食べてもらうことで成り立っている産業である。食べる人がいなくなってしまえば、農家として生きていくことができない。放射能汚染の現状を考えると、食品(特に東北太平洋側)に対する消費者の不安はしょうがないと思う。ただ、それでしょうがないで終わらせてしまっては農業者として生きていけない。放射能物質に汚染されたという事実と向き合う。そして放射能に対処する農法を考えながら、いかにこの地で農業を続けていくのか模索する。




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