「あ」のつくあなたにあいみすゆー(I MISS YOU)第二章 ☆うきうきタベタカナーナカイヒラタキアイアイまったりお☆

このブログは北海道を愛するミッキーが、大好きなヒロイン達に、大切なものを紹介する、うきうきでまったりおなブログです。

あーちゃんにも伝えたい続・三浦綾子さんの言葉

2010-04-11 23:16:53 | Weblog
三浦綾子さんからいただいた心に残る言葉をあと三つだけ追記します。

「いつ、どこで、自分の生活を断ちきられても、その断面は美しいものでありたい」(ひつじが丘)

日々を、瞬間を懸命に生きなさいということでしょうか。私はここ十年、昔は感じなかった、ああこんな事しなきゃ良かったかなって、後悔する事が増えた。でも改めて今この言葉を読むと、やっぱりやらないで後悔するよりは、やったことは認めてやりたいって思いたくなる。いつ突然私の一生は終わるかわからないのだから、やらない後悔だけはしないという二十代の時に大切にしてたこの気持ちは、変わらず大切にしたいと思います。

「わたしたちは、しばしば与えるべき時にこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよく思われたくて与えてしまう。与えるにしても、与えないにしても、自己本位にしかあり得ないとは何と情けないことであろう。」
(生きること思うこと)

私は贈り物が好きである。でもそれは贈り物を考えている時の自分が好きなゆえかもしれない。私は人と話すことが好きである。でもそれは相手との対話が楽しいだけじゃなく、自分のことを相手に認めてもらっているかもと自分で錯覚している幸せゆえかもしれない。
自己本位を確かめる一つの方法は相手の気持ちに寄り添おうとしているかどうか、それを相手から感じとれる優しさを持ち合わせているかどうかかもしれない。本当は優しさの足りない自分には、今この瞬間でも、この言葉が私の姿かもと考えてしまう深い言葉である。

最後に、もう一つ。

「間がぬけているのは、気が利き過ぎるよりも、ずっといいことだ。」(私の赤い手帖から)

人間は本来不完全なものである。なのに、他人に対しても自分に対しても、もっとより良くと完全に近づくことを求めてしまいがちかもしれない。
気が利くというのは相手を思う優しさの結晶かもしれないが、利き過ぎるというのは、既に自分のエゴの領域に踏み入れた完全を過信した姿かもしれない。ならば間がぬけている位のほうが、不完全な自分も相手も認め許している、無意識の自然な謙虚さかもしれない。
おっちょこちょい位なほうが人間らしくて可愛い存在かもと、自分を自分を癒す時(笑)の優しい言葉だと思っています。

以上ミッキーでした。

あーちゃん元気になってくださいね!おやすみ。