見沼・風の学校BLOG

知るより感じろ。――見沼田んぼ福祉農園で日々耕作をしているボランティア団体、見沼風の学校のブログです。

【参加者募集!】 2/15~2/16 春疾風感じる農的若衆宿2014

2014年01月30日 | 農的若衆宿
「春疾風感じる農的若衆宿2014」開催決定!!


【時期】平成26年2月15日(土)~16日(日 )


【場所】見沼田んぼ福祉農園
    JR東浦和駅より国際興業バス「さいたま東営業所」行きバス乗車→「総持院」下車


【スケジュール】15日:開会式、午前作業、昼食、午後作業、夕食、勉強会
         16日:朝作業、朝食、午前作業、閉会式


【作業内容】ハウス整備、木の移植、プレハブ塗装、天地返し、料理
※作業内容は予定です。当日の人数・天候 などにより変更になることがあります。


【参加費】完全参加(2日間)2000円 ( 15日午前~昼食まで500円、午後~夕食 まで500円、勉強会500円 16日午前~正午500円 ※食費込み)


【服装・持ち物】作業着(汚れてもいい服装)、長靴、軍手 、防寒着・防寒具、寝袋(宿泊する方のみ)
※朝晩は特に冷え込みが予想されます。作業着以外の上着、フリースやカイロなど十分な防寒対策をお願いします。



 問い合わせ先 担当:森 gmw.ai@live.jp 申し込みの際は「お名前・所属・連絡先・参加 日時・関心分野」などをお知らせください。

春の農的若衆宿!

2013年05月10日 | 農的若衆宿
4月27日(土)~28(日)、農園では風の学校主催の「農的若衆宿・春2013」が開催されました。二日間を通して20人が参加。1日目の作業のようすをお送りします。

まずこちら。何をしているかというと、薪置き場を作ろうとしています。


鉄製の台と丸太を使って、大きな薪を下段、粗朶などを上段に置いて、シートで丸ごと覆うようにしようとしています。スタッフの杉さま・みりが初めて土木作業を取り仕切ります。



こちらでは植付けの準備中。
スタッフが初参加者に耕耘機の動かし方を指導しています。大事なことは、機械をロボットのように自動装置として扱うのではなく、自分の身体の延長として扱うこと。耕耘機の回転する刃が、土を掘って空気と混ぜていく感覚を身につけて行きます。これがなかなか難しい。
(ちなみに上の写真、"STAFF"と書かれたシャツを着ている彼はスタッフではなく初参加者です!)

ここには翌日サトイモを植え付けます。



畑仕事はそれだけじゃありません!絶好の植え付け日和ということで、葉ものなども植え付けました。作業メンバーで植えたい種を選考した結果、赤オクラ、つるむらさき、つるなしインゲン、小カブが植えられました。





続いて2日間の胃袋と体力を支える料理も、農的若衆宿では重要な作業のひとつです。

↑こちらが昼ご飯




風の学校Blogでは引き続き農作業の様子をお送りしますので、お楽しみに!

冬季農的若衆宿2013 終了しました!

2013年02月21日 | 農的若衆宿

こんにちは、風の学校スタッフの金杉です。

去る2月16~17日に農的若衆宿(通称:若衆)が行われました。

若衆とは季節ごとに敢行される合宿で、大人数で集中的に作業をするほか、「若衆」の名の通り若いメンバーや参加者中心に仲間を増やし結束を強めることをねらいとしています。

今回は冬になので耐寒若衆なのです。

だだっぴろい見沼の寒風吹きすさぶなか、春からの本格的な作物づくりに向けて、主に農園整備に励みました。

主な作業内容をご紹介します。




<竹の子防衛線>ですね。

竹の子の根がお隣さんの畑に侵食するのを防ぐ防衛線として、トタン板を埋めました。写真はその際に邪魔な桑の木を抜こうと奮闘中。




<桜の木の伐倒>

チェーンソーを使用しての伐倒。スタッフで農家の人見さんの講習により、2日間で2人のチェーンソー女子が誕生しました。




<歩道整備>

農園では車イスでも通行できるように枕木を敷いているのですが、凸凹しておりましたので整備。

一旦枕木を外し、写真のように砂利等を敷いて平らに。わかりづらいですが、手前の木が枕木です。


<その他>
この他に薪小屋を建てたり、野焼きを行ったり、ヒバの移植、馬糞堆肥の搬入などパワーを要する作業を実施。


また、夕食後には<夜の勉強会>を開催。



まず、団体として参加してくれた農工大有志団体「やそはち」、「ぱれっと」元理事長谷口さんと共に恵比寿でコミュニティー作りを目指す黒澤さん、キャラクタービジネスで会津木綿を世界に発信する折出さん、風の学校で互いに活動の経緯・内容を自己紹介。

※「やそはち」のブログはこちら。
http://okomeyasohachi.blog.fc2.com/

その後、様々な話しが飛び交いましたが、場に人が集まり、活動が活発になるためには?という問いが伏流していたかと思います。

ひとつに人の多様性に魅力を感じる人が多く、職場や大学のなかで凝り固まった考えがほぐれる、色んな人に会えるということが好奇心をそそられるという初参加の方もいらっしゃいました。

そんなこんなからにじみ出る、楽しい!オーラが人を呼び自然と盛り上がっていくのではないか、面白いことをどんどんしていこう、というこれだけ聞くとかなり安直な話に感じますが(笑)、と同時にこれしかないのかなと思ったり。

それにしても今日集まった団体・プロジェクト同士の連携の話も浮上していまして、いよいよ面白いことになりそうですよ。


農園はイベント時以外にも毎週末行われていますので、遊びにきてくださいね。イベントに比べてゆったりとより自由に楽しめるかと思います。

改めまして、今回の耐寒若衆2013に参加してくださった総勢29名のスタッフ・参加者の皆様ありがとうございました!




~これより、スタッフ・参加者の声コーナー~

とにかく埼玉嘗めてましたね。
そして、あの極寒の中テントに寝る男性方は人間を超越した何かだと思いました。
何はともあれ、とても充実した二日間を送れました。
風の学校ならびに参加者の方々、ありがとうございました。

やそはち/矢部さん


初めて若衆に参加しましたが、なぜか懐かしいような感覚を火を囲むなかで感じました。
いま思うとそれは風の学校のみなさんのその場で起きたこと、初めての参加者がいるからこそ起きる新しい発見、視点の変化を楽しんでいこうという気持ちによるものだと僕は思っています。
とても楽しかったです。またよろしくお願いいたします。

参加者/近藤君



若衆の16日17日を乗り越えた皆様、お疲れ様でした。私は16日で帰ったので、若衆の夜を過ごすことができなかったのが残念でなりません。

今回の若衆では、薪棚設置班に配属。カオスともいうべき、雑然と置かれた枝を整理し、プレハブ小屋の裏に薪を置くための棚を設置する班です。

最初はあまりにも大量の薪の前に、一日で終わらないと思っていた作業も、リーダー純三さん率いる薪棚班6人力を合わせ、何とか午前で小枝の始末は終了。あとは、棚となる作業台的なやつを置くだけ。楽勝、楽勝と思いきや、あまりにも支えが華奢なので、補強のため6本の杭を足がくる部分に打ち付け少々の底上げを図りつつ棚を杭の上に置く形にすることが決定。他のメンバーが黙々と枝整理の仕上げをしている中、杉で杭を作成。サイズは地上部100センチ、地中部50センチで計150センチ。いざ打ち込みを開始するが、これがまた入らない。びっくりするほど入らない。最後は、ささったままの杭をチェーンソーでぶった切る農家得意の現場合わせで何とか薪棚設置完了。

こうちょっと作業を振り返ってみると、いつもは冬作業よろしくのひたすら穴掘りをする一遍作業が多かったのですが、なかなか動きの多い作業だったと思います。ただ、目の前の作業をこなすだけでなく、次のことを考えながら動く。そして、その段取りがビシッとはまった瞬間は何とも言えない小気味よさがありました。
使った道具たちの調子も良かったのも、気持ちよく作業できた要因の一つかと思います。
 
代表がアップしてくれた作業動画を見ていると、みんなの力強い作業をみて、若衆での一体感の片鱗を垣間見たような気がします。感想考えつつ、動画を見ながら若衆の同時多発的作業を全体で捉えて考えるのも、自分の中では初めての感覚で面白いなと思いました。
 
日が落ちてからは、たき火を囲みながらの取りまとめ。自分の番終了後、三十路を迎える私の誕生日を祝っていただき感謝の気持ちで一杯でした。みなさん、ありがとうございます!!
四十歳になっても祝ってもらえるように頑張ります。

スタッフ/栗原



寒い中での作業が大変なのと同じように、かじかむ手で料理をするのも一苦労でした。イベント時の料理長は何度か経験して慣れてきたつもりでしたが、天候や採れる野菜、人数が違えば勝手もずいぶん異なります。柔軟なアイディアと創意工夫が大事なのだと改めて感じました。

スタッフ/山田



初めてイベントの統括をやらせていただきまして感じたことは、次々と起こる状況の変化にいかに対応できるかということです。あらかじめ準備は準備としてしっかりしつつ、そこから変わった時、もっと柔軟に動けるか。予定をなぞるのではなく、リアルタイムの現場でやった方が良いこと、やるべきことに素早くシフトできるか。そこに活動の醍醐味がある気がします。

今回、自分の動きはとても固いものでしたが、この状況がどんどん変わっていくという肌触りを感じることができただけでも、次の柔軟な動きへつながると思えますし、たぶんそうでしょう。

あとは程よい疲労感で焚き火をみんなで囲むのは格別な気分ですね。色んな人と心地よい時間を共有できて素直に嬉しいです。これからもどんどん繋がって、できた関係性が太くなっていけばいう事ないですね。

最後に耐寒若衆開催にあたり、関わっていだたいたすべての方に感謝申し上げます。

スタッフ/金杉

農的若衆宿2011 ~百姓の底力~ 無事終了

2011年11月16日 | 農的若衆宿
農的若衆宿2011 ~百姓の底力~ 無事終了

「農的若衆宿2011 ~百姓の底力~」が先日無事終了しました。
二日間天気にも恵まれ、二日間で計36名が参加しました。
当日の様子は以下の福祉農園ブログの記事を見てください。

11月12日 竹の拡大阻止と伐採した木を薪にする

11月12日 高知県窪川原発を止めた島岡幹夫さん来園る

また上記の記事にもありますが、島岡幹夫さんが来園され、勉強会だけでなく2日間にわたり農業指導をして下さいました。現在風の学校の畑には、島岡さんの手による力強い畝がいくつも並んでいます。

勉強会では、島岡さんのこれまでの反原発活動についての話だけでなく、四万十町での様々な活動にも話題が及び、島岡さんの力強さと奥深さが感じ取れる充実した時間になりました。
興味のある方は、勉強会中に資料として配られた以下の記事を読んでみてください。

蚯蚓(みみず)と憲法9条

島岡さんはこの若衆宿を通して、頭と体で、今後の私たちの生き方の指針を示していただいたような気がします。
その姿はまさに「耕しながら考える」だったように思います。

そして参加したみなさんも、お疲れ様でした。
また福祉農園で会いましょう。


農的若衆宿2011 ~百姓の底力~ 勉強会について

2011年11月11日 | 農的若衆宿
今週末に予定されている「農的若衆宿2011 ~百姓の底力~」。
夜の勉強会の詳細な内容が決定しました。

勉強会だけの参加も可能ですので、興味を持った方はご連絡ください。


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■「人類は危ないものをつくりすぎた、これから農業
:見沼・窪川から、福島へ

高知県窪川町(現四万十町)。四万十川流域に広がるこの自然豊かな農村に、原発建設が計画されたのは今から30年ほど前のこと。生命を育む農的の論理と、生命を脅かす原発の論理とは相容れないと、農民や漁民を中心に保革を越えて多様な住民たちが反対運動に立ちあがり、10年間の<たたかい>の後、計画を白紙撤回させました。
 このような反対運動と、それを支えた住民の自主的学習の延長で、現在、窪川―四万十町では、豊かな環境資源を保全・活用・創造するため様々な仕事づくりや、住民自治活動が展開されています。
 窪川原発反対運動と同じころ、見沼田んぼでは、多様な人々によって、農業によって見沼を守る活動が始まります。その活動の先に福祉農園が1999年に生まれ、今、13年目を迎えようとしています。

 今回の農的若衆宿では、窪川原発反対運動のリーダーで、有機農業者でもある島岡幹夫さんをお招きします。島岡さんが原発を如何に拒否し、国内外の仲間と<たたかい>を組織したのか、<たたかい>の後に、今どんな社会的な事業を企てているのかを伺います。
 これ受けて、見沼田んぼ福祉農園の若者が応答します。3月11日以降、彼らはそれぞれ福島や宮城、岩手、そして見沼の現場で、原発危機と向き合い、これからの大地と共にある暮らしを考えてきました。
 両者の対話を通じて原発危機の中に生きる私たち、今、何をなすべきか、見沼田んぼの大地の上で考えます。

オープニング 20分
 いのちのまつりオープニング映像上映+講師紹介(猪瀬浩平より)

第一部 長老講話 
講演 猪瀬良一「いのちの祭りから福祉農園構想、そして農園14年の歩み」 
島岡幹夫「原発反対運動から、生命を育む里へ」 
第二部 若衆からの応答「3・11以後の世界で生きる」 
指定応答者 面川常義「原発事故の後を生きる」
     戸沢竜也「被災地支援から見えたもの」
     石井秀樹「見沼・福島・チェルノブイリ」
     安藤聡彦(埼玉大学教育学部)+参加者から
進行   猪瀬浩平



主催  見沼・風の学校
共催  見沼・田んぼ福祉農園
申込  見沼・風の学校事務局
    kazekoukou●ybb.ne.jp(●を@に変換)
      090-6938-9211 (猪瀬)

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農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 5

2011年11月10日 | 農的若衆宿
今回は、新潟出身のスタッフによる文章です。
中越地震を経験している彼女が今回の震災で感じ取ったものが書かれています。


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3.11からずっと、初めて聞く難しい言葉と初めて見る映像と、人伝いの本当かどうか疑わしい話たちが、確かめることもできずに私の周りにたくさんあった。

今私の問題意識はどこにあるのだろうか?
たくさんの重大なことがあるけれども、それでも一番気になったのは地元のことであった。
余談だがわたしは15歳の秋に震災で被災している。しかし幸いなことに地元はそこまで被害はなく、亡くなった方もいない。電気がなくて寒くて車で寝た心細い夜のことや、やっとお風呂に入れてお湯に足を伸ばした嬉しさとか、それらは強烈に覚えているけれど、それだけで避難生活の苦労は知ったような顔をすることはできない。

実家は近くの海沿いの原発から20キロ圏内。正確にいえば18キロ。
それが怖いと思ってこなかった私が怖い。だって知らなかった、そんなリスク聞いたことがなかった、いいことだって教えたのは…ではもう済まされないと思う。
言い方に偏りがあるかもしれないが、知ってしまったからにはある種の責任があるのではないだろうか。もっといえば今回の若衆でお会いできる島岡さんや百姓の方、その他にも集まるたくさんの人と出会うことで、出会ってしまったからにはその人と関わる、話を聞いて考えるという責任が生まれると思う。
20キロという距離は変わらない。私は地元が大好きだということも、そこに住んで関わっていこうとすることも変える気はない。
それだったらこれからの話をしたい。人と出会って話をして地元へとつながるような。



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農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 4

2011年11月09日 | 農的若衆宿
この記事は、今年大学生になったばかりのスタッフが書いたものです。
とはいいつつ、彼は小学校の頃から見沼・風の学校に関わっています。

そんな彼の思いを感じ取ってください。


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何を耕すのか?―311への直感―

3月、緊迫した様子を伝えるテレビは、原発の建屋が吹っ飛ぶ映像を我々に突き付けた。その時覚えた恐怖と不安は何だったか。自分が被曝するかもしれないという身に迫った危機に対して、我々が対応できる手段はゼロであった。まず放射能というもの自体まるで掴みどころがなく、どのように状況を捉えればよいのか全く分からなかった中、できる限りの所から情報を取り寄せ、食いつないで耐えしのいでいた。そして、どうやら問題の終息には途方に暮れるような時間が必要になると分かれば、茫然とするほかなかったはずだ。
 早くも8ヶ月が過ぎた。節電の夏が過ぎ、秋が来て、冬を予感させる今、原発事故を伝えるニュースはもはや旬を過ぎた話題のように響く。シンサイとゲンパツという言葉のある状況にすっかり包み込まれ、一度は疑ったはずの日常を再び肯定し生きざるを得ない状況がある。あんなに天地がひっくり返ったにも関わらず、それでも風化は起きてしまう。
 人々はあまりにも自らの神経をよそに託し過ぎたように思う。私一人の力では原発とか震災に太刀打ちならないが、専門用語が飛び交う界隈があることで世の中はなんとか体裁を保っているように見える。その言葉を発する連中はことごとく下らないが、しかし一方で彼らに頼らざるを得ないのだから、もうそこに任せてなんとかなってくれればいい。でなければ、身の回りが保障されさえすればいい。まるで祈るようにして生きているようだ。
 
 ところで、当然農園も存亡の危機に立たされた。今後農園の野菜が食べられなくなるかもしれない。そこでありとあらゆる手段を用いて対抗し活動し続ける選択をとった。事故直後に放射能に関するレクチャーと意見交換を行ったことは、農園が早くから放射能問題に対抗する足場を持っていたことを示している。
 このような行動を可能にしているのは、農園に来る人達と、農園がやってきたこと、農園という土地の3つの要因があると思う。開園以来、農園は実に多くの人たちによって維持され、自立するための強固なエンジンを備えてきた。加えてその維持に関わった多くの人とは本当に多様で、はたから見れば異様な集団にも見える。この多種多様な人達の知恵を統合的に活用することで、農園は回り続けている。
 また、農園にいることで、我々は素朴な季節感を感じることができる。自分の五感を通して季節を感じ、その微妙な変化を察知して、畑に手を加えていかなければならない。一見自然にも思えるこの行為は、自分自身を信頼していなければ不可能である。ここには与えられた情報のみで生きていく方法とは違って、主体的な判断が迫られる。自分の五感は自分にしか感じ取れないのだから、自分自身の感覚を信頼せねばならなくなる。
農園で作業することは、そのまま自分で思考し行動するための選択の幅を広げることにつながるのだ。あらゆる方向から集まった知恵と自らの直感を通して、得体のしれないものに対して少しずつ解読し対応する術を身につけることができる。未曾有の大災害と、それをも上回る日常の作用に対抗する手段を、農園では耕し語ることで鍛えるのだ。



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農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 3

2011年11月09日 | 農的若衆宿
今回は実行委員長面川の文章です。
彼は3.11当日実家の宮城県角田市で被災をしました。

その実体験を含めた文章です。

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はじめに
3・11東日本大震災が起こり、その時宮城県角田市の実家で米作りの手伝いに帰っていた私の目線で当時の様子を振り返りながら、自分の考えを整理したい。

) 3・11以降を振り返って
〈トピックス〉
① 震災直後 ライフライン(水道・電気)が止まり、ガソリンも手に入りにくく
1日、1日生きていくので精一杯だった。原発事故も発生。家で過ごしていると不安に押しつぶされそうになるので、地元の震災ボランティアの手伝いをする。
その頃の情報源はラジオと新聞だけだった。
② 1週間がたち電気が回復する。更に1週間後水道も復旧。テレビやインターネットも使えるようになる。あらためて、震災直後の津波の映像や原発事故を映像で見ることで、今回の震災の被害の凄まじさと自分の知っている街並みが破壊されていくのをみてショック受ける。同時に今年のコメ作りがなんとか進められることがわかり、そのことが希望にも。
③ 震災1ヶ月後 目に見える範囲で、ほぼ震災以前と変わらない生活が戻ってきた。その頃の関心も自分の生活や地元のことから、となり町などの津波の被害に遭った町のことに移る。実際に津波の被害に遭った、山元町の震災ボランティアにも行く。
④ 大学に戻るため東京へ 風の学校復帰。地元との関心のズレ。宮城だとこの頃の関心ごとは震災被害だったが、東京に来ると放射能の話題が中心に。必然的に放射能関係の情報に多く触れることになり、今後自分が宮城で農業をやっていけるのか不安に襲われる。これからのことが気になりだした。
⑤ これからのことを考えるため窪川へ
放射能汚染に対していかに考え、その事実を踏まえて角田で生きていくのか。農業をしていくのか。その見通しがたたない中で、なんらかの道筋がたつのではないだろうかと希望を胸に、有機農業者で窪川原発反対運動のリーダーだった島岡幹夫さんに会いに行く。

  〈関心の変化〉
①⇒② その日、その日の生活、地元について
②⇒③ 震災被害のことや津波の被害に遭った町のこと。原発報道中心のマスコミに対して苛立ちも
③⇒④ 震災のことから放射能へ
④⇒⑤ これからの自分の生活 これからの自分の農業について


) 窪川で学んだこと
 
〈反原発運動から新たな地場産業の創出〉危機を逆手にとる
 ただ原発に反対するのではなく、地域の未来を見据えて、原発に頼らなくてもいい町づくりの方向を示した。そして、原発反対運動で生まれたネットワークが人と人、人とモノを結びつけて、農林業をベース新たな産業の創出した
 EX) 減反田に大豆を作り、納豆や豆腐産業
 
〈反原発運動の中での学習・仲間づくりの姿勢〉今までの関係性を編み直す
変化する状況の中で、その都度、意思決定を迫られる原発運動を経る中で、人々に学習されたのは、単に原発の危険性でも、放射線や住民投票の知識でもない。むしろ、不確実な状況の中で、対話をついじて、人と人、人とモノ、人と知識を結びつけ、その問題に対して、解決を図ろうとする、その姿勢こそが学習された。〈原子力帝国への対抗政治に向かって:猪瀬〉


)今後のコト 福祉農園・風の学校の活動を通して
 現在の自分の現場
・福祉農園:食料をつくる生産の場と同時に自分にとっては将来の消費者と出会える場 
・宮城県角田市:自分の帰る場所。農業を行う現場

・将来の消費者と向き合う。現在の不安を不安のまま終わらせない。その先に自分の目指すべき方向性があるのだと思う。

・農業は自分のつくった食べ物を他の人に食べてもらうことで成り立っている産業である。食べる人がいなくなってしまえば、農家として生きていくことができない。放射能汚染の現状を考えると、食品(特に東北太平洋側)に対する消費者の不安はしょうがないと思う。ただ、それでしょうがないで終わらせてしまっては農業者として生きていけない。放射能物質に汚染されたという事実と向き合う。そして放射能に対処する農法を考えながら、いかにこの地で農業を続けていくのか模索する。




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農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 2

2011年11月08日 | 農的若衆宿
1の記事に続き、前回の若衆宿での勉強会で出た意見です。
記事を書いたスタッフは震災後、岩手にボランティアに行きました。
そこでの体験も含めて、書かれています。


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「3.11のあとのこと」
■岩手に行ったこと
大学が休みになった4月、わたしは東北に行きたいと思った。何が出来るわけでもないのに、その場に行かなくてはと思った。なぜそう思ったのか、今も上手く説明できないけれど、その時は衝動だけだった。
私は4月の最後の週、岩手の三陸町と大船渡市と山田町に行った。雨が降っていた。地震から1か月が経っていたが、町のいたるところで捜索活動が行われていて、潮のにおいで満ちていた。窓枠に残った風にはためくカーテン。片方だけの下駄。年賀状。それは間違いなくだれかの生活の一部だった。なのにその生活している人がいない。町はとても静かだった。
自宅で見た津波の映像はまるで現実感がなくて、そのバーチャルな感覚に違和感を持っていたことは、岩手に行ったひとつの理由かもしれない。また3月11日から1か月が経ち、何もなかったかのような生活に戻っていくことに対する違和感もあった。岩手に行き、「まだ1か月」なんだいうことを痛感した。瓦礫だらけの静かな町。突き破られた分厚いコンクリの堤防。帰ってこない人。時間がとてものろのろと過ぎていくように感じた。
 多くの喪失と向き合うことは、とても辛かった。津波にあった人と会ってお話する時、なぜだか上手く言葉が出ないことが多くて、もてなしてくださったり、お土産を出してくださると「優しくしないでほしい」と思ってしまっていた。それは、わたしには帰る場所があり、自分のエゴで岩手に行ったからそう感じたのではないか、と今になって思う。

■放射能をこわがること
 放射能は、目に見えない。匂いもしない。感じない。でもどうしてわたしは「放射能はこわい」と思うのだろうか。それは信頼する方々が今回の原発事故や放射能について教えてくださったことも大きい。けれど、思い浮かぶのは大叔父のことだ。
 今年の6月、大叔父が亡くなった。長野県茅野市の専業農家で、米と野菜を作っていた。畑仕事が好きで、牛と蚕を「趣味」としてやっていたような人だった。毎季節ごとに段ボールいっぱいに野菜を送ってくれ、そのたび電話でおしゃべりをした。大叔父さんの戒名の中に「和」「耕」「養」という言葉がある。「和」は大叔父さんの名前の「和美」から。「耕」はこれまで田畑を耕してきた人だから。「養」はこれから大地に帰って土を豊かにしていくから、とお葬式で和尚さんは説明してくださった。「おじいさんの命は、なくなったのではありません。あなたのなかに生きています。あなたのおじいさん似の目、鼻、口、体となって、あなたのなかに生きています。心は、体と一緒に大地に帰ります。でも命はそうやって、人のなかに続いていく。」
 大叔父さんの死は悲しかった。もう「ほうか、ほうか」と相槌をうってくれたり、おしゃべりすることはできないんだな、と思うと寂しかった。でも和美叔父さんの命は、叔父さん似のわたしと同年代のはとこ達の中に流れていて、叔父さんの体と心は、大地を通してわたしの耕す足元までつながっている。嬉しくなった。そして生きること、死ぬことは大きな流れの中でつながっていると思うことが出来た。家族にかこまれ、近所の人から見送られ、死ぬってことは不幸なことではないのだと気づいた。
 同じ頃、今年の夏に高知・窪川と祝島をともに旅した広島市立大学の湯浅先生の論文を読んだ。その論文で、わたしはチェルノブイリ原発事故と東海村JOC事故で被曝した作業員の方の遺体が放射性物質に汚染され、特別な処置のもとで埋葬されたことを知った。
放射線は遺伝子を除去し、皮膚の再生能力を奪う。…汚染された遺体は、腐敗しても土壌に染み出さないようにと特別製の厚いコンクリートの間で埋葬される。…原発事故は、彼らの生活や大切な人々とのつながりを破壊したのみならず、遺伝子に刻まれた人類何万年にもわたる共生の歴史という過去を、そして自らが土となって他の生命を育む未来をも奪った。(湯浅、2011年)
 大叔父の死で感じた、生きて命をつなげること、死んで大地に帰って他のいのちを養っていくことの大きな流れ。放射能はその流れを断ち切ってしまう。生きている間だけでなく、死んでからも放射能から逃れられない。それはとても恐ろしいことだと思った。

■放射能と生きていくということ
最近家族が野菜や魚を買ってくると「産地は?測定はされてるの?」がわたしの口癖になった。最初は戸惑っていた家族も、慣れてこの頃はあきれた顔をする。おびえるなといわれて、喧嘩のようになったことも1度じゃない。
東日本での生活では、原発事故の放射能は排除しきれないと思う。だったらとことん向き合って生きるしかない。そう考えたら、放射性物質を含むものも含まないものも自分で選んだものを食べて生きていきたいな、と思った。
放射能と向き合って生きていくひとつのやり方として考えたのは、「放射性物質をどれぐらい許容するのかという基準を自分で持つこと」だ。もちろんすべての食べ物を把握することはできないけれど「できるだけ放射性物質を少なくする」という漠然とした考え方よりも、具体的だし、覚悟を決めることが出来る。
食べ物によって、その摂取の仕方は変わってくる。例えば、お茶の葉はお茶っぱを食べるわけではないから、そのお茶自体の線量は葉の何割もないだろう。しいたけは一回の食事で1キロも食べることはない。一回の食事では10グラムくらいだろう・・・。そうやって逆算してラインを設定することで、すこし放射線量の高いものでも基準の中でなら食べられるかもしれないと思った。
 もちろん、これが正しい選択であるとは思っていない。怖い気持ちもある。これからいろんな人と議論して、「放射能と共に生きていくこと」を考えていきたい。



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農的若衆宿2011 ~百姓の底力~に向けて 1

2011年11月08日 | 農的若衆宿
今回の農的若衆宿で島岡さんをお迎えするにあたり、
前回の農的若衆宿で震災・原発に関する勉強会を行いました。

そこに出たスタッフの意見を記事として掲載します。


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意識の根底にある身体感覚
                 
■3.11後のわたし
3.11後、目の前で起きていることがとてつもなく重大なことであることはテレビから、新聞から、農園のメーリスやあらゆるメディアから伝わってきた。一人ではとても抱えきれないようなことが次々と発せられ、体も頭も動かなくなるほどだった。
被災地に行くという選択もできたはずだが、わたしはそれをしなかった。私が被災地に行けなかったのは、今被災地で起きていること、今日本で起きていることがあまりにも大きすぎて、自分の目の前にあった就職活動や卒論といったものがとても小さく思えて、被災地に足を踏み入れたら、そのままその大きな動きに入っていってしまうのではないかという不安が少なからずあったからだと思う。また、復興というものを「3.11以前のシステムに戻すこと」にさせないために、これまでのシステムの糾弾の方にかかわりたいという気持ちもあった。今、少しずつ自分の状況が落ち着いてきて、自分自身でその場に行って考えるために、現地に行きたいという気持ちがむくむくと膨れ上がってきている。

■3.11によって、より一層感じた身体感覚の重要性
3.11後、わたしは、農園に関わっていたからこそ、社会の動きの中で感じ取れたものがあると確信している。土とともに過ごし、命を育てたり、多様な人々とそこで伝えあったり、聴きあったりするなかで、わたしの身体感覚、反射神経は研ぎ澄まされ続けている。消費社会の中で、日々をひたすら走り、満員電車で知りもしない人と密着する不快感を自分の感覚を落とすことで生き抜いている人が失った感覚を、農園では少しずつ研ぎ澄ませていけるような気がする。その感覚があるからこそ、ちょっとした違和感を感じ、問題意識を持ち、動き出していけるのだと思う。農園にいると、状況の変化に敏感でいなければならない。いつも同じなようでそうではない。考えていた作業の段取りやイメージがあったとしても、時として状況に合わせて対応しなければならない。大雨が降れば、すぐに声を出して、しなければならないことを確認しあう。それは自然に対する反射神経のようなもので、今だってまだまだ未熟と感じるが、ここに通い始めたころはまったくその動きについていけなかったことを覚えている。
そして、この場ではそれだけでなく、サバイバルキャンプ(毎年8月に一週間農園に泊まり込んで農作業する)などの中で、抑えきれなくなった、普段の生活では隠しているような感情や表情、言動がいろんな人から見えてくる場面に多く出会い、生身の人間を見てきた。さらに、勉強会や代表の話、さまざまな場面で、ただ農作業をするのではなく、農園というこの場から社会を見てきた。
これらの要素があるからこそ、身体感覚が研ぎ澄まされていくのだと思う。そして、それはちょっと気を抜くだけで、忘れてしまったり、抜け落ちてしまったりするものでもある。鍛え続け、研ぎ澄まし続けていくものなのだ。だからこそ、代表にどんなに「センスがない」と言われようと、わたしは農園に通うのだと思う。

■身体感覚からの動き、反原発運動
その感覚やそのさきにある動きは、農業という土地に根差して、生命に近い営みをして生きてきた百姓たちに共通して持たれているものだと考えたわたしは、百姓である島岡さんが中心となった、窪川での反原発運動の成功に興味を持った。そして、島岡さんを訪ねたのである。わたしたちに原発反対運動について語ってくれた島岡さんの眼は、反対運動を成功させた過去や現在には向いておらず、つねに今より先に向けられているように感じた。島岡さんは、感覚として原発とともにある自分たちの土地の未来に違和感を覚え、それに論理を加えて展開していった。町の経済を考えても、原発に頼らなくても、自分たちの第一次産業(主に農業)だけで十分成り立つことを訴えた。さらに、自分ひとりですべてをまとめようとせず、婦人支部や労組支部など、どんどん多様な組織を増やしていった。その中で、「窪川の未来は、窪川の人で」という信念にもとづき、各地から駆けつける支援者には語らせず、応援というかたちで運動に関わってもらった。こうして、地元の人々に自分たちの未来を決定するという自覚、和子さん(島岡さんの奥さん)の言葉を借りるなら、そこで「民意」が高まっていったのだと思う。そこで出来上がった民意があったからこそ、その先にある現在に生まれてきた四万十川の汚染や町の人口減少など、町の今、そしてこの先に向けた動きが生まれてきているのだろう。

■身体感覚を鍛える、研ぎ澄ます場
わたしにとっては、農園という場が身体感覚を鍛える場所だが、もちろん他にもその感覚を研ぎ澄ます場所はあるはずだ。農園にも来たことのある原田麻以さんは日雇い労働者の街・釜ヶ崎で、それまでに感じていた生きづらさとは違う心地よさを感じ、社会の底辺である釜ヶ崎から世界を見てきた。そして、彼女は9月から福島市で「放射能から子どもたちを守るネットワーク」の事務局で働いている。20代で現在の福島市で働くこと=より多く被ばくすることに対する恐怖はないのか、という質問に対し、「また同じことを繰り返したくないから、若い世代として関わりたい」という答えをくれた。そこには、犠牲の精神とかではない、純粋な反射神経のような、身体感覚が背景にあるのだと感じた。彼女の話を聞いて、たぶん口ではうまく説明できない彼女の本能のようなもの、感覚から生まれる衝動に突き動かされて、福島での活動を行っているのではないかと感じた。その感覚は、もちろんもともと彼女が持っていたものであるだろうが、それを研ぎ澄ませ、鍛えていったのは、釜ヶ崎で多様な人々と出会い、おっちゃんたちと生身の人間としてかかわり、釜ヶ崎から世界を見た年月だったのだろう。
  これ以外にも身体感覚を研ぎ澄ます場というのは、無数に存在しているはずだ。その場には、たぶん、生身の人間として人と出会い、ぶつかりあう場面があり、その場所から社会や世界を見つめる場面があるのだと思う。



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