ひとり井戸端会議

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国民新党は「表現の自由」を何と心得る

2009年03月19日 | 国政事情考察
「書かないなら会見出ないで」国民新党が一部の記者排除(読売新聞) - goo ニュース

 国民新党は18日の定例記者会見の際、先に発表した緊急経済対策を報道しなかったことを理由に一部報道機関の出席を拒否した。
 記者会見から特定社を排除するのは異例だ。
 同党の亀井静香代表代行は、記者会見に先立つ党本部での両院議員総会の冒頭、13日に発表した経済対策について「みんな集まって誠心誠意やった結果を発表した。全力をかけているものを1行すら載せない社は、会見なんか聞いてもらう必要はない」と語った。
 その後、党職員が「党幹部の総意」として「経済対策を掲載・放送していない会社は記者会見に出席しないでほしい」と伝えた。経済対策を報じなかった新聞社や民放の記者もいったん会見場に入ったが、亀井氏が改めて「1行も書かないなら会見しても意味がない」と退席を求めたため、外に出た。
 記者会見には亀井氏のほか、綿貫代表、亀井久興幹事長らが出席し、アフリカ・ソマリア沖の海賊対策や政治資金規正法改正などについて党の見解を説明した。
 これを受け、野党記者クラブは代表者会議を開き、同党に抗議することで一致した。



 憲法21条にはこのようにある。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と。しかしながら、どうやら国民新党にはこの条文の持つ意味、ならびに重さを理解できる者がいないのだろう。

 国民は誰であろうとも、主権者として国政に関する事柄について、表現する自由を有している。表現の自由とは、主権者たる国民が自己の考え方やものの見方に基づいて自由に様々な意見を表明し、社会を深化ならびに進化させるために、民主主義社会においては不可欠の存在である。

 したがって、国民新党の今回の「暴挙」は、表現の自由を揺るがすものであり、到底容認できない。野党記者クラブが同党に抗議したのは至極当然である。



 そもそも、新聞の紙面やテレビニュースにおいて、報道できるニュースには限りがあり、報道されるニュースは必然的に優先順位や国民からのニーズの高いものに限定されてくる。

 しかしながら、どのニュースを報道すべきかという、いわばニュースの取捨選択権は、国民の側、すなわち報道機関の側にあるのは、憲法上保障されている表現の自由の規定からして明らかである。

 もし、ニュースの取捨選択権が報道機関の側にないとなれば、報道機関は政治に対する批判的見解を表明することができなくなり、ときの為政者や多数政党の提燈持ち記事しか掲載できなくなってしまうという事態も考えられる。報道機関には取材をした上で、その「ネタ」をいかに「料理」するか、ないしはそのネタをボツにするかを決める自由がある。



 それに、だ。仮に報道機関の多くが同党の政策を取り上げなくとも、今はネットが普及している時代である。仮に「みんな集まって誠心誠意やった結果」が報道機関から相手にされなくとも、ネット上でこれを公開し、党の政策を誇示すればいいのではないか。

 にもかかわらず、「全力をかけているものを1行すら載せない社は、会見なんか聞いてもらう必要はない」とは、へそを曲げた子供のような話で、立憲主義に則って政治を行う政治家のする発言としてはあまりに程度が低く、そして表現の自由の何たるかを心得ていない発言である。

 何度も繰り返すが、たとえ取材をしてもそれを報じるか報じないかは報道機関の側の自主的な判断に委ねなければならないのであって、「経済対策を掲載・放送していない会社は記者会見に出席しないでほしい」などという暴言は表現の自由を侵害するものとして言語道断である。



 もはやこれは表現の自由以前の話だが、そもそも人間誰にでも、一生懸命やったり誠心誠意やっても報われない、もしくは自分の思っていた通りにはいかないことぐらいあるだろう。それとも、国民新党の人間は今までそういう思いを知らずに生きてこられたのか。

 国民新党はマスコミを非難する理由を考える時間があるのなら、自党のニュースバリュー向上にでも努めたらどうか。

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