路地町家

再生保存した小さな町家のお話です。
それに京都のこと。感動したこと。時には猫も登場したり。。。

茂庵の「茶碗つくりワークショップ」

2011-12-08 | 古き佳き物

友人ご夫妻にお誘いいただいて、「茶碗つくり」初体験。
過去記事 「茂庵」と、山麓の「大正時代の家並み」 の中の一軒「碧山居」が会場でした。
           ↑クリックして下さい。


吉田山斜面に建つ不思議な雰囲気の住宅に、少なからず興味を抱き
内部の見学はできないものかと考えていたところですから
「碧山居」に案内された時は・・・エーッツ?ココ!!
  
期せずしてこの住宅に足を踏み入れ。。。やっぱり!!
玄関と反対側の奥には、景観を楽しめるように手摺付きの内縁が設けられ
大文字山を望む大パノラマが広がっていました。


      内縁の天井、綺麗ですね~

「茶碗つくり」の会場用に建具は外されていましたが
2畳の畳敷き玄関間から、直接 奥のパノラマの広がる内縁まで廊下が伸びていて
その廊下をはさんで左右に、和室が2つ取ってありました。
建具を入れると、さぞ落ち着いた雰囲気の和風住居になることでしょう。


そしてこの家は、驚いたことに玄関外から見れば2階建て
中に入ると更に地階があり、地階の外が庭になっているのです。


        地階へ降りる階段

お尋ねしなかったのですが、ほとんど当時のままの間取りなのではないでしょうか?
なんと瀟洒な建築!このままずっと伝えていただきたい住宅でした。

さあここで「茶碗つくり」を教えていただきます。が
                                つづきは次回に。


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「天空の白鷺」。。。姫路城

2011-11-07 | 古き佳き物
2009年~2015年予定の
姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」へ行ってきました。


すっぽり見学棟で囲まれた近代的な修理風景

見学棟へ行く道すがら
これまで一度も公開され無かった「りの一渡櫓」の内部が
修理期間中に限り公開され、資料が展示されていました。



1364年、赤松貞範、姫山に城を築く。
1580年、秀吉、姫路城を築城(大改修)開始。
その後池田輝政、本多忠政、酒井忠邦と城主が替わり
それぞれの紋が改修箇所に使用され、多種の紋瓦が残りました。
 
  
大変保存状態の良い甲冑が見事にライトアップ展示され、とても綺麗!


       そしてこれが修理中の大天守!


瓦が下ろされイメージが湧きませんが
この上にシャチが載る最上層の大屋根です。
瓦下地が緻密にびっしり敷かれている様子が見られます。


最上層の漆喰壁が剥がされ、まるで白木造りのお社のよう。
もう2度と見られない内部の構造をしっかり見学。

ただ、もっと近くで見られるものと想像していたため
ガラス越しのこの距離は、少々不満が残りました。

ショックだったのは、この2枚の写真!!
  ~明治の大修理前の姫路城~

まるで天守の幽霊のよう。

かくも頑丈な建築物も放置すれば、なんとこの有様。。。
白鷺の如き優美な姫路城の、かつての苦難の様相を初めて知りました。
       良くぞ命を存えたものよ!


創建以来の保存の苦労は計り知れません。
初見です! こんな浮世絵まであるのですか~~

  
昭和の修理で美しくよみがえった「西の丸」百間廊下と、畳敷きの化粧櫓で憩う千姫と勝姫人形。

 
下城途中、忍者が現れ、襲われてしまいました~~(笑)



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2011年 正倉院展、初日

2011-11-02 | 古き佳き物

今年は、初日正午に狙いを定めAM10:00に京都を出発。

           
               狙い的中!10分と待つことなく入館。


今年の本展は「金銀鈿荘唐太刀」が目玉と謳われていますが
かなり精緻で華やかな宝物が数多く出展され、雅な雰囲気。

それにしてもこの大刀、うっとりするほどの細工。手仕事の極地。
なのに作者名が不明だなんて・・・
錺細工の精度の高さに驚き、単眼鏡の世界にのめり込んでいて
「動きましょうよ~」と後ろのおじいさんに促される始末。すみませんでしたwww

そう、今年は「単眼鏡」持参しました。もうこれは必携品です!!


「黄熟香」=東・大・寺の文字を含めた「蘭奢待」(らんじゃたい)の別名を持つ大きな香木は
        足利義満、織田信長、明治天皇が切り出し使用した跡が、古の時を伝える。
ここも人だかりでしたが、この香木、端の方など擦り減っていて
名だたる方の使用の他にも、何らかの目的で削られた箇所があるように見えました。


こちらも話題の「七条織成樹皮色袈裟」


一見地味な裂地と映りますが、本来の袈裟の様に端切れを集めた物ではなく
織成と呼ばれる綴織に似た布地で、この袈裟のために織られたもの。
聖武天皇が出家した後、身につけたとされる遺愛品。

今回はその模造品が作られ展示されています。
模造品って贋物のような印象を受けましたが・・・

正倉院では、「復元」=「模造品」 と表現されているそうです。
模造品には2種類あり、1.「現品摸造」 = 宝物の現在の状態を再現した模造品
               2.「復元摸造」 = 創られた当時の状態を再現した模造品

今回のは「七条織成樹皮色袈裟」の「現品摸造」かと思われます。
そしてこの復元に使われた絹糸は、皇后様がお育てになった小石丸から作られた糸。
復元に使用され余った糸は、使用量を差し引き、きちんと計量されて返却されるそうです。
製作の裏には、まだまだ物語もあるのでしょうね。



秋だというのに暑い日で、鹿もこの通り。



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細川家の至宝~珠玉の永青文庫コレクション~

2011-10-27 | 古き佳き物
10月8日の開催以来、何度か横目でスルーしていた博物館。
時代祭りが順延になった22日やっと行くことができました。

およそ美術展というものは、撮影禁止。
よって「百聞にしかず」と画像に語らせる手法が使えないのが辛いところ。
実際に見て、この記事の正誤をあれこれ詮索してもらうのが良いかもしれません。



この展覧会は「美の世界では、天下人」と副題が付けられているように
細川家という一つの家が収集し伝えられて来た品々が、超一流の文化財であり
しかもその数たるやただ事ではなく、一点出品されるだけでも嘗ての「ミロのビーナス展」の如き
長蛇の列となり得るような作品が、何点も含まれているのです。

このような機会はそう無いと思われるので、前期、後期、共に鑑賞することに決め
前期は、前もって何の情報(みどころや解説など)も入れずに
ただ対象の前で、心に響き迫り来る感覚を味わうことにしました。

まず驚愕するのは、家宝を約600年間に渡り代々受け継いで守ってこられたこと。
初代:細川藤孝(幽斎)二代:細川忠興(三斎)と文武両道に優れた人物の、血が受け継がれてきた由縁か!
と単純に思いましたが、帰宅後資料を調べてみると案外当たっていて
欲を掻かず人との距離感に絶妙なバランス感覚を持ち
戦乱の世を巧く切り抜けてこられた両者の精神は、代々受け継がれて来た様子。
生き方の本質を見失わないことこそ、大切なのだと感じました。

さて作品ですが、もう美的水準はどれをとっても申し分ない中
僭越ながら、特にビン!と響いてくる作品の前に張り付き堪能させていただきました。
こんな贅沢ってあるでしょうか? 誰にも迷惑はかからないからヨシとしてもらいましょう~

まず目を奪われたのは
「黒糸威二枚胴具足」:頂辺に山鳥尾の頭立てを挿す。その姿の美しいこと!
              頭頂部に立つ、シナルでもなくナビクでもない山鳥尾の凛としたフォルムは
              武将の精神を象徴するが如くに見えました。
              とても桃山時代のものとは思われないほど保存も良い。

なぜか惹きつけられたのは
「粉引茶碗 大高麗」: 元々片口として注ぎ口が付けられていた器の、口を落とし
              土で埋め、茶碗に仕立てられたもの。
              たっぷりとした丸みを持ち、象牙色にも似た粗目の肌に
              包み込まれるような、えもいわれぬ温かさを感じました。

もう一つ挙げるなら
「南蛮芋頭水指」: 戦場にも持ち込まれたと銘の横に説明があったと記憶していますが
            芋頭とはよく付けた銘だと変に納得。
            何処から見ても愛着を感じるフォルム。
            ふくよかな張りのある丸みが蓋をしたときに完成する。
            肌の景色も味わいがあり、ふっと抱えてみたい衝動に駆られました。

作品目録に印を入れながら途中まで来ると、ビデオが流れている一角があり覗いてみました。
今回の代表作品として先程の「黒糸威二枚胴具足」と「粉引茶碗 大高麗」が映し出されているではありませんか!
心の中で、小さく“ガッツポーズ”をしてしまいました~!

「ガラシャ消息」のガラシャ直筆の筆跡には緊迫感が漂い
ガラシャ最後の様子を書き記した「霜女覚書」(そんなものが残っているなんて!)
の侍女・志も(霜)の達筆なこと。(残念ながら読み下せませんでしたが・・・)
また能面も、じっと惹き付けられ目が離せなくなる程の優れた作品が並び
実に素晴らしい保存状態。美の極みでした!
近代のものでは菱田春草の「落葉」が群を抜いて迫って来ました。
後期で「黒猫」に会うのが楽しみです。。。

といった所で、感受性が飽和状態になって会場をあとにしました。
見応えのある展覧会です。
後期は、あらゆる下調べをしてから出掛けることにしましょう。

皆様も、どうぞお見逃しなきよう~~






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「茂庵」と、山麓の「大正時代の家並み」

2011-09-14 | 古き佳き物
前出の茂庵一帯は
大正時代、大阪で運送会社(現在の谷川運輸倉庫株式会社)を興した実業家
谷川茂次郎が、所有していた吉田山に広大な森の「茶苑」を築いた遺構なのです。
茂次郎は実業家の一方、裏千家に入り茶道を深く嗜みます。
そして茶席を催すため、大正末期~昭和初期にかけて
茶室8席 月見台 楼閣など次々と建築していきました。
 


茂次郎没後、50年程封鎖されていたこの地に現存しているのは
点心席=食堂(現・茂庵)と茶席二棟。
当時は、食堂で点心を食してから茶室へと向かったようです。


1階に調理室、2階に食堂を配置し、軸部や小屋組を丸太材で構成し
東側は懸造り風の外観としたのが特長的です。
京都市「登録有形文化財」(H16/8/17指定)


でも特にご紹介したいのは
茂庵への登り道で見かけたレトロな住宅群!

神楽岡町方面から茂庵を目指して登ると
吉田山の中腹斜面を横切るように、平行に走る通路が階段状に数本造られ
その通路に面して、格子戸を備えた瀟洒な住宅が整然と並んでいるのです。


     不思議な静けさが漂う家並み


家の高さと同じ段差を持つ階段状の造成地ゆえ
玄関を山側に向けて建てると、向かいに家はありません。
つまり、どの家も裏庭に朝日が差し込み
どの家も、奥の窓から大文字の眺望が開けているという造りです。


実はこの住宅群も谷川茂次郎が開発したもので
吉田山東斜面一帯を8ブロックに分け階段状の造成を行い
大正から昭和初期にかけ、貸家住宅を建築していきました。
どの家の屋根も「銅板葺き」で統一されていたため
現存する住宅の屋根は、綺麗な緑青の色を見せています。
この貸家は、おもに京帝大や三高の教官が借りて住んだと言われています。

階段での生活を考慮しても、住んでみたくなる素敵な町並みです。


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祇園祭・還幸祭 中御座、神泉苑にて

2011-07-24 | 古き佳き物
まず「神泉苑」について。
祇園祭は疫病退散を願い、貞観11年(869)「神泉苑」に66本の矛をに立て
神輿三基を送り出し牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、祇園御霊会(ごりょうえ)を行ったのがその発祥。
当時はまだ山鉾巡行などはなく、簡素な巡行が安和3年(970)より室町周辺で始まり
毎年執り行われるようになり、現在に至っています。
つまり「神泉苑」(御池通堀川を西へ)こそが祇園祭の発祥地なのです。

今日24日は、三基のお神輿に乗ってお出ましになっていたご祭神がお還りになる「還幸祭」。
四条お旅所に安置されていた三基のお神輿は、それぞれ別ルートを経由して
往時「神泉苑」の斎場があった場所「八坂御供社(ごくうしゃ)」(三条通黒門西)に集結
御供社奉饌祭が執り行われます。
その後は、東へ進み三条河原町からはまたそれぞれ別のルートを辿り、八坂神社へお還りになります。


昨年、祇園で出会った三若担当の「中御座」に、今年は「神泉苑」で出会いました。
祇園祭発祥の地ゆえに「中御座」は御供社での奉饌祭の前に「神泉苑」に立ち寄られます。


神泉苑鳥居前に安置された「中御座」のお神輿に向かい、お社に背を向ける形をとり
道路側のお神輿にお供えをした上で、八坂神社宮司の祝詞が奏じられ
東寺の僧侶による読経のお迎えが行われました。

?「神仏混合」??と思ったのですが・・・

「神泉苑」は現在「東寺」の所轄であるため、神仏両方の行事となっているそうです。

この後、三基のお神輿は八坂神社にお還りになり
深夜に神輿おかえりの「御霊うつし」が行われました。




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12日の祇園祭

2011-07-13 | 古き佳き物
暑い日が続きます。
今年は梅雨明けしているので、ジメジメ感が少なく
爽やかなお祭りになりそうです。


南観音山は、今日(12日)が山鉾の組建て。毎年ながら、見事な縄目です!


菊水鉾は、今日曳き初めを終え周りを囲っています。
今年からLEDの駒形提灯だそうです。(節電ですね)


いい雰囲気ですね!お祭り気分が盛り上がります。


函谷鉾の雄姿が四条通りに現れました。


こちらは長刀鉾。
花鳥写生画の名人といわれた松村景文が描いた
天井軒裏絵(後側)『金地彩色孔雀図』が見えますか?


アップにすると・・・逆光ですね。





Comments (2)
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放下鉾天井幕 ・ 下絵に関する逸話

2011-07-01 | 古き佳き物
6月27日の記事の続きになりますが・・・
天井幕に使用された是真の下絵が気になって、調べてみました。

すると膨大な逸話が浮かび上がり
ドキュメンタリーが製作できるほどの、第一級芸術作品の誕生秘話と
やがて明治宮殿焼失と共に姿を消した、綴織「花の丸」の下絵が
現存するまでの経緯を知ることとなりました。


  明治宮殿 「千種之間 」     写真:ウィキペディアより

昭和20年に焼失した明治宮殿に「千種之間」と呼ばれた140畳ほどの広間がありました。
その格天井には綴錦で精緻に織り上げられた直径1mを超える花の丸112枚が嵌込まれ
荘厳を極めた宮殿の数ある広間の中でも、もっとも善美をつくしたともいわれていました。
そこに描かれた草花の全てが異なる種類であったことが「千種之間」という名の由来とされ
ています。      『柴田是真 下絵・写生集』 東京藝術大学美術館所蔵(東方出版)

明治20年12月10日の東京日日新聞によると
「織方は、京都高等女学校 綴織科へ命ぜられ、生徒8名にて本年5月頃より織立に着手し
昨今落成を告ることとなりしかば、この8名の生徒は5月以来1日の休みもなく早出居残り
にて勉励し、出来栄えも殊に美事なれば、北垣知事より特別の賞与あるべき由なり。」
とある。
「京都高等女学校」とは明治40年に開校した学校名(その前身とされる学校さえ開校は
明治34年)とその名称は怪しい。        『柴田是真 花の丸集成』 (京都書院)

と記されていますが、独断ながら、女紅場ではなかったかと推測します。
女紅場には2種類あり、一つは庶民の子女のため、もう一つは華族や士族の子女が対象。
後者の女紅場は、明治5年(1872)年、京都、九条家河原町別邸内に設けられました。
英学と女工(手芸・手工)の二科を置き、英国人イーバンス夫妻を教師に招き「新英学校女紅場」
と呼ばれ、明治7年に「英女学校女紅場」となっています。年代的に合致のこの名称の
「女学校女紅場の生徒」が織り上げたのではないかと推測しますが、実際のところは
分からないようです。
因みにこの女学校は、後に京都府立京都第一高等女学校(現府立鴨沂高校の前身)となりました。

一方、焼失と共に幻と化していた「花の丸」でしたが
当時、柴田是真が控えとして描き置いていた下絵が存在していました。
震災や戦災を潜りぬけ虫食いなどに和紙で補強を加え、大切に保管されていたご遺族によって
その下絵と写生帖95冊、是真の芸術を凝縮させたような貴重な美術資料が、昭和50年に
「東京藝術大学」に寄贈されたのです。
藝大に委ねられた事により、是真の鋭い観察眼をもって、流麗かつ確実な線で精緻に描かれた
下絵は、再び人々の前に姿を現わすことになりました。

そして現在もなお、他の追随を許さぬほどの美的精度の高さが
放下鉾天井幕製作担当デザイナーの感性に届き、見事な綴錦となって蘇って来たのです。

           *      *      *

            
この懸装品一つに焦点を当ててみても、これだけの物語がある祇園祭の工芸品。
今年のお祭りには、数ある美術品の中から珠玉の逸品を見つけるのも、愉しいかも知れませんね。


参考資料 : 『柴田是真 下絵・写生集』東京藝術大学美術館所蔵(東方出版)
        『柴田是真 花の丸集成』(京都書院)






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成すすべもなく。。。茶会に出席

2011-03-13 | 古き佳き物
今日13日に予定されていた茶会。

発生以来絶え間なく流れる被災地の映像を見ながら
とにかく地震の終息と、被災者の救済を待ち望む2日目の夜を過ごし
出席したものかどうか?とぎりぎりまで迷っていた。

今何の力添えもできないなら、無事でいることに感謝し
今生きていることを大切にしようと思い至る。

かくして
茶道の心得のある者もない者も交えた同級生仲間の茶会に出席した。


ひざを交えることの幸せをいつも以上に感じる。
例えば、釜向こうに座す彼女は茶道教授。
そして手塩にかけ育まれた彼女のお嬢さんは
しとやかなお点前で私達を持て成してくれている。

このような「和」の多くが、今回の震災で分断されてしまった。
多くの人々が悲しみに暮れている。
茶室の雰囲気を乱さぬよう微笑んでいても
そんな想いが頭を巡り、たくさんの無作法をしてしまった。


心惹かれた「炉縁」と「釣り釜」
炉縁は江戸末期のものといわれる。

このような家宝を根こそぎ津波にさらわれた人も、数え切れない。
失われた命に黙祷し、早い救済を祈って会を終えた。



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豆人形 「ぶりぶり遊び」

2010-12-06 | 古き佳き物
 前出の豆人形の一つ
                                        「ぶりぶりを曳く子」
 得意げに空を仰ぐ表情が凛々しい
   ぶりぶりは昔の玩具

待ちわびていた春を迎え
                                   ぶりぶりを持って外へ出た瞬間でしょうか?


大きさ比較のため楊枝を添えました。
こんな小さな人形でも、じーっと眺めていると、様々な想いが頭を過ぎります。

ぶりぶりは昔の玩具。
木を八角形に削り、両端を細く中央を太く瓜型にして車輪を付けたもの。
ひっぱると「ぶりぶり」っと音がしたとの説もあり
車輪を取って、ひもの付いた八角形の胴体を振り、球を打って遊ぶともいいます。

江戸時代から小さな子供のおもちゃとして親しまれていましたが
金箔の雲取り地に、岩絵の具で松竹梅や鶴などが描かれ、御殿玩具となり
次第に祝儀用の飾り物に使われるようになりました。

茶道では初釜に、このぶりぶりを模した香合が飾られます。



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小さな人形達

2010-11-28 | 古き佳き物
子供の頃、実家の箪笥の上に横長のガラスケースが置いてあって
そう、細い木枠に朱色の房が付いた開き戸式の・・・
その中には、それは可愛いらしい小さなお人形や
ミニチュアのお道具が飾られ「夢のような世界」が広がっていました。

何度も取り出しては眺め、並べ替えして遊んだ事を思い出します。

時は流れ、人様に差し上げたり壊れたりして数も減り
いつの頃かガラスケースも処分されることになりました。
その折、わずかに残った状態が良さそうな物だけを集め、もう嫁いでいた私に
「あんた好きやったし、持ってお帰り」と両親が微笑みながら渡してくれたのです。



昨日、探し物をしていてその箱が目に付き、取り出し並べてみると。。。
昔の物はいい仕事がしてあります!
どこか欠けたり傷んだりしている、背丈3、4cmの小さなお人形ですが
子供の頃見た「夢のような世界」が鮮やかに甦ってきます。

小さいながらも御所人形のような精緻な作りの人形達。
欠けた部分が補修できないものか?と残念でなりませんが
もしかしたら幼い頃の私の仕業かもしれません。 

申し訳ない!!





Comments (2)
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九條家遺構 ・ 「拾翠亭」(しゅうすいてい)

2010-10-23 | 古き佳き物
時代祭で賑わう京都御苑(御所)の堺町御門を入ってすぐ西で
「拾翠亭」が公開されていました。

ちょっと寄り道、拝見してきました。

「拾翠亭」は、約200年前に建てられたといわれ
当時の五摂家の一つ「九條家」の別邸として茶会や歌会など
社交の場として利用された、「数奇屋風書院造り」の茶室でした。


二層造りで外周りに縁高欄(手摺)がめぐらされ
簡素ながら貴族的な優美な外観を成し、心休まる佇まい


7.5畳の控えの間


10畳 広間の茶室


3畳 中板の小間


庭の黄葉も美しく・・・


前方に広がる「勾玉池」 
また九條家を偲んで「九條池」とも呼ばれています


ここにもなつかしい急階段。
傾斜角度だけは、路地町家と同じでした!

3月~12月27日まで普段でも(金)(土)は公開されています(¥100)
9:30~15:30まで
散策のついでに、寄り道されてはいかがでしょう。




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大正時代の小机

2010-09-15 | 古き佳き物


使い込まれ、傷や擦れひび割れまでが一体となってしまった、折りたたみの机。
もう何千回いや何万回、もしかしたらもっと多くを数えるほど
折りたたみ、また立ち上げ使われて来た机。

ギィー、カタン!カタン! 
堅く乾いた木が、高い音を立てる。手軽で本当に便利な小机。
  


母方の祖父は木工が趣味で、自ら作ったものと聞いている。
  寸法 45.5cm x 58.5cm x 24cm 
4本の足は竹の節を模した造形で、アクセントになっている。
その製作工程を、母は子供の目で、多いに興味を持って見ていたという。
祖父はその後早くに他界したため、私は直接顔を合わせていない。

母の実家で完成した当時は、どんなだったろうか?
手紙を書いたり、にわか配膳台になったり、縁側へ持ち出し食事したかもしれない。
お月見のススキとお団子のお供え台にも、なったに違いない。

私が物心ついたころには
母は愛着あるこの「おじいさんの机」を、子供達にも自由に使わせてくれた。
ゆえに、裏返しにして車や船に見立て
天板の上に乗り込み、机の足を両手で握り、みんな交代で運転?した事もあった。
思い返すと、どのシーンにも頻繁に登場するこの机。

傷だらけで黒光りする天板を、撫でるように拭きながら
今もこの町家で使っている。




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芝浦製扇風機と秋風

2010-09-14 | 古き佳き物
まだ日中の日差しはきついけれど、風は爽やか。
夕方には、やっと秋風が吹くようになりました。
9月の声を聞いても、片付ける気にはならなかった扇風機が
今日はじめて、色褪せて見えました。



東京芝浦製の年代物ですが、いまだに健在。
唸りながらも風を送ってくれます。
時代を経た柔らかな風のように感じるのは、気のせいでしょうか?

「いつ発火するか分からないし」と心配される向きもありますので
動かす時は、いつもそばにいましたけれど
滑らかに力強く心配なぞどこ吹く風。とばかりに回ってくれました。



秋の気配に促され
今月中には片付けて、建具替えもしなければなりませんね。

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ながもちの錺金具

2010-06-14 | 古き佳き物
この町家にひどく傷んだ黒塗りの「ながもち」を一つ置いています。
2007年の改修時、あまりの傷みと大きさに処分しかけたところ
周りの人の助言を得て残る運命となった大道具で、今は物入れに。

元々明治中頃に嫁して来た(当時は伏見の町家)父方の祖母の嫁入り道具で
夜具などを入れ、棒を通し担ぎ運んだものと聞いています。

先日ふと写真を撮っておこうと思い立ち、拡大して錺の文様をじっくり見てみると
唐草の中に2種の家紋が含まれているのに気付きました。
「達磨沢瀉紋」(だるまおもだかもん)と「九曜紋」(くようもん)。
共に勝ち戦を願って、戦国武将に用いられた家紋だと云います。


        達磨沢瀉紋(花が紋の天になる)


            九曜紋


模様がはっきり撮れるよう照明を当てたので、とても”良さげ”に写っていますが
本当はかなりの”ボロボロ”ですので、お断りまで。。。

              ☆

父の家紋でも、祖母の実家の紋でもないのに
なぜこれらの家紋が使われたのか?と疑問が湧いてきました。

想いを巡らせ、たどり着いたのはこの3つ。
1、嫁入りは女の戦のようなものだったから、幸せを願って錺の文様に用いられた。
2、他の目的で作られた物を、婚礼用に再利用した。
3、同時代に家にあった祭礼用の武具や装束入れが、婚礼用のと取り違えられて伝わった。

さて真実はどれでしょう?
もちろんこれ以外の理由かも知れませんが
ちょっと興奮して考えさせられた、愉しい発見でした!

【達磨沢瀉】
オモダカは愛らしい花が咲く水草。
葉の形が矢ジリに似ている、また「沢瀉威の鎧」ということばもあって
「攻めても守ってもよい」ということから「勝ち草」と呼ばれたという。
花を真ん中に向かい合った葉の曲線が、達磨のように見えるさまから
達磨沢瀉と名付けられた。

【九曜】
土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)
金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)
羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰し家紋とした。





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