ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

エホバの証人の輸血拒否から見る「自己決定権」

2007年06月24日 | 倫理・道徳関係
 先日、今年5月中旬に大阪医科大学付属病院で、帝王切開の手術を受けたエホバの証人の女性信者が、宗教上の理由から輸血を拒否し、死亡していたことが判明しました。これを受けてなのか、日本輸血・細胞治療学会(以下、「学会」という)などが、15歳未満の患者については、信者である親が拒否したとしても、救命を優先して輸血を行うとすることを決めたそうです。生命至上主義の現状からは、この判断は賢明かと思いますが、この一連のエホバの証人をめぐる医療行為と患者の自己決定権について、自分なりの考えを述べてみたいと思います。

 まず、今回の学会の決定は15歳をその判断のラインにしていますが、そもそもたとえ15歳未満の子供であっても、エホバの証人への信仰が厚く頑なに輸血を拒む場合があるはずですが、果たして、この場合でも病院側はパターナリスティックに患者の自己決定に介入し、それを否定してもいいと言えるのでしょうか。信仰心に15歳未満とそれ以上の年齢の人との間に差はないはずです。

 仮に、信仰心旺盛な14歳の少年が何らかの病を患い、手術をしたとしましょう。そのとき、この少年が輸血をしたことによって九死に一生を得たとしましょう。しかし、それで「よかったね」と喜べるのでしょうか。確かに生命は助かり、少年が若いうちに命を落とさずに済んだことは、一般的に考えれば「めでたい」ことでしょう。しかし、彼にとっては(ないしは家族もエホバの証人であったら)、そのことを手放しで喜べると言えるでしょうか。

 この、エホバの証人の敬虔なる信者である少年にとって、その後の人生は輸血を「されてしまった」というとてつもない苦痛と、それによって教義を破り、自分が「生かされている」ことに対して、一生葛藤して生きていくことにはならないのでしょうか。この少年からすれば、病院側の対応は、有難迷惑では済まないと思います。

 ところで、エホバの証人への輸血行為に対しては平成12年2月29日に最高裁判決が出ています。この事件では、エホバの証人である女性が病院側と手術の際に輸血をしないでくれという同意書を交わし、仮に輸血をしないがために生じた損傷について病院側の責任を免責するという旨を確約しました。しかし、病院側はこれを破り輸血を行いこの女性を助けてしまったので、女性側が病院を訴えたというものです。
 これについて最高裁は、「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。」と判示し、輸血以外に救済の方法がない場合「当病院では輸血をしますよ」ときちんと患者に説明し、患者自身のの意思決定に委ねるべきであるにも関わらず、輸血の可能性を認識しつつもそれを患者に告げず、輸血をしたことは患者の意思決定をする機会を奪ったものであるとし、患者の「人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。」としました。この最高裁の態度は極めて妥当であり、病院側の患者の自己決定権へのパターナリスティックな介入を防ぐ点からも望ましいものと言えるでしょう。

 話を戻して。人間は自分が誰のもとに生まれてくるかは選択できませんが、どのように死ぬほうがいいかは選択できるはずです。「生まれ方」は選べないですが、「死に方」は選ぶことが可能です。これは安楽死や尊厳死にも関わってきますが、末期癌の患者が激痛を伴う治療を拒み、その意思を尊重してあげるのと同じように(エホバの証人にとっての輸血とは、癌患者の激痛を伴う治療と同じぐらいの苦痛があるものと考えます)、エホバの証人が信仰上の理由で頑なに輸血を拒み、輸血をしなければ死んでしまうという場合にも、本人の意思(輸血拒否)を尊重し、「宗教に従って」死ぬほうが、エホバの証人の自己決定権を尊重する観点から、たとえ15歳未満であっても、望ましいと思うのです。輸血をされ、強制的に「生きること」を強要されて、葛藤の生涯を送るよりは、患者の信仰に従い輸血はせず、望まぬ生を与えないほうがいいと思うのです(もちろん、医療行為は最善を尽くすべきというのは言うまでもありませんが)。

 生命至上主義も大切ですが、だからと言って、患者の自己決定権までもパターナリスティックに介入してもいいというわけではないと思います。医療とは、患者の自己決定権を尊重し、それに従ってなされていくべきだと思います。

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2 コメント

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生命至上主義への疑念 (シードン)
2009-07-16 21:08:42
臓器移植法の成立に伴って生じて来るさまざまな事態を考えようとしているうちにこの記事に出会いました。
「献血/輸血」は「臓器提供/臓器移植」を考える手がかりになると思います。「生命至上主義」も一種の宗教的教義のように思えます。用心が必要ですね。
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シードンさん (管理人)
2009-07-17 00:12:25
コメントありがとうございます。

思うに、心臓は動いているけど脳は死んでいる状態で、「生かされて」いたとしても、果たして本人は本当に満足なのか、と。仮に家族としてはそれでもいいと思っていても、現在の医療水準では脳が死んでしまっては、もう蘇生の可能性はないです。

ということは、いずれ「別れの日」が来ることは明らかです。脳が死んでしまっているのに人工的に生かされている状態というのは、本人にとっても家族にとっても幸せではないと思っています。

本人の意思を生前に確かめておくことが大切でしょうけど、不謹慎な言い方ですが、「見切り」をつけるのもまた大切ではないかと。しかし、生命至上主義にどっぷり浸かってしまうと、これができない。

臓器移植法の問題は、いずれだ誰かがはっきりとした基準を示さなければ、移植を待っている人も、脳死の人も、両方が不幸になってしまうし、現場の医師に不要な精神的負担がかかっているでしょうから、私は脳死は人の死とした判断には賛成です。
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