ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

相次ぐ政治家の失言を考える

2008年11月30日 | 国政事情考察
 政治家の失言がここ最近、マスコミを賑わせている。マスコミの、発言のコンテクストを無視し一部のみを抽出してこれを批判する姿勢は大いに問題があり、表現の自由とか報道の自由以前の問題であるのは言うまでもないが、馬鹿なマスコミにつまらぬ揚げ足を取られる政治家も政治家である。

 政治家に言葉はつきものである。なぜなら、言葉によってその政治家がこの国をどう動かし、どのような方向へ持っていこうとしているか知ることができるからだ。今はインターネットを通じて意見を表明できるようになったが、それでも政治家が自身の信念や意志を自身の口から語ることの意味は失われていない。

 言葉とは政治家にとって、国民と政治を結ぶものと考えなければならないはずだ。言葉足らずな政治家では正しいことをしても国民は正当に評価してくれず、多弁過ぎる政治家は国民から信用されない。今政治家に求めらているものは、有言実行することである。できないことをできますと言ったり、あるいはできますと国民に確約しておきながらそのことを実行できないから、国民は政治家の言葉を信じず、政治不信は強まる。

 政治家であるならば、発する言葉には信念と本気さが窺えなければならない。本当にこの人物なら国政を任せてもいい、そう思えるような言葉を口に出来る政治家が、今は少なくなったのではないか。とはいっても、政治家といっても人間であるから、時には失言はするだろう。しかし、今の政治家の失言は、そう言って済ませられる範囲を超えているのではないか。あまりに思慮の浅い、極めて粗雑な失言が目立つ。

 確かに真意を誤解されることもあるだろう。しかし、誤解を招くような表現をした自身をまずは省みるべきで、いたずらに「言葉狩り」だのと言って政治家が騒ぎ立てるのは見苦しい。ならば誤解を招かないような表現を最初からしていればよかったのだ。



 仮に、誤解を生むような失言をしたとしても、その失言が何かしらの信念や意志に基づいていれば、発言の真意を適切に説明できるだろう。ここでも政治家の言葉の力が問われることになる。

 たとえば中山成彬前国交相の日教組解体発言。彼の発言は多方面からの批判を招いた。しかし彼は発言を撤回せず、自身の主張を押し通した。私は以前彼の発言を批判したが、この姿勢は評価している。たとえそれが間違っていたとしても、周囲からの批判にもかかわらず信念を曲げず、あくまで持論(=発言)を撤回しなかったということは、それだけ自分の発言に自信があり、確信があるのだろう。

 失言をするなとは言わない。私が言いたいことは、一度言葉にし発言をしたからには、最後までその言葉に責任をもってもらいたいということだけだ。責任を持つにはゆるぎない信念や意志が伴ってなければ無理だ。だからこそ政治家の言葉の裏には信念や意志が必要なのだ。失言をしたとしても、批判を浴びたからといってすぐさま撤回するのではなく、なぜそのような発言をするに至ったか丁寧に説明してこそ、言葉に責任を持つということになる。政治家には常に確信犯であってもらいたい。



 私が一番ここ最近の政治家の失言として許せないのは、軽々しくおこなった失言が目立つということだ。「関東大震災が起こればチャンス」とか、「医師は社会的常識が欠落している」とか、これら発言には先に述べたような言葉としての「重さ」が感じられない。重さが感じられない言葉には信念や意志といったものは含まれていないから国民にも届かない。ただの失言として脳裏に残るだけだ。誤解を招くような表現かどうかという以前に、その言葉には一体どのようなメッセージが込められていたのかと訊きたくなる。

 言葉が乱れるということは、その人の心も乱れているということであり、乱れた心で政治をすればその国は乱れる。国が乱れればその国の存亡問題になる。たかが失言程度で考えすぎと言われるだろうが、為政者の心が乱れているということは、その被害を直接に被るのは国民であり、決して看過できない問題である。言葉が軽いということは、つまりはその人自身も軽い人であって、そのような人物に政治を任せるのはあまりにも危険である。

 弁舌に長けたキケロはこう言っている。「賢明な思考よりも、慎重な行動が重要である」と。いくら政策や政治手腕に長けていても、慎重な行動が伴っていなければ、政治家として失格である。政治家は言葉が命であり、その命たる言葉は慎重な行動をもって発しなければならない。

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