わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

持て余す国、足りない国=中村秀明

2008-05-24 | Weblog

 ふりかけが最近、売れている。最大手の丸美屋食品工業(東京)によると、1~4月の売り上げは前年同月に比べ10%以上伸び、近年にない傾向だという。

 子どものころ、食卓にあった3色ふりかけを思い出す。ごま塩、カツオ風味、のりたまの3種だったろうか。おかずは足りないけど、もっとごはんを食べたいという欲求に応えてくれた。

 今回のふりかけ人気については、小麦粉製品などの値上げが招いた「ごはん回帰」との分析がある。お茶漬けのもとやノリのつくだ煮なども売れており、コメ復権の兆しという見方もある。ただ、現時点でコメの消費拡大を示すデータは見当たらない。期待は先走りすぎかもしれない。

 そんなコメを持て余している国に28日から、コメが足りない40カ国以上が集まる。

 横浜市での「第4回アフリカ開発会議」(TICAD4)だ。日本の国連安保理の常任理事国入りや資源確保といった思惑、アフリカに急接近する中国などの裏事情もからむが、紛争や貧困などを解消するための支援を話し合う日本主導の会議だ。

 日本は、今後10年でアフリカでのコメ生産を倍増させる計画を打ち出す。コメ食の習慣がある西アフリカを中心に稲作が普及しているが、消費増で輸入頼みが実情。日本は資金と人に加え、品種改良やかんがいなど培ってきたノウハウを提供する考えだ。

 計画通りに進めば、飢餓の恐れは小さくなる。その時、国内のコメ作りはどうなっているのかという心配はあるが、遠い国に新たな“実り”をもたらすと信じたい。(編集局)




毎日新聞 2008年5月23日 東京朝刊

こんな時こそ=与良正男

2008-05-24 | Weblog

 永田町近辺を歩いていると「国会はなぎの状態になった」という声を耳にする。

 ガソリン税の暫定税率は復活。来年度から一般財源化するという福田康夫首相の方針とはまるで矛盾する改正道路整備財源特例法も衆院で再可決・成立した。で、例によって与党は「ああ疲れた」とばかりに一服している。

 野党も参院での首相に対する問責決議案の提出を「首相に無視されるのなら仕方がない」と先送りしてしまった。衆院解散・総選挙は秋以降という見通しが強まり、6月15日までの今国会は消化試合とさえ言われる始末だ。

 さすがにそれでは国民は許してくれないと思ったのだろう。福田首相が現行のキャリア制度廃止などを盛り込んだ公務員制度改革基本法案をこの国会で成立させるよう与党に要請したという。

 当然である。国民に負担増を求めるには政府が自ら身を削る努力をしないことには話にならない。無論、この法案ですべてが解決するわけではないし、法案の個々の中身には問題点もあるが改革の一歩にはなる。

 願わくは、首相のポーズだけに終わらないことを。民主党も「やる気のない自民党を揺さぶる」という駆け引きにとどまらず、むしろ、議論をリードし、よりましな法案に修正した方が国民は拍手を送るのではないか。

 私は今も早期に解散すべきだと考えているが、なぎだからこそ冷静な議論ができて与野党の実像が見えてくる可能性もある。だれもができるはずがないと思っている法案が成立する。そんなサプライズ劇をたまには見たい。(論説室)




毎日新聞 2008年5月22日 東京朝刊

通学路の背中=磯崎由美

2008-05-24 | Weblog

 信号が青に変わった。「めーちゃん、行くで」。その朝も、めーちゃんは兄と横断歩道を渡っていた。校門まで100メートル。突然、右折してきた4トン車が小さな体を押し倒す。兄は泣きながら遠ざかる車を追った。

 大阪府岸和田市の小学1年、西浦惠(めぐみ)ちゃん(当時7歳)が亡くなったのは99年1月。現場交差点が遺族や住民の願い通りに改善されるまでに、その後5年以上を要した。学校は事故の前から市教委に改善を求めていたが、教委は他校からも要望が多いことを理由に先送りしていた。

 泣き暮らしていた両親は私にこう訴えた。「通学路が安全な道でなければ、親は何を信じて子を学校に送り出せばいいんですか」。通学路で何が起きているのか。読者に尋ねると、危険個所の情報が続々と寄せられた。行政は改善できない理由として、予算の乏しさを口々に挙げた。

 日本は主要国の中でも生活道路での死亡事故が突出して多い。犠牲者の8割は高齢者と15歳以下の子どもだ。めーちゃんの学校周辺はかつて和歌山方面への主要道路が1本しかなかった。やがて高速道路や国道バイパスが整備され、利便性は向上する。だが交通量の増加で渋滞し、抜け道とされた生活道路に大型車まで流入するようになる。この町だけの構図ではない。

 事故の2年後に生まれためーちゃんの妹が今春、小学校に上がった。両親は姉とは違う学校に通わせているが、その校区にも狭くて車の多い道がある。毎朝、父は娘の背中を祈るように見送る。

 「必要な道路」とは何か。子どもにも聞いてみるといい。(生活報道センター)




毎日新聞 2008年5月21日 東京朝刊

がれきの下に=玉木研二

2008-05-24 | Weblog

 1960年代の米テレビ映画「コンバット!」は、第二次大戦の欧州戦線で戦う米軍の無名の歩兵たちを描いた。記憶に刻んだ1編がある。

 砲爆撃で荒れ果てたフランスの村。米独の歩兵が交戦するが、村の女が現れ、泣いて懇願した。「赤ちゃんが生き埋めになった。助けて」。両軍の兵士はためらいながら停戦し、協力してがれきを掘り、懸命に捜索を始めた。

 戦傷でふせていたドイツ軍将校がこの光景を見て怒り、声高に戦闘を命じる。だが彼は倒され、捜索は続いた。

 そこへ村人が来て言う。実は赤ん坊は以前の爆撃で死んだが、彼女の心がそれを受け入れない……。兵士たちは放置していた銃を再び手にし、黙って二手に分かれた。

 今、ミャンマーと中国四川省で起きている大惨状は架空でも幻想でもない。がれきや土砂に埋まり、濁流にのまれた無数の命。飢えと計り知れない伝染病の恐怖。その現実を前に、何の思惑や計算、打算の余地がありえよう。

 門戸を開けようとしないミャンマーの軍事政権は、全く別世界の住人らしい。立場を超え広く海外から駆けつけた人々と力を合わせ救援活動をする国軍兵士の姿など、想像するだけで鳥肌が立つのか。あの劇中の、かたくななドイツ軍将校と何ら変わらない。

 「コンバット!」の無名の兵士たちは無駄なことをしたのか。いや、がれきの下から敵対を超えた連帯や親近の情を掘り出し、恐れ憎み合うむなしさが心をよぎった。それぞれの陣地に無言で戻る兵士たちの表情が、それを物語る。

 軍事政権が心底恐れているのは、それかもしれない。(論説室)




毎日新聞 2008年5月20日 東京朝刊

1968年=坂東賢治

2008-05-24 | Weblog

 米国にとって1968年は時代を画する年だった。40周年を記念するタイム誌の特別号は「過去と未来を切り裂くナイフの刃」と表現している。戦後生まれのベビーブーマー世代がベトナム戦争や既成秩序に異議を申し立て、文化や価値観が大きく変化した。

 政治を揺るがす事件も相次いだ。3月末に民主党のジョンソン大統領が反戦運動の高まりを受け、再選を断念。直後に黒人運動指導者、キング牧師が暗殺された。6月には民主党大統領選候補指名争いに挑んだロバート・ケネディ上院議員も銃弾に倒れた。

 4年に1度の大統領選。ベトナム戦争とイラク戦争。現職大統領の不人気と変化への期待。こうした類似性もあるからだろう。米メディアでは40年前と今回大統領選を比較する報道が目立つ。

 当時、大学生だったクリントン上院議員(60)は共和党支持から民主党の反戦候補支持にくら替えした。いわば当事者だ。初の黒人大統領を目指すオバマ上院議員(46)もキング師やロバート氏の言葉をたびたび引用している。

 民主党には苦い記憶もある。プロの政治家が党を牛耳っていた時代。予備選に参加しなかったハンフリー副大統領が党大会で大統領候補に指名され、「ブローカー政治」の批判を浴びた。本選では共和党のニクソン氏に敗れた。

 長引く予備選に民主党内には68年の再現を警戒する声がある。劣勢のクリントン氏が党大会決着に持ち込むことを心配しているのだが、おそらくそうはならないだろう。クリントン氏は68年の党大会に参加し、幻滅を味わっている。引き際は心得ているはずだ。(北米総局)




毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊

「ひろしま」の力=広岩近広

2008-05-24 | Weblog

 戦後世代は、いかに原爆を継承していけばいいのだろうか。時に考え込むことがある。高齢の被爆者の証言を折り畳み、惨状を切り取った写真と抱き合わせて、特集紙面をつくったのは3年前だった。

 このとき目を背けたくなるような死者の写真を使った。朝食時に読む新聞にふさわしくないのではないか、そこまで踏み込む必要があるのか。議論した結果、原爆はこうして人間を殺したのだと、被爆60年の節目にあたって、もう一度刻んでおきたい、それが取材班の総意であった。

 何枚かの写真は、今も脳裏に残っている。確かに衝撃的ではある。だが、それゆえに想起されるイメージが、突風に運ばれるみたいにかき消されたのも事実だ。むごいの一言で絶句してしまった。

 ところが、まったく逆に、想像力を強く喚起させられた写真集に出合った。写真家の石内都さんによる「ひろしま」(集英社)である。写っているのはワンピース、ブラウス、スカート、セーラー服、学生服……。

 いずれも広島平和記念資料館に所蔵されている被爆遺品だから、原爆の傷痕は見られる。しかし、むごさも暗さもなく、人肌にふれていた優しい温かさが、その明るい色調からにじみ出ている。

 この服を着ていた少女はどんな子だったのか。きっと花柄が好きだったにちがいない。死にたくなかっただろうに--。私は涙がにじんでくるのを抑えられなかった。

 柳田邦男さんはこう寄せている。「原爆体験の風化を拒否する新しい表現方法の発見と言うべきものだろう」

 今年の収穫である。(編集局)




毎日新聞 2008年5月18日 東京朝刊

新聞の未来は=松井宏員

2008-05-24 | Weblog

 新聞記者の仕事について、大学生に話す機会があった。まっとうな記者ではないので、たいした話はできなかったが、なかなか鋭い質問を受けた。「新聞の未来はどうなるんですか」

 はなはだ無責任だが、「わからない」と答えるしかなかった。新聞を取らなくてもニュースはキャッチできるネット社会のご時世にあって、新聞メディアがこの先どうなるか、私たちも計りかねているのが正直なところだから。

 日本新聞協会が実施した「07年全国メディア接触・評価調査」では、92・3%の人が「新聞を読んでいる」と回答。1週間の平均接触日数は、インターネットの3・5日に対して新聞は5・4日だった。この数字だけ見れば、まだまだネットより新聞だぞ、と見ることもできようが、おそらく若い層ほどネットに触れる時間は多いはずだ。

 日々のニュースを追うだけでは、新聞の未来はないかもしれない。学生の質問に、私はこう続けた。「でも、新聞はなくならないと思う」。ただし条件がある。新聞が「感性」をなくさなければ、だ。

 大阪府知事が財政改革への協力を訴えて市町村長相手に涙を流したのを、「涙の説得」と報じるような感情的な紙面とは違う。例えばサイクロン禍の母国のため一人募金を呼びかけるミャンマー難民(本紙12日朝刊)や「原油高などで障害者作業所三重苦」(12日夕刊)、他紙だが、通天閣を舞台に歌手の叶れい子さんとファンの交歓を描いた連載等々。

 そんな世間の片隅の喜怒哀楽に寄り添う「静かな熱」を、大切にしたい。(社会部)




毎日新聞 2008年5月17日 大阪朝刊

理念と現実政治の間=岸俊光

2008-05-24 | Weblog

 歴史家・萩原延寿(はぎはらのぶとし)さんの代表作の一つ「陸奥宗光」は、1967年6月の本紙夕刊から掲載が始まり、翌年暮れまで455回の大作となった。68年といえば、プラハの春、ベトナム反戦運動、パリ5月革命……。世界中で吹き荒れたカウンターカルチャーの嵐と並走したことになる。

 連載は、日清戦争の講和や三国干渉を処理し、外交記録「蹇蹇録(けんけんろく)」を残した陸奥の前半生を描く。先ごろ完結した「萩原延寿集」(朝日新聞出版)が01年に没した萩原さんの思いをよみがえらせた。

 中でも「陸奥宗光小論」と題する最初期の作品は、自由民権への夢を胸に秘め、藩閥政府の外相として腕を振るった陸奥の内面に迫る傑作だ。西南戦争に際して反政府側にくみし、投獄されたのち政府と結んだ陸奥は、理念と現実政治の間で「分裂した魂」をもっていたというのである。

 「『知識人』も、つねに知識人であるわけではなく、権力の論理にしたがう場合には、政治家として振る舞っている」と萩原さんは指摘した。カミソリと呼ばれた権力者ながら理念を評価した陸奥に、萩原さんはひかれたようだ。

 さらにいえば、理念と権力のジレンマは決して過去の話ではない。例えば開戦5年のイラク戦争--。心理的にも距離的にも遠く、情報不足だったとはいえ、日本の支持は目先の利益に傾いた政治的な態度ではなかったか。もっと内省すべき問題だと思う。

 萩原さんの陸奥論は、高度成長期の政治的無風状態という60年代後半のもう一つの流れから生まれた。優れた歴史書は時代を超え、後世代にも熱い息吹を運んでくれる。(学芸部)




毎日新聞 2008年5月17日 東京朝刊