わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

新聞の未来は=松井宏員

2008-05-24 | Weblog

 新聞記者の仕事について、大学生に話す機会があった。まっとうな記者ではないので、たいした話はできなかったが、なかなか鋭い質問を受けた。「新聞の未来はどうなるんですか」

 はなはだ無責任だが、「わからない」と答えるしかなかった。新聞を取らなくてもニュースはキャッチできるネット社会のご時世にあって、新聞メディアがこの先どうなるか、私たちも計りかねているのが正直なところだから。

 日本新聞協会が実施した「07年全国メディア接触・評価調査」では、92・3%の人が「新聞を読んでいる」と回答。1週間の平均接触日数は、インターネットの3・5日に対して新聞は5・4日だった。この数字だけ見れば、まだまだネットより新聞だぞ、と見ることもできようが、おそらく若い層ほどネットに触れる時間は多いはずだ。

 日々のニュースを追うだけでは、新聞の未来はないかもしれない。学生の質問に、私はこう続けた。「でも、新聞はなくならないと思う」。ただし条件がある。新聞が「感性」をなくさなければ、だ。

 大阪府知事が財政改革への協力を訴えて市町村長相手に涙を流したのを、「涙の説得」と報じるような感情的な紙面とは違う。例えばサイクロン禍の母国のため一人募金を呼びかけるミャンマー難民(本紙12日朝刊)や「原油高などで障害者作業所三重苦」(12日夕刊)、他紙だが、通天閣を舞台に歌手の叶れい子さんとファンの交歓を描いた連載等々。

 そんな世間の片隅の喜怒哀楽に寄り添う「静かな熱」を、大切にしたい。(社会部)




毎日新聞 2008年5月17日 大阪朝刊

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