直江実樹 naoe-miki / Radio Perfomer 's Blog

短波ラジオ奏者直江実樹のライブスケジュール活動報告等のブログ

9/17 @ 馬車道 北仲ホワイト・Polonium(ポロニウム)

2006-09-13 01:07:08 | Weblog
鎌倉の興奮冷めやらぬ内に、ライヴです。
鎌倉LIVETHICAは有難うございました!!
近々レポ書きます!!

9/17 @ 馬車道 北仲ホワイト・Polonium(ポロニウム)
→http://polonium.jp/polo.html

/17 @ 馬車道 北仲ホワイト・Polonium(ポロニウム)
→http://polonium.jp/polo.html

■ 淺井裕介  ーおしまいだから描いているー 展

会場:北仲WHITE404 Polonium
時間:15:00~19:00 (時間外はメールにて予約受付ます)
入場無料

□17日 19:00~21:00 -LIVE-
大上流一 田中淳一郎 直江実樹 3人のソロプレイヤーによるソロライブ

※ 演奏中は入退場できません
※ 19時以降は正門が締まります、裏口からどうぞ

淺井:oy_oy33@yahoo.co.jp
Poloniumホームページ: http://polonium.jp
19:00くらいから

LIVE <solo x 3>

大上流一 / Guitar

田中淳一郎 / Guitar + Soundeffects

直江実樹 / shortwaveradio + soundeffects + (+)

Poloniumは神奈川の若手アーティストが共同で使用するサロンにしてアトリエにして、ギャラリーでもあるスペース。電脳やセッションでもお世話になった、アーティスト浅井裕介さん(http://mixi.jp/show_friend.pl?id=5563559)のペイントが、Poloniumの床を壁面を縦横無尽に、展開展示されるイヴェントのスペシャル企画として、Poloniumの一員でもある音楽ライター兼ノイズミュージシャンの諸根陽介さん(http://mixi.jp/show_friend.pl?id=908886)とユニット、U.F.O.工房、バンドユニット「シェロ」、アヴァンポップユニット「ジュセイ」、最近はフォーキーな唄もの的側面も見せるソロ「のっぽのグーニー」など、多面的に活動する田中淳一郎さんの企画に滑り込み出演となりました。エチカ以上に微音で、コラージュ的要素の強い内容になると思います。共演は、sus tension inというインプロセッションに参加させていただいた今はPlan-Bのマンスリー拠点に数々の大物と共演を重ねている、デレクベイリーに師事したツワモノインプロヴァイザー、大上流一さん(http://www.milkman.jp/ryuichi%20daijo/daijo%20index.html)です。



続報として、15~19時までは展覧会で、19時よりライヴ開始。
入場フリー。

部屋を真っ暗にして、豆電球で、作品を照らした中での演奏になるとか、楽しそう!

以下、主催の浅井くんのコメント

*************

今日は淺井裕介です
ふとした事から手が動き始めて現在Poloniumの片側の壁に壁画を制作中です、
たくさんの白黒のヘンテコな生き物がいろいろな所でニコリとしている様な絵で、あと2ヶ月をきった北仲WHITEビルでの活動ということが、どこかでこの絵を描かせているのだなと感じました。
大きな絵を描くのは久しぶりなので描いていてとても楽しいです。
16,17日にPoloniumにて展示のようなものを行ないます、宜しければ遊びにきて下さい。

17日の夜には3人のミュージシャンによるソロが3つあります。
自分は即興音楽というのは自由し放題のジャンルだし退屈だったりするからあまり好きじゃないのですが
彼等はそれぞれになかなかの猛者であり、即興(ライブ)である事に対し真摯に音を放ちます。

それは自分と絵画との関係にもどこか似て、期待と不安がとてもいい具合に練り混まれていきます。

ご興味あれば、(目と耳を持って)足を運んで下されば幸いです。


****************************
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中川一郎インタビュー vol.2

2006-09-09 18:22:13 | Weblog
Q:(vol.1の続き)
塚原さんの写真はモノクロ、映像はカラーというシンプルなスタイルがとても鮮明でした。
映像についてですが、どこか1箇所での撮影なのでしょうか?
それともランダムなのでしょうか?
海中の重力感が効果的です、映像自体が照明になっていると思います。

及川さんは映像とのリンクでは、先人です、アプローチとしては、コントロールの面において、違いがありますが、意識というのは、ありました?それ以外のアーティストなども含めて。

江古田サバンナはまた、魅力的ですね。
楽しみです!!

中川一郎:
(塚原さんの映像作品について)

多分、複数箇所で、撮りためた映像の組み合わせだと思います。最近、スキューバダイビングはすっかりご無沙汰なのですが、モルディブ等々のダイバーとしては垂涎物の世界的スポットで撮影されたものだと思います。

塚原さんには、昨年のDMF以来、ライブに来てもらったり、ぼくのオーディオCDを聴いてもらったりして、イメージを持ったうえで、音楽素材を編集したと聞いています。

ダイビングでは、海中で中性浮力になるように、調整した分量の重りを付けて海に入ります。塚原さんが撮影されたのも、その中性浮力の状態・・まさに宇宙遊泳をしているような状態であります、で撮影していると思います。

その感覚が、江古田FLYING TEAPOTで上映した時にも、うまく現れたのだとすれば、企画した甲斐があったというものであります。

どこかで、故キューブリック監督が、映画撮っていない時には、スキューバダイビング三昧であったという話を聞いたことがあります。あの映像の感覚が生まれてきそうな体験だなと確かに思います。ダイビングは。

「2001年宇宙の旅」で、宇宙船の外で作業か何かをするところで、遊泳状態で、自分の呼吸の音だけが聞こえるというシーンがありますが、その話を聞いてから、「2001年」を見た時、「あ、これ、ダイビングの時の感覚、そのものずばり!」なんて思ったことがあります。

(映像とライブと、及川禅さんと・・)
映像が流れながら、そこでライブを・・というのは、ピンクフロイドの「パルス」のビデオで見たりとか、モンタレー・ポップフェスティバルのジェファーソン・エアプレイン(だったか、ジャニス・ジョプリンだったか・・)が細胞の映像を流しながらライブしているのをビデオで見たりとか。あるいは、81年11月に見た「裸のラリーズ」であったりとか。

また、中野富士見町に住んでいた時に、近所の「plan B」でやっていた「オリジナルサウンドトラック」(大南 匠さん(ピアノ)、黒川芳朱(映像)、佐々木柾(打楽器)の、黒川さんの映像作品を流しながら、ライブをするのを見たりとか。

あるいは、90年代半ばに、「Moon Age」というテクノのパーティで、VJとDJの映像と音の関わりを体験したりとか。

また、96年にユニットで、ライブをやった時に、VJを「Moon Age」のVJをなさっていた御手洗大祐さん http://www.huis.gr.jp/~mitarai/profile.html にお願いしたりとか。

そういう諸々が自分の中に沈殿していたというのはあったと思います。

「この場所で、たとえば、こういうやり方で、素敵な時空を示現できるんだ!」みたいなことを、ガツンと示しくださったのが、昨年の「世界先端音楽家集会」の時の及川さんでした。「ああ、このフライング・ティーポット」でこういう風にできるんだと。

その時の及川さんの時のステージでは、音にリアルタイムで映像が反応するというエフェクトを使っていらっしゃって、実にダイナミックな映像と音楽との相互作用が展開されていました。

ぼくは、ただ、塚原さんの海の映像が流れて、そして、即興があると。それがいいなあと感じておりまして。

ライブに来てくださった方、お一人お一人が、きっと融合させて、それぞれの在り方で音と映像の相互作用をその場でリアルタイムで、体験するということだというつもりでありますが。

Q:
中川さんはWEB上での楽曲配信に際して、ゼロストレート、著作権フリーということを続けていらっしゃいます。何度も説明されてきたこととは思いますが、あらためて、教えていただけないでしょうか?

中川一郎:
■Open Creation Movementとの接点

自分が自分の楽曲・音源とかの著作権上の扱いをどうするか。それを考えるきっかけとなったのは、Open Creation Movementを興し、OCPLを作った相川祐典さんが、友人であり、また、活動再開後のぼくのオーディエンスであったこと。

そこにつきると思います。身近なところで、相川さんがOCM、OCPLを始めるというので、一人の自分の音楽・歌をやる人間としてどうなんだろうってことで、参加していました。

■OCPL00000(ゼロスト)、著作権フリーの選択

2002年の3月に、OCMがOCPLをリリースしました。その基本の作りは、相川祐典さんが、鎌倉の材木座海岸の近くの宿で三日三晩で著作権法を参考にしながら、作ったというものなのです。鎌倉との間接的な接点ですね。


著作者・著作権者が、自らの作品の著作権の扱われ方について五桁の数字で表現できるようにした仕組みです。そのファーストユーザとなる僥倖に恵まれました。

OCPL00000では、複写、再送信等について、著作者・著作権者としての許諾を要することを予めすべて許諾します、連絡とかも不要です。と言うフリーな状態にしますということを表明するというものであります。

当時、まあ、数時間ほど、いろいろと考えましたが、中川が音楽をやっていることがどういうことか、それを突き詰めると、結果として録音されたものとか、楽曲とか、そういうものにつ
いてはフリーにするべきなのだというところにたどり着きました。

日本のロックの先人たちの・・

「形あるものは、形なきもののたかだか効果音にすぎない。」(早川義夫)
「私たちの望むものは、荒々しくはかない、一つの音楽。」(岡林信康)

というような言葉に思いが至ったということがあります。

音源、楽曲については、今もOCPL00000(ゼロストレート)ということにしていて、それを表明するようにしています。

自分としては、録音された楽曲・音源を聴く時間を割いてくださり、興味を持ってライブに来てくださるということが最もありがたいことです。

楽曲・音源は、どんどん、ブロードバンド・ディジタル環境で流通していってくれて、複写される、ダウンロードされる、送信されればされるだけ、ライブに来てくださりそうな方との接点が広がります。

■ブロードバンドネット環境とipod革命とpodsafe

その2002年の状況から考えますと、現在はずいぶんと状況が変わりました。ブロードバンド化、ディジタル化が進み、日本にITMSも上陸し、DRM(著作権保護)フリーの音源の無償配信がなされるサイトもずいぶんと増えてきました。

一方、ipodの普及、podcasting(ipodで聴けるようなラジオ番組のようなものの制作)が普及するにしたがって、podcastingにどんどん使ってくださいねという音源・楽曲をダウンロードできるようにするサイトも増えていまして、そのようなところにも楽曲・音源をアップロードするようにしています。

海外のpodsafe music networkというサイトは、自分の音源ファイルが、どのpodcasting番組で利用されたのかということを確認できるようになっていまして。

ウィスコンシン州の学生さんの緩いアンビエント音楽紹介の番組とか、香港でラジオドラマを作っている人がバックグラウンド音楽に使うとか、あるいは、アメリカのベンチャー企業のトップへのインタビューという番組のテーマ曲に使われるとか。思わぬBGMのような使い方が海外でされていて、面白いなあと感じたりします。

というような具合で、これからも楽曲・音源は著作権フリーで公開します。

■有料配信は、浄財をいただく手段として・・

一部有料配信もするのですが、自分の運用の仕方としては、ある楽曲を無償ダウンロードサイトに登録して、一定期間が経過してから有料配信サイトにアップロードするようにすると決めております。

篤志家の方が、中川の音楽活動を経済的に援助するための浄財を下さるための仕組みとして、有償サイトを活用させていただいています。

日本のrecommuni、mf247というサイトで有料配信もさせていただいています。ダウンロードしていただけると中川が浄財を頂戴して、音楽活動資金に充当するということになります。(^^


これからもブロードバンド化と、ディジタル音楽処理はどんどんコスト性能を上げていくかと思います。それが、少なくともそのベクトルにおいては、中川の音楽活動の追い風になると、そのようなことであるといいなと思います。



関連URL等

Open Creation Movement/OCPL
http://www.opencreation.org/index.html

OCPL00000の世界(OCPL00000推進委員会=実は中川が勝手に名乗っているものです)
http://www.doblog.com/weblog/myblog/1399/1104873

OCMとぼく・・ささやかな決意表明(2002.3.14):楽曲・音源の取り扱いについて
http://www.asahi-net.or.jp/~JQ9I-NKGW/020314OCPLandMe.htm

湯島レコード運営ブログ・よっしー♪さんのエントリー
http://blog.livedoor.jp/yr05/archives/cat_487907.html

Pod Music Street 日本語で、podsafe音源を集積しているサイト
http://music.mycupoftea.cc/

podsafe music network の中川のページ
http://music.podshow.com/music/listeners/artistdetails.php?BandHash=b4fbf4f4e133ab0947d0396729cda6ca

podsafe music network
http://music.podshow.com/index.php

中川が有償配信しているサイト

recommuniさん
http://recommuni.jp/them/index.php/ARTIST/460

mf247さん
http://www.mf247.jp/view/index.php?module=artist&refno=31451

Q:今後の中川一郎の展開をお聞かせください?

中川一郎:根っこのところの、ギター弾いて歌う、それをレコーディングしてダウンロードできるようにする、一人でも聴いてくださる方があればライブをする。これはおじいさんになっても続けていこうと思います。

そうすることで、必然的に興るべきことがきっと興っていくのだろうと思います。

歌にせよ、ギターにせよ、音響にせよ、ライブなどをする場にせよ、興ることに素直に、忠実にということで行きたいです。

自ずから興るといいますか。それが中川の必然性だと。興るということで歌も、ギターも、音響も、ライブの仕方も変化するかもしれません。

それがそう興り、必然であれば、そうなっていくと。楽器や機材で必要なものが目についたら、自分の経済力で何とかなるところで購入して使いこなして、それでまた音も歌も変わっていくかもしれません。

音楽、映像、写真、舞踏、場等々との協働等も、必然的な興ることをしていくと。

行き当たりばったりといえば、そういうことになりますね。

そのようなことを続けていけば、60歳あたりには、夏の大規模な野外フェスティバルとかでライブさせてもらえるような機会がやってくるだろう。・・・という遠大な夢をもっております。

直近の展開ということでは、岡庭さん主宰の「大日本異ろモノフェスティバル」に、9月23日に参加します。(9.23 @鶯谷What's Up 中川の出演は22:10~)

http://s.freepe.com/std.cgi?id=2323232323&pn=02

このフェスティバルは、まだ、年内、まだ何回かあるかもしれません。独特の空気があるのが楽しみになってきています。なるべく最初から最後までいるようにしています。元気をもらえるバンド、そもそもに自分が立ち返らされるようなバンド、そして、のらせてくれるバンド・・いろいろと場として素晴らしいです。


また、来年、年が明けましたら、映像・写真作家の塚原英幸さんや賛同してくれる小西さん、成冨さん、尾上さんなどと、音楽・映像のコラボレーションをします。今度は、海岸ではなく・・、「江古田サバンナ」とか思っておりますが。
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中川一郎インタビュー vol.1

2006-09-05 23:51:07 | Weblog
今回、9月10日の鎌倉の企画でLIVE出演いただく、中川一郎さんにインタビューを敢行しました。


Q:70年代後半当時、バンド活動のきっかけは何だったのでしょうか?

中川一郎:
高校の同級生の笹山ぜん(本名:笹山照雄)から、ベースをやらないかという電話を79年の夏にもらって、というのがきっかけになります。
それまでベース弾いたことはなかったし、パンクとか、ニューウェーブとかも、きちんと聴いたことは無かったけれど、やれそうだなと思って。その電話で、「わかった、やる。」と返事して。数日後にリハスタに行ってって感じで。
中学の時にフォークに目覚め、ロックに目覚め、ギターを我流で弾いて、自分で歌を作って歌うことを始めて。
高校(埼玉県・春日部高校)の時も、少しはやっていて。笹山ぜんとは、何度かクラスが一緒になったのです。笹山ぜんもフォークの弾き語りをやっていて。一緒のバンドとかでの活動はしませんでしたが。
笹山ぜんと一度、高校の時に日本のURCやELECのフォーク、ロックのことを深く話し込んだことがあって。「岡林信康、はっぴいえんど、ジャックス」とかで話が合って。当時、あまりそういう話題で接点の成り立つ同級生というのはいなかったのです。
そういう笹山ぜんがやっているバンドであって、「パンク・ニューウェーブ」というのは、「クロスオーバー」とか、「ジャズ」とかと違ってテクニックでどうのこうのということではなくてという理解をしていまして。
東京ロッカーズのゴジラ・レコードのことが紹介されていた「ぴあ」か何かの記事で、あるバンドで初めてスティックをもった人がドラマーでレコーディングに参加。なんてのを読みかじった。それを思い出したりしまして、「ベースも初めて弾くけれど、いいんだろう。」みたいな思いで参加したのでした。
東京の大学に埼玉から通っていたのですが、入試の時には真剣に漢文学者になろうと思ってました。第二外国語も中国語。でも、大学入って、専門課程の先輩から、「中国哲学やるなら大漢和辞典を教養課程の間で全部マスターしないと。」みたいな話を聞きまして。書物を読むのに、そんなに手続きを踏まなければならないのはたまらんとか思って、あっさり、五月くらいで、学者の道は断念して。
あとは、ずっと映画ばかり見ていたのです。名画座で。半年で100本くらいという勢いでしたか。そんな時に、笹山からの電話があって、よっしゃ、じゃあ、始めよう。みたいな気分がありました。
その笹山が上智大学に行って、そこでニューウェーブロック研究会に入って、そのサークルの中で、オリジナル曲をやるバンドを始めて。ベース、ドラムのメンバーを募集中で、都内の大学に行ってて、音楽やっていなくて、くすぶっていた僕のことを思い出して、誘ってくれて。
そのバンドが、「絶対零度」だったと。
その上智大学のニューウェーブロック研究会の経緯は、最近、絶対零度の立ち上げの頃のメンバーだった大熊ワタルが、書いていて。へぇそうだったんだって思ったりして。
そんな経緯でした。
参考:大熊ワタル「コンクリートは解体しても歌の在りかを消せはしない―法政<学館>の記憶のために」・・「音の力 〈ストリート〉 占拠編 (単行本) DeMusik Inter. 」所収 http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/475540147X/ref=dp_toc/249-6209112-1293117?ie=UTF8&n=465392

Q:「絶対零度」解散後、ブランクがかなりあるわけですが、まず、再び、活動するきっかけを教えてください。今の活動形態とは、かなり違うのでしょうか?

中川一郎:
「絶対零度」は、その後、いろいろとありまして、最終最後のライブを1982年の初夏のあたりに南青山のSHYというところでやりまして。中川はその後、あっさりと、就職活動して、就職しまして。
自分の音楽をやるという活動はしないで、専ら、ロックを聴くと。ちょうど、CD化が進んで、廃盤になっていた音源がどんどん聴けるようになった時期で。「ジャックスの世界」とか「村八分ライブ」とか。そういうものをききこんでいました。それが十年ほど続きました。
再び活動するきっかけ。最も直接的なきっかけは、94年あたりの、早川義夫さんの25年ぶりの音楽活動再開でした。そして、笹山ぜんとの再会でした。
10回近く、早川さんのライブに当時、出かけたわけですが、94年あたり。
日清パワステだか、どこだかのライブが終わってから、帰り道、「毎回、ライブに来てくださるのは嬉しいし、おいかけてくれるのも嬉しいのだけれど。あなたに歌いたいことがあるならば、それをぼくに投影して、ぼくを追いかけて紛らわすのではなく、あなたはあなたの歌を歌ってくださいな。」というようなテレパシーの声を聴いたような気がしたのです。
そんな声を聴いたような気がした後に、94年11月。渋谷公会堂の早川さんのコンサートに行ったのですが。会場に着いて、自分の指定席に座って。そしたら、ななめ前に、10年くらい会っていなかった笹山ぜんが座っていたのですよ。
コンサートが終わってから、ともに呑んで話して。で、やってみようという話になって。95年の1月に、笹山と中川らの「癒」(いやす)というユニットで、「地下生活者会議」に出演させてもらって。それが、人前で自分の音楽・歌をやるという音楽活動再開の前段階で。その後、いろいろと試行錯誤を経まして、97年の1月から、自分の歌を作って、エフェクトをかけたギターの弾き語りという形で、ソロでやると。そういう活動を本格的に進めるようになったというところでしょうか。
それで、しばらく、「地下から空へ」というシリーズで、笹山のソロ、中川のソロ、主に笹山が接点をもったオリジナル・弾き語りというアーティストのソロ。というライブを二~三ヶ月に一回というペースで、2003年あたりまで続けておりました。
音楽・歌のやり方ですが・・
「絶対零度」の終わりの頃に、自分で歌を作って、それをバンドでやるということをしていたのですけれど、歌の作り方は基本的に変わらなかったですね。
歌の一節が自分の中で浮かんできて。とにかくそれを歌わないとどうにも気が済まないと。その一節なり、もう少しかたまりになってでてきたものをまとめて歌にすると。
ギターの音にエコー、ディレイ、リバーブなどのエフェクトをガンガンかけて、響かせる。そういう感じの音への傾斜もありましたけれど、歌を即興でやるという方法にするまでは、ビートであったり、フレーズであったりとか。そちらへの志向もありまして。
ライブの時には、後入れ先出し法って感じで、新しくできた歌が中心になって行きました。
でも、ライブに向けては、どの歌をどの順番で歌うかを決めて。それを何度も何度も練習すると。そういうやり方でした。
そのやり方で、97年から2003年の1月まで、続けていたということになります。

Q:笹山さんとのユニットから、ソロへの、試行錯誤は、具体的に、どんな経緯をたどったのでしょうか?
97~2003までの音源というのはあるのでしょうか?
また、今のスタイルで当時の曲を演奏、または解体するという可能性はありますか?
もしくは断片的に残っている楽曲というのはありますか?

中川一郎:
(95年1月~97年1月のソロ活動開始まで・・) 95年1月のライブ以降、歌をやりたいという思いが募りまして、音楽活動を本格的に展開しようと考えました。
「絶対零度」で81年~82年は、ぼくが作った歌をギター弾いて歌うということをやってました。その時に作った歌の中に、いくつか、あまりにも、誰にも聞かれなかったなあ、このままでは切ないかもなあ、と思った歌がいくつかありまして。
それを、活動を再開して、もう少し、いろいろな人に聴いてもらおうと。とっかかりはそういうところでありました。
歌を聴いて欲しいというのがあった。ライブでやりたいと。けれども、やれそうな箱が小さいことを考えるとドラム、ベースを入れるのは無理だなと。
小さい箱で、ドラム、ベース、ギターという編成のバンドで
ボーカルがきちんと聞こえるというのは無理だよなあと思ったし、納得できるメンバーと入念に練習を重ねてというのも厳しいよなあと。
それでギターだけでやろうとなりまして。ギターは、リズムギター中心になると。エレアコでエフェクターだと。
コルグのパンドラボックスというエフェクターを買ったら、結構、ステレオ効果もあるバラエティのある音が、エレアコとの組み合わせで出せるのだなとわかり。で、それならギターアンプじゃなくて、ステレオでPAのミキサーに入れて、ステレオ効果を存分に出そうと。そんなことを、当時は中野富士見町に住んでいたのですが、近所のスタジオに週末に出かけていって。
かつての歌を練習したり、新しく歌を作ったりしながら、模索していました。誰かに自分の歌を歌ってもらって、自分はギターに専念する。エレアコとステレオエフェクターでバンド以上のインパクトのあるユニークなロックをやるんだと。
それで、歌ってくれる人がいたので、95年の後半あたりから練習を開始して。96年に三回ほどライブをやりました。
そのうち、かつて創った歌をライブで繰り返すという方向ではなく、自分で新しい歌をどんどん作って、どんどんやりたいという思いが、強くなりまして。
つんのめった感じですね。前に。バンド編成、ユニット編成だからできる音の豊かさとか、歌のこなれ方とかあります。けれども、前につんのめった「とるものとりあえず」性、すぐに歌いたい性みたいなところが強くなりまして。
「わがままいっぱいのダメな俺だが・・・」(「いい子だね」ジャックス)、みたいなわがままいっぱいで、1997年からはソロでやるようになったのです。
ソロになってから、しばらく、笹山ぜんのソロ、それから、ぼく。それから、主に笹山が依頼したゲスト。というフォーマットの会を、2003年の1月あたりまで続けていました。

中川一郎:
(97年から2003年あたりまでの音源)
nextmusicさんに上げている曲の中の下の方が、97年あたりから、2003年あたりまでの、作った曲です。
「極北の歌」から、「君は君の歌を歌え」あたりまでですね。
「いつもと同じ 時計、電車、風景、天気、看板、空、海、線路、踏み切り」から、「近頃は時間をグラム単位で計るらしいね。:OCPL00000」あたりは、自宅で即興で歌い始めた時期の録音です。
それ以降は、即興のライブレコーディング、スタジオレコーディングのものですね。大量ですね、それにしても。

http://www.nextmusic.net/index.php?command=profile&profid=20040919102044

さらにその前の音源が若干、mp3.comがあったときに、mp3.comに上げたものですが・・

http://www.garageband.com/artist/Ichiro_NAKAGAWA

にあります。タイトルが文字化けしてしまって、しょうがないですね。いつか整理しないと。

中川一郎:
(今のスタイルで当時の曲を演奏、または解体するという可能性)
2004年6月以降、即興をするにあたって、「興る」(おこる)ことに専念している感じです。
かつて作った歌について、「意図的に演奏するぞ!」、「解体・再構築するぞ!」とかいう意図をもって即興に臨むことは無いだろうと思います。
改めて興る(おこる)というあり方で、歌の一節とか、ギターのフレーズとかが、かつて作ったものを即興の中で歌ったり、弾いたりということはあるかもしれません。
最近では、「どこでもないどこか、いつでもないいつか」という歌の一節が改めて興ってきました。
「サガス」という、99年に作った歌の一節でした。

http://www.garageband.com/song?|pe1|S8LTM0LdsaSnaFe-ZGg

この問いかけがきっかけで、実に久しぶりに聴きました。

Q:今の形態になる経緯にかなり興味があります、楽曲というスタイルから、即興へ。楽曲というアプローチの頃は、ギターによるミニマルサウンドではなかったのでしょうか?

中川一郎:
予め歌を作り、弾き語りで歌う。このスタイルでやっていた時、根っこのところでは、ギター一本の弾き語りだけれども、ライブのトータルではバンドサウンド以上のインパクトを実現したロックサウンドであらしめたいいと思っていたように思います。
自分が弾くのはリズム・ギターであり、自分の基底のビートはエイト・ビートであると。で、結構、ピックを使って、ピッキングの妙でロックなうねりをギター一本でと。そういう志向のギターの弾き方でした。その響き方にはこだわりがあって、低音から高音まで、そして、潜在的なギターの響きが全面的に響きまくるようなエフェクト。音楽面ではそれがテーマでした。
2003年1月のライブまでは、そのカチッとしたエイト・ビート・リズム・ギターと、予め歌として作った歌でライブをすると。そのような在り方であったのですが、転換が興ったのは、2003年の秋あたりからです。
舞踏の佐藤麻耶さん( http://www.ganymede-dance.com/ )から、いつか共演しましょうというご提案をいただきまして。それで、二回ほど、佐藤摩耶さんの公演に行きまして。それで、この人と共演するのに、これまでのやり方では根本的にだめだと。予め、歌を作って、何をやるかを決めて、それを予め練習して。そういうやり方では、この人の舞踏との共演は成り立たないと。
そこが転換点で。それで、もう、予め歌を作らないで、自分が生身で、ギターを持って、そこにいて。それで、予め決めごとなしで演奏を始めると。それで、その場の空気を感じて、映像が見えたり、あるいは、歌うべき言葉が自分の目の前に活字になって見えて、それで歌が口をついて出れば、歌うと。出てこなければそれで、インストでしたと。
ギターも、もう、あらかじめ凝ったフレーズを仕込むとか、ピッキングの妙でグルーブを醸成するとか。そういうこともしないで、その場で自然にこうするという感じで弾くと。そういうことにしました。
それまでの歌を作るやり方でも感じていたのですけれども、自分の歌の力は、ふと口をついて歌として出てくる時が一番強い。そんな感じがありました。だったら、予め歌として作らないで、その場で口をついて出る歌。もうそれだけにすると。
それで、2003年の冬あたりから、この即興の方式に転換して。その方式で初めてライブをしましたのが、2004年6月でした。

Q:2004年6月というと、私がmixiで聴いたのはスタイルが変化してから、間もない頃だったのですね。

中川一郎:
その通りですね。mixiに参加したのが、2004年8月でしたので、6月の初めての即興ライブの後ということになります。

Q:私自身は、中川さんを野外フェスやクラブ系のステージでも観て見たいと思っているのですが?

中川一郎:
広いところで、大きい音で。あるいは外気、自然の風景と。あるいは、VJさんやDJさんたちとのコラボレーションで。そこにおられる方たちお一人お一人の潜在意識、意識との交流があって。それが、その場、その時でしかあり得ない経験であると。
そのようなことをぜひ、実現したいです。30年くらいのスパンで音楽活動を続けていくことで、そのような機会にも恵まれるだろうと思います。精進、精進、精進です。
それはそうと、2004年6月のライブから、ライブに、ハードディスク・レコーダを持ち込むことにしました。べてが即興、その場限りとなるので、すべてのライブパフォーマンスをレコーディングして、それを音源として公開していきたいという気持ちが強まりまして。
また、歌とギターとエフェクトのバランスは予め自分でセットして、出音はステレオ2CHとすることによって、ロックバンドではあり得ないような、短いリハーサルの時間でも、ライブのめの音づくりができると。DJさんなみの機動性を備えることで、さまざまなイベントにも対応できるようにできているのではないかなあとも感じます。そうやって、クラブ系のパーティとかでもライブでさせていただけるような機会を行かせればとも思います。

Q:今、中川さんは江古田海岸という企画をフライングティーポットで主催されていますが、企画のきっかけ、動機をお聞かせ願えないでしょうか?

中川一郎:
(塚原英幸さんとの協働をしてみたかった・・)
「江古田海岸」ですね。
長年の友人で写真家・映像作家である塚原英幸さんの映像作品を流しながら、自分の音楽とかやるというのをしてみたい。そのような思いで今年(2006年)の1月に第一回を始めた企画です。
もとより、ぼく自身のライブ、ステージでのあり方は、非ビジュアル系ですよね。即興で音楽をやりつつ、できれば、映像が並行して、きてくださった方の視線は映像に行くのが、いいなあと、即興に移行してから思っていたのです。
塚原さんがが公然と、写真・映像の活動を始めたのが、2004年の11月で。
その時に作品を見に行って。モノクロームの海中写真がメインだったのですけれども、あたかも自分がスキューバダイビングをやっているような感覚になりまして。光の感覚、浮遊している感覚がです。
それで、映像作品もDVDとかで見せてもらったのですけれども、こういう映像とぼくが即興で音楽・歌をやっていることが同時に同じ場であるべきだみたいなことを思いまして。
そういうのを一緒にやれたらなと思ったのでした。

FLYING TEAPOTに出会えたのは、及川禅さんのおかげです。
2005年7月30日に、TUAAでお世話になった及川禅さんから「世界先端音楽家集会」に誘われました。
それが、フライングティーポットに始めて行ったことになります。その時に、写真が展示できて、及川さんの映像とのコラボレーションとかをそこで実現できているのを見て、「ああ、ここで、塚原さんとの協働をしよう」とか思いまして。
塚原さんも、そのライブには来てくれていて、FLYING TEAPOTで映像と即興音楽をやるということで意識がさあっと合って、FLYING TEAPOTさんにお願いして。場所とプロジェクターをお借りすることになって、第1回をできました。
FLYING TEAPOTさんは、実に寛容な条件でスペース、機材、プロジェクターを提供してくださってありがたいです。ぜひ、今後とも長く栄えていただきたいと思います。新しい何かが生まれてくる場というか。素晴らしい場だと思います。

(今後の「江古田海岸」)
ペースとしては、半年に一回くらいがちょうど良いかなあと思います。
第一回の時には、ライブの日に映像を流すというだけで、塚原さんの写真作品を展示するというところに気が回っていなくて。
第二回は、塚原さんの写真作品を一週間展示して、その途中の土曜日にライブをやって映像を流すと。そういう展開で、視覚的には塚原ワールドで。
それと即興音楽とがその時空限りでともにあると。一度きりのサウンドトラックというか。そういうことができてよかったなあと思います。
ライブで出演をお願いして、快諾してくだった小西徹郎さん、成冨ミヲリさん、尾上祐一さんたちにも、この時空のあり方は気に入っていただいていて、塚原さんの映像作品、写真作品とかの制作との日程が合えば、また、来年1月にできればなあと思います。
海ばかりではなく、サバンナのネコ科の動物たちの映像や写真の作品で素晴らしいものがあるので、次は、「江古田サバンナ」かなと。タイトルだけは何となく、決まってますが。塚原さんとそんな感じで相談を進めようと思います。

関連URL

塚原英幸 http://www2.divers.ne.jp/randalli/
コメント
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