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「江戸の武士」  ”武士の学問”   7

2009年10月03日 10時41分45秒 | ビンちゃん

 



  武士の学問

江戸時代の教育機関には、庶民の子供が通う寺子屋と、武家の子弟が通う藩校や

私塾がありました。藩校は藩が設立.運営、藩士の子弟は大抵通った。

それに対して、身分や性別に関係なくだれでも通えたのが私塾。

門下生の大半は武士の子弟でしたが、なかには寺子屋を終えた庶民がさらに高度な

教育を望んで、入学を許される事もありました。

幕府の学問所として、多くの門人を輩出した[昌平坂学問所]がありました。

この学校はもともと儒学者の林羅山の私塾としてスタートしたものですが、のちに

学問好きだった五代綱吉が湯島に移転させ、広大な敷地の中に大規模な聖堂や校舎

寮を完備した。しかしその時はまだ私塾あつかいで、幕府直轄の学問所となったの

は、江戸後期寛政九年(1797)です。

昌平坂学問所の最大の特徴は、成績優秀者には出世の道が開かれる、”試験制

度”が実施されていた事でした。それまで。家格によって出世の道がほぼ決まって

いた武士にとっては、チャンスと夢が出来幕臣達はこぞって試験を受けた。

試験には二種類あって、(Ⅰ)十五才未満の旗本、御家人の子弟を対象に”素読吟

味”、 成績優秀者には、身分に応じてご褒美の金品が贈られた。

(2)十五才以上を対象に、三年ごとに行われた”学問吟味”、 

寛政六年(1794)に行われた第二回の合格者には、狂歌、戯作者として有名だった

大田南畝(ペンネーム蜀山人)はみごと主席で合格、46才のチャレンジ。

これを機に作家生活を廃業し、大坂や長崎の任務につき、官僚の道に進みました。

又、北方の探検家として名を残した先手組与力の近藤重蔵や、遠山の金さんのお父

さん、遠山景晋も及第して、出世の糸口をつかんでいます。後に景晋は自分の経験

をもとにして、「対策則」という、合格答案をまとめたものの本を書いている。

試験をめざす武士達は、その本をまわし読みして受験勉強に励んだそうです。

今の受験生と余り変わらないですね。
                        byビンちゃん

(株)夢の設計社 歴史の謎を探る会 より


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