わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

理念と現実政治の間=岸俊光

2008-05-24 | Weblog

 歴史家・萩原延寿(はぎはらのぶとし)さんの代表作の一つ「陸奥宗光」は、1967年6月の本紙夕刊から掲載が始まり、翌年暮れまで455回の大作となった。68年といえば、プラハの春、ベトナム反戦運動、パリ5月革命……。世界中で吹き荒れたカウンターカルチャーの嵐と並走したことになる。

 連載は、日清戦争の講和や三国干渉を処理し、外交記録「蹇蹇録(けんけんろく)」を残した陸奥の前半生を描く。先ごろ完結した「萩原延寿集」(朝日新聞出版)が01年に没した萩原さんの思いをよみがえらせた。

 中でも「陸奥宗光小論」と題する最初期の作品は、自由民権への夢を胸に秘め、藩閥政府の外相として腕を振るった陸奥の内面に迫る傑作だ。西南戦争に際して反政府側にくみし、投獄されたのち政府と結んだ陸奥は、理念と現実政治の間で「分裂した魂」をもっていたというのである。

 「『知識人』も、つねに知識人であるわけではなく、権力の論理にしたがう場合には、政治家として振る舞っている」と萩原さんは指摘した。カミソリと呼ばれた権力者ながら理念を評価した陸奥に、萩原さんはひかれたようだ。

 さらにいえば、理念と権力のジレンマは決して過去の話ではない。例えば開戦5年のイラク戦争--。心理的にも距離的にも遠く、情報不足だったとはいえ、日本の支持は目先の利益に傾いた政治的な態度ではなかったか。もっと内省すべき問題だと思う。

 萩原さんの陸奥論は、高度成長期の政治的無風状態という60年代後半のもう一つの流れから生まれた。優れた歴史書は時代を超え、後世代にも熱い息吹を運んでくれる。(学芸部)




毎日新聞 2008年5月17日 東京朝刊

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