6月27日の記事の続きになりますが・・・
天井幕に使用された是真の下絵が気になって、調べてみました。
すると膨大な逸話が浮かび上がり
ドキュメンタリーが製作できるほどの、第一級芸術作品の誕生秘話と
やがて明治宮殿焼失と共に姿を消した、綴織「花の丸」の下絵が
現存するまでの経緯を知ることとなりました。
明治宮殿 「千種之間 」 写真:ウィキペディアより
昭和20年に焼失した明治宮殿に「千種之間」と呼ばれた140畳ほどの広間がありました。
その格天井には綴錦で精緻に織り上げられた直径1mを超える花の丸112枚が嵌込まれ
荘厳を極めた宮殿の数ある広間の中でも、もっとも善美をつくしたともいわれていました。
そこに描かれた草花の全てが異なる種類であったことが「千種之間」という名の由来とされ
ています。 『柴田是真 下絵・写生集』 東京藝術大学美術館所蔵(東方出版)
明治20年12月10日の東京日日新聞によると
「織方は、京都高等女学校 綴織科へ命ぜられ、生徒8名にて本年5月頃より織立に着手し
昨今落成を告ることとなりしかば、この8名の生徒は5月以来1日の休みもなく早出居残り
にて勉励し、出来栄えも殊に美事なれば、北垣知事より特別の賞与あるべき由なり。」
とある。
「京都高等女学校」とは明治40年に開校した学校名(その前身とされる学校さえ開校は
明治34年)とその名称は怪しい。 『柴田是真 花の丸集成』 (京都書院)
と記されていますが、独断ながら、女紅場ではなかったかと推測します。
女紅場には2種類あり、一つは庶民の子女のため、もう一つは華族や士族の子女が対象。
後者の女紅場は、明治5年(1872)年、京都、九条家河原町別邸内に設けられました。
英学と女工(手芸・手工)の二科を置き、英国人イーバンス夫妻を教師に招き「新英学校女紅場」
と呼ばれ、明治7年に「英女学校女紅場」となっています。年代的に合致のこの名称の
「女学校女紅場の生徒」が織り上げたのではないかと推測しますが、実際のところは
分からないようです。
因みにこの女学校は、後に京都府立京都第一高等女学校(現府立鴨沂高校の前身)となりました。
一方、焼失と共に幻と化していた「花の丸」でしたが
当時、柴田是真が控えとして描き置いていた下絵が存在していました。
震災や戦災を潜りぬけ虫食いなどに和紙で補強を加え、大切に保管されていたご遺族によって
その下絵と写生帖95冊、是真の芸術を凝縮させたような貴重な美術資料が、昭和50年に
「東京藝術大学」に寄贈されたのです。
藝大に委ねられた事により、是真の鋭い観察眼をもって、流麗かつ確実な線で精緻に描かれた
下絵は、再び人々の前に姿を現わすことになりました。
そして現在もなお、他の追随を許さぬほどの美的精度の高さが
放下鉾天井幕製作担当デザイナーの感性に届き、見事な綴錦となって蘇って来たのです。
* * *
この懸装品一つに焦点を当ててみても、これだけの物語がある祇園祭の工芸品。
今年のお祭りには、数ある美術品の中から珠玉の逸品を見つけるのも、愉しいかも知れませんね。
参考資料 : 『柴田是真 下絵・写生集』東京藝術大学美術館所蔵(東方出版)
『柴田是真 花の丸集成』(京都書院)