ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

核保有「議論」はどこへ行った?

2007年07月27日 | 国政事情考察
 世間では年金年金と喧しいですが、ところで、核保有「議論」はどこへ行ったのでしょうか?それとも立ち消えしてしまったのでしょうか?あれほど政界を賑わせた(?)核保有「議論」ですが、最近ではとんと耳にしなくなりました。マスコミも、そのような話はまるでなかったかのような振る舞いです。与野党こぞって「触らぬ神に祟りなし」と、ダンマリを決め込んでいるかのようです。少なくとも、「議論派」の声は聞かれなくなりました。

 昨年11月7日の産経新聞において、石原慎太郎都知事が言っていた、「ある種の理念の前では自由な現実的議論さえ封じられなくてはならぬ」という理解に基づく、左派の「非核ファシズム」に勝利を許してしまったのでしょうか。

 左派は故意に核兵器保有に関する検討と、現実の核兵器保有をイコールと結びつけるように情報操作を試みましたが、核兵器の保有を検討することと、核兵器の保有はイコールではありません。検討するのもダメというのならば、「唯一の被爆国だから」などというセンチメンタルな感情論ではなく、理論的に説明をするのが筋でしょう?

 以前に岡本行夫氏が指摘していたはずですが、確かに核兵器の保有には、莫大な費用と土地面積を必要とします。日本にはそれに耐えうるだけのものが備わっているとは考えにくいです。しかし、少なくとも、非核三原則などという亡国思想は排除するべきです。なぜ非核三原則が亡国的かと言うと、外交には背後に必ず軍事力があるものです。そして外交上重大な場面では、それが大いにものを言います。ナポレオンも「外交とは華麗な衣装を纏った軍事だ」といった言葉を残したといいます。国益を最大限に実現する外交を展開するにおいて、核兵器の持つ力は他のあらゆる兵器に代え難いものがあります。

 日本政府も昨年9月「核兵器の国産可能性について」という文書をまとめています。それによりますと、数百人の技術者を動員し、3000億円ほどの費用をかけ、最低3年で日本も核武装が可能であるとしています。
 しかし、日本が核武装することは、このような技術・時間以外にも、外交力の強化など、並大抵のものではないハードルがあります。現実の特定アジアの脅威に対抗するためには、あまりにも悠長な視点では話になりません。

 仮に日本が自前での核武装を検討すれば、中国は日本の核武装に反対することは火を見るより明らかです。アメリカはどうかと言えば、そのアメリカも中国と同じく戦後の国際体制を構築したメンバーです。ということは、それら各国の、常任理事国のみが核を持ち、世界秩序を形成していくという思惑のもとで作られたNPT体制という戦後の体制は、これら各国にとって死守するに値するものなのであります。
 つまり、アメリカも中国もNPT体制を擁護する姿勢には変わりないのだから、いくら緊密な同盟国といえども、日本が自前で核武装をしようものなら中国と一緒になって警戒心を顕わにしてくることは必至です。こういった事情もあり、日本が自前で核武装をすることは極めて難しいと言わざるを得ないでしょう。

 そこで、日本が短期間に、しかも効率よく核武装する方法は二つ考えられます。一つは、日本がアメリカの核兵器を一定の金額を支払うことによってレンタルし、国内に配備するというものです。しかし、これもアメリカの同意を得ることは難しいでしょう。そうならば、非核三原則の「持たず」と「持ち込ませず」を排除し、在日米軍に日本国内への核兵器の持込み及び日本国内での所有を認め、有事になった場合は自衛隊もそれ使用することができる、というようにするべきです。これならば、短期間で核の抑止力も確保できますし、流動的な東アジアの安全保障にも対応できます。

 国家の役目・主たる任務は、しばしば言われるように、国民の生命と財産、そして歴史と文化を育んできた国土を護ることにあります。そのためには、「もし」という事態や「万が一」という事態に万全の備えをしておくのが常識であり、こちらが「おりこうさん(非核を貫けば)」にしていれば、相手も「おりこうさん(核を日本に向けて使わない)」になってくれるなんていう考えは、亡国まっしぐらです。

 非核を貫いたために再び日本の領土に核が落とされたのでは、これ以上の皮肉で愚かなことはないでしょう。政治家に求められているものは、年金で国民のご機嫌を取ることではなく、国家のためならばいかなる議論も辞さず、そしてそこからの批判にも耐えうるだけの「覚悟」です。

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