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銀の人魚の海

日々の思いを好きに書いています。映画、海外ドラマ、音楽、本。
スヌーピー、ペコ、NICI、雑貨グッズ画像。

プロメテウスの罠 明るい未来

2016-03-09 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
311から間もなく五年。

朝日新聞連載の「プロメテウス罠」を読み感じたことは、
ここへ10回以上は書いている。

久しぶりに、この連載から。

ある夫婦が震災後懸命に生き、愛知県で出産したエピソードから。
タイトル「明るい未来」

夫、双葉町出身、39歳は学生時代、原発の看板を考案した。
「原子力、明るい未来のエネルギー」、
震災後、これが、心にひっかかっていた。

三月12日、妊娠七ヶ月の妻、40歳、~高齢で心配だったと思う~と
車で移動していると、警官から、避難して、と言われるが、
その方向は後に放射能が流れた方向だったと知る。

そう、当時の情報は錯綜、混乱していたことも読んだ。

旅館、ホテルなど満室なので車で野宿。

ガソリン、水、食料もない。トイレも汚れ使用できない状態。

妊婦の妻はどれほど不安だったろう。

自宅は大きな被害はなかった。

どこへ行こう?妻が、会津若松の実家へ行きたいという。

勤務先社長のポストに「しばらく休みます」と手紙を入れ、
100キロ先、会津若松へ向かう。

何回も並びガソリンを手に入れ、急いだ。

14日朝、やっと着き、眠りこけた。

40歳の初産の妻、私ならどうしたろう?
大変キツイ三日間、生きるのに必死だったろう。

この日、三号機が爆発、翌日、四号機も爆発。

夫は、かつて標語を書いたが
放射能のことはよくわからない。

妻を安心させ、安全な場所で無事出産させたいだけだった。

検査をしないとホテルにとまれないので、検査を受けた。

また何回も並んで、ガソリンを買った。

愛知県の親戚に県営住宅の申し込みを頼んだら、
24日見つかり、近くに産科病院もあった。
通帳を再発行してもらい、最低限の荷物で愛知県へ。

二週間で七キロ痩せた。

とちゅう、さいたまスーパーアリーナへより、被災証明書を受け取った。
1200人で溢れかえっていて、難民になったと感じた。

三月末、愛知県県営住宅で新生活を始めた。

何もなく支援物資の世話になった。
TVは買い情報を得た。

かつて考案した原発の標語がTVに出て複雑な気持ちだった。

産科で検査を受けたら、子供は順調に育っていた。

気丈な妻だったとおもうし、夫もがんばったな~~。

妻の母は愛知に行くことを反対した。

愛知に来て、初めて中日新聞の取材を受け、
「生まれる命、守り抜く、夫婦車で500キロ」と掲載され

すぐに市民から、ベビーベッド、ベビーカーを提供された。

六月末、元気な男児無事出産。

夫は七月、一時帰宅に参加、自宅を見に行った~

記事はその後の様子も続く。

普通に暮らしていた夫婦、夫は、原発の標語を書いた。
それは原発PR看板になったが

彼の勤務先は原発系ではないようだ。

「明るい未来~」という、その言葉が胸にささっただろう。

愛知で暮らしている彼は、自分が過去に考案したスローガンが
事故後、トラウマになっていた。

ある講演で、本当の事をいおう、5000人の前で

「私が標語を考案しましたが、今は、
原子力、破壊を招くエネルギー、~」と語った。
気持ちがふっきれたとある。

小さい頃の輝いた言葉。

大人になり、父になり、しんさい、事故を真剣に考え
心に突き刺さってきたのだろう。

プロメテウスの罠、震災でのはたくさんの一般市民の取材記事が載った。

原発に関しての専門的なものなどもあり、幅広い視点から取材していると思う。

この連載、五年経過後も継続して欲しい。

小さいことでも、五年後初めて知った、読んだ、はまだまだあると思う。

この御夫婦、これからも力を合わせて、生きていってほしい~
こういう過酷な経験をすると、夫婦の関係は強くなるかな~と思いつつ。

間もなく5年、亡くなられた方に、心から合掌。
そして、今も厳しい避難生活をされている、多数の方が
少しでも心がやすらぐように~

福島の野生動物

2016-03-08 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
6日に放映された、NHKスペシャルを録画でみた。
これを見て何も感じない政治家、きっと多いだろう。笑
被曝の森、野生の記録、街や農地を覆う植物、街を堂々と歩くイノシシ、
放射性物質による影響、
言葉もでない。
これ、NHK七時、九時のニュースで流して欲しい。
福島の避難区域は、これから、何十年、どうなっていくのか?
イノシシ、猿が自由に生き、そして、いつか放射性物質に侵されて死んでいくのか?
学者は五十年先をみていかないと、と語る。
チェルノブイリとの比較もでた。
これが東京など、都市部だったらと思うと、涙が出る。
福島の方の苦悩は、一言では言えない、何重にもなっていて、これから先も続く。
311原発事故は、日本がある限り続くと感じた。

~周年

2015-03-12 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
昨日はマスコミ、どこも311の報道ばかりだった。
政府の追悼式典、あれを東北でしてほしい~は
1年経過の時から云われているが
仰々しく立派すぎるような祭壇に違和感を覚え、
つくづく、日本人は形式にこだわる民族だと感じた。

さらに今年は「4周年」となっていて、
周年~ってちょっとおかしい言葉かもしれない、と
うちの古い辞書を引くと、

何かが行われてから~回目の年、とあり、そうだよね~~
行われたわけではない。

普通に4年でいいと思う。
ニュースでしか見ていないが、天皇、政治家が出るので
場所は東京でしか考えられないのだろう。

母など3人を亡くした18歳の女性の言葉が
とても力強く、しっかりと生きてきた事を感じさせ、
家族を何人も亡くしても、人は時とともに、
強くなれることもあると思った。

18歳、何より、若さと未来がある。
春から大学だそう、元気で生きてほしい。

各被災地で行われた追悼式は
それぞれの心の奥が少し見えるようで、
私も4年前の深夜を思い出したりする夜だったが
八時頃から、フジTVで少しサッカーを見ていた。
それは、また。

3・11 緊急消防援助隊

2015-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
三月初めのNHKスペシャルは東日本大震災時、初めて出動した、
緊急消防援助隊の救助映像で、多分初映像が多かったと思う。
「史上最大の救出」と題して。

録画で見た。全国にある消防署からの精鋭隊。
地震発生後、どの位で出動したのかと思っていたが、
ヘリコプター15機は、各地を四時18分に飛び立っている。
早い!

あの日、都心も寒かった。
ヘリコプターはどこまで飛べるのか?と。

北は夕方から雪になる。

熊本消防署から飛び立ったヘリコプターは夜10時半、埼玉まできた。
雪で視界が遮られ動けない、情報も入らないので翌日まで待機。

12日は雪もなく38機が被災地へ飛べた。

そうだった。
東京も翌日はお天気はまあよく、13日も晴れだったと記憶している。

72時間位はサーチアンドレスキューという方法で、
ヘリコプターから見て人がいれば、降り救助する方法。
その後は水も引いたので、降り歩き何時間もかけて探す方法。

救出者の九割は、14日までに助けられたので72時間以内は定説である。

13日が救助者が一番多く、全体で約一万人。

日本で初の緊急消防援助隊は全国から約三万人が出動、
58機のヘリコプターで5064人を救う。

あと何時間か早くつければ、助けられた人がまだいた、
と語り悔しがる隊員たち。

確かにそうだが、12、13日が晴れたのは救いだと思いたい。

今は、雪などに視界を遮られても飛べる方法も開発されていると。

東日本大震災では、消防、警察、自衛隊、海上保安庁は
二万7577人を救助、死者は一万8480人。

あれだけの揺れ、津波、余震の中、
危険を背負い活動した、初の全国の消防救助隊の姿を
四年たち始めて見、救助の極意を感じた。




震災から4年~TV番組から

2015-03-08 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
TV報道ステーションで、東日本大震災関連放映。

「孤立する高齢者」を見た。

七十代女性、見た目はお元気、
仮設から綺麗なマンション、震災支援住宅に一人で入居。
夫は亡くなり~震災でかは不明~子供は別の場所に健在。

マンションは最新の設備で良さそうだが、
地方で2200坪の土地、広い50坪の家でしか生活していない方は
馴染めないのだろう。
都市部在住からしたら、そのあたりは贅沢に思うが。

記者に「一人で寂しい、誰とも話さない日も多い」など語るが、
携帯は持っている。また友人と旅へも行きたいと言う。

TVでは311以来、離れ離れになったから、
友人などと疎遠になっているような取材で、
それ以上のつっこみはなかったが、あれ~??
何で連絡取れないのか?
おそらく何十年も同じ場所で過ごし、育児もしてきた友人たちと
震災があっても連絡は取れるだろうし、
自分でできなくても、子供がいるのだから、
なんとか探すこともできるはず。

それをしてない?疑問、

東日本大震災後、一年くらいかで、
各県の高台の土地が売れ値上がりした。
そこを買い家を建て、引っ越して行く家族もかなりいた。
そのあたりを考えると、震災後の生活格差が出たことも
疎遠の理由の1つになっている気がした。

夫、妻、子供が311後も安定した仕事の家族は、
早い時期に何処かへ越すなど、
経済的に余裕があれば、落ち着いた頃、思う方向へたてなおせただろう。

震災後の生活設計は、家族によりそれぞれ違って当然だが、
経済的にどうかで、決まった事が多いと思った。

地方では、都市部ほど変化は少ない。
311以前の日々は、友人、近所とも大きな変化もなく過ごしてきたのに
311から目まぐるしく変化、周りも変わった。
これまで親しかった人と違う環境になってしまった、
友人が家族と自分とは違う選択をしたなど、
同じような環境が、それぞれ別の方向へとなり、
ほぼ普遍的だった日常が、崩れた事も疎遠の理由だろうか。

それにしても何十年と長年、近くにいた友人と疎遠になる?

経済、生活の差、震災後の考え方の違いから、連絡をしない関係って、
都会生まれの私は考えにくい。

地方の人の方が、繋がりが強いと思う事は誤りなのか。

福島県では、原発での考え方などで、
友人が離れたという記事を記憶している。

原発近くは一人10万円東電からもらえるが、道路一本でもらえない。
その事で、地域で不満もあがり、差もでたと読んだ。

福島は別として、
4年経ち、震災時の混乱も去った。
震災後の生活格差、経済的にどうかが大きいのだろう。

支援住宅で、新しいコミュニュティを作ろうとしている
映像も流れた。
同じ場所でしか暮した事がない人は、
転々とすること自体、精神的にキツイと思う。

住まいも最新設備で新しくなり便利になったが、
逆にいろいろ考えてしまうのか~
避難生活者、~福島だけで12万人、全部で16万と読んだが~
少しでも元気で過ごせたらと思う。

●これを書いた後、昨日の新聞に4年経過の各県の実態が載った。
昨日あたりから、TVなどで311かんれん放映が増えている。


311、すぐの決断

2014-03-17 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
再び震災関連TV、TV朝日。

福島、浪江町立請戸小学校は一人の犠牲者も出さなかった。

70名以上の死者を出した大川小学校と対照的だったので、記憶に残っている。

地震後、学校側の素早い対応が、詳しくわかった。

教師たちは地震後TVを見ていて、大きい!

すぐに山へ逃げないとダメだ!と判断。

子供たち、教師など100名は寒い中を三キロ歩く。

車椅子の子供もいた。

慌てていて裸足の子供もいたが、高学年が下の子をなど、

皆で助け合い、余震の中、必死で歩いた。

こんもりした山を登り国道に出て、助かったと思ったが、

疲れ果ててしまった子供達も多数いた。

電話でバスを要請していたが、渋滞のせいか、なかなかこない。

その時、通りかかった大型トラックが停まってくれた。

58歳の運転手が機転をきかせ、100名を荷台に乗せ、避難所まで走った。

素晴らしい判断力、連携だと思う。

運転手さん、ありがとう!

あの日、辛く悲しい中に、この事出逢いと同じような、

幸運なできごとも、多数あったのではと感じた取材だった。

あの運転手さんは、今日もどこかの道を走っているのかな~~

あの日生まれた子供たち

2014-03-17 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災関連TVから。

NHKスペシャル。「あの日生まれた命」。

3月11日に生まれた子供たち。

わかっている数は110名。

何人かの家族、子供の出産から3年後が取材されていた。

あの時間前に生まれた子供は、揺れの中、母子ともに、

どれほどの緊張を受けただろう。

よく乗り越えたと思う。

ある女児は、余震が続く中、突然呼吸がとまる症状が出て、

お母さんは、119番もかけられない、110番へかけようか~

大きく動転したと語る。気持ち、わかる。

救急車で搬送され危機を脱した。

生まれたばかりなのに、地震を体で敏感に感じ取っていたのか。

今、三歳、元気に過ごしていた。

ある夫婦は、311に祖母が亡くなくなり、子供が誕生した。

死と生が、同日にきた。

311にお誕生日を喜べない、祝えない気持ちが両親ともにあるという。

私は普通に祝っていいのではと思ったが、地方独特、大家族の事情もあるのだろう。

いろいろな家族があり、

人生で一番悲しい日でもあるが、誕生日の子供には、嬉しい日でもある。

新しい誕生、命の大切さを改めて感じたスペシャルだった。

見えないということ

2014-03-14 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
放射能は見えない。

見えない不安、恐怖を考えた。

TVで放射能が将来見えるようになる機械?かの事、

開発かをチラッと見た。

見えない怖さ、不安は他にもある。

病気。

検査でわかれば、その病気は見える。

検査してもわからない病気も多数ある。

医学が進んでも原因不明、先が見えない。

いつ完治するかもわからない不安。

癌は検査でわかる。

以前より治療方法も増え、知られるようになった。

それでも再発率は予測でしかないだろう。

この癌なら低いか~など。

個人的な再発率までは、おそらくわからない。

癌になった事も不安だろうが、先が見えない事が大きい。

その他の病気でも、見えにくい、見えない、ものがいるいるあるだろう。

震災後、これから先が見えない事が、一番不安だという方も多い。

先が見えることは大事だ。

たとえ、それが悪い方向でも全く見えないより、私は少し楽かと思う。

時というものは、一秒後、1分先~

先がわかる。

時は確実に平等に進む。

人にとって、生きていて一番確かなものだと、改めて感じる。

ほんとうなの?

2014-03-13 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
現在26万人以上の方がまだ避難生活を送っている。

311関連では、NHK、NHKスペシャル、民放など幾つか録画した。

一部、見た中で感じたこと。

「NHKスペシャル」

福島の現実で驚いたことの一つ。

自主避難した家族に対し、元住んでいた地域の人がいう言葉。

メディアで読んではいたが、本当だったんだ。

神経質、考え方がおかしい、気にしすぎ、と言われる。

町は昔から仲が良く結束もあり、助け合っていた、

だから地域を離れたくない、は嘘でしょ、と思った。

自主避難している同じ地域の家族に対して、何故そんなことを言えるのか。

信じられないが、地方の特有の集団思考、集団主義なのだろうか。

思っているだけならいいだろうが、いってはいけないことだ。

家族の形、考え方は千差万別。

小さい子がいる、体が弱い子供、大人がいるなら

自主避難はむしろ、当然だと私は思う。

福島市、現実に除染後もまだ高い線量の地域がある。

経済的事情もそれぞれ違う。

世界発の原発異常事態、

他の家族の考え方が他人に簡単にわかるわけはない。

同じ被災者同志で、これは考えられなかった。

それぞれの価値観も違うだろう。

人は皆、一緒、同じではない。

これは、津波から逃げる時と同じことだ。

皆、同じ、一緒にではなく、生きたい、行きたい。

もうひとつ。

これまで農業で自給自足のような生活をしていたのに、

仮設では食費がかかると話す方。

都心にいると、自給自足の生活は考えられないが、

食費の違いは大きい。

それぞれ、真実、細かい事情があると感じた報道だった。

平穏な日の大切さ

2014-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
TVでは三年経過の報道が多い、

いくつか録画してみようと思う。

各局の視点を知りたいので。

西田敏行がNHKなどに、いくつか出ているのは

容貌で選択しているの?

東京圏の方は、あの時間、どこにいたかで

違う経験をしたと思う。

帰宅できず会社などへ泊まる、歩いていて疲れ、居酒屋で朝を待った。

とほうにくれあるき続けた、家にいて家具を抑えた、

病院などへ出て、帰宅がさらに大変だったなど、

それぞれの311だったと思う。

都内でも九段会館で死者が出た。

他にも郊外ででたと記憶している。

私は、当時、仕事の前で自宅にいたが

家族、夫は近くの医院へ、

揺れで近所の方が道路に出てきてもいた。

こわれたものは、3Fにあったプラスティックの

大きめ服のケース。

これはいい加減に積んであったからだが。

棚の陶器の小物がいくつか、

本が本棚から落ち崩れた。

2Fの食器棚、一つは棚が引き戸、一つは開きだが固めだったので開かず

割れたものは、なかった。

数日して、軽めの家具が何センチか動いていることを知った。

物の散乱は、なかったといっていい。

一番の記憶は、職場の子供と連絡はすぐとれず、

夕方からタクシーで帰宅する~となり、

待っても来ない、

夜、8時、港区の社へ迎えにいくことにした。

何故迎えには、ここへは書けないが

行った方がいい事情があった。

そして首都圏の夜の大渋滞に巻き込まれた。

帰宅は早朝だったが

(3年前の3月11日以降に詳しく記さいした)

無事迎えられ帰宅でき、ほっとした気持ち、朝を今も忘れない。

そうそう、地震でガスは停止、自力での復帰はできず

翌日、午前に東ガスの方にみてもらい、やっとついた。

簡易コンロが役にたった。

17時間くらい、ガスが使えなかった。

それだけでも日常と違う、生まれて初めての日だった。

今日は、それぞれの場所で、それぞれの気持ちで

手を合わせたい。

被災者、遺族の方が少しでもよい春を迎えられるように~

亡くなられた方へ合掌。

私自身も、この3年、幾つかの新しいことが起こり、

とくに年始から、大きな事を経験、

ショック状態が、まだ少し続いている。

考えるこむ時間も多かった。

3・11。

平穏、平凡でも、いつもの日常が、どれほど大切かを知る日でもある。




再び、あの日を迎えて

2014-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
昨夜、寝る前にちらっと、「ニュースゼロ」を見た。

櫻井君がたまに出てる?

キャスターが、福島第一原発、四号機内部に入った映像。

311、あの頃とほぼ同じなのだろう。

付近は90マイクロシーベルト!

一人が通れる狭い入口から中に入ると、

建物は壊れ、残骸はそのまま、注意していかないと危ない。

ニュースでも時でるが、汚染水状況を近く見られた。

あれほど、たまっているの!

緑っぽいどんよりとした色。

何箇所にもあり、かなり深さもあるだろう。

時は、3年前のまま停止している。

安部首相、あの水の中に浸かりなさい、と言いたい。

福島の帰れない方は、まだあの水の中にいるのと変わりはない。

人が安全だと信じ造った物体は、自然に負け破壊されたが、

ボロボロに壊れてはいても、堂々と君臨するモンスターのようだった。

福島の今のTV番組から

2014-03-10 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
八日のNHKETV特集、

明日で震災3年、福島の汚染地区の人々の、

これまでの経過、状況番組を11時から途中までと思っていたら、

目が離せず、90分位最後まで見た。
同じ東日本に住んでいるのに、人は自分自身が体験しないと、

だんだんと記憶から消える。

これは生物として当たり前のことなのかもしれないが、

もし、私がこの地域に家族と住んでいたら、どうしていただろう。

考えると涙だった。

3、40代くらいの二つの家族。

福島市内は当時かなり線量が高かった時期があったが、

いまだ線量が高い場所があること。

市内に住んで平穏に暮らしていた夫婦は、

子供が小さいこともあり、除染を行政に訴えるが、かなわない。

結局、札幌へ越し、今は少しづつ生活を再建していた。

もう一つの家族も子供が小さく、

親から引き継いだ農業を、今まで通り続けられるか思案し続けていて、

今は職を点々ととしている。

高齢の男性は一人暮らし。

戦後シベリアからの帰還後、福島へ入植。

50羽から始めた養鶏場、70年の努力で五万羽までになり

大きな家も建て、家族と幸せに暮らしていたが、

原発事故で鶏はすべて餓死、何もかもを失った。

見ていて辛く、やりきれない思いでいっぱいだった。

福島市内のある保育園は、原発事故から徹底した除染作業を園内で行う。

国は経費を出してくれなかったので自費で。

園庭すべて。

園舎も定点を決め、毎日線量を測定、

今も園児たちは市内の線量が低い場所しか、散歩へ出さない。

歩く道は地図にしている。

給食の素材も、すべて線量計で測定し、

少しでも基準を上回ると使わない。

ここまで徹底した方針に感心した。

親の希望、協力もあるのだろう。

園の放射線量は学者と連携し、記録している。

園児の健康に関しても、細かな検査を実施。

辛い中での行動力、素晴らしいと想う。

福島市内、今も一部、まだまだ線量が高目の所がある現実、

これを見て初めてしった。

学者は海の生物、牛などの動物についても調査を継続している。

チェルノブイリと違い、今も、量は不明だが放射能は日々もれているから、

その影響を記録として残すことが使命だと語る。

世界では、これまでになかった事故だからこそ。

メディアは、津波、揺れの映像を繰り返し流すが、

見えない恐怖、放射能のことは減らしているの?と問いたくなる。

改めて、今も不自由で、辛い気持ちの方々、亡くなった方々、

遺族の方へ追悼の祈りを捧げたい。

三年

2014-03-08 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災から、三年が経過する。

TVでいろいろ特集を放映している。

あの日の都心の映像をNHKでまた見た。

私も車で家族を迎えに行ったが、

同じように新宿から港区へ向かった主婦の方、

私と同じ夜八時に家を出て、帰宅は朝四時。

私と同じ港区へ、往復時間もほとんど同じだった。

災害での想定外大渋滞だったのだと改めて確認した。

都心は震度四くらいで、パニック、大混乱になる。

原発再稼働と言う政治家たち。

現実には福島は今も311の頃と大きくは変わってない。

復興なんて、どこに~と、かなりの人々は語る。

もし政治家たちの家族が、あのとき福島に住んでいて、

3年経過し、家はネズミ、猪などに、荒らされ、

部屋の天井は雨で剥がれ、めちゃくちゃになり、

家族も離れ離れ、生活が壊れた人がいたとしたら、再稼働と言うだろうか。

もし東京まで放射能がきていたら、言うのだろうか。

首都圏三千万人も避難だったら~

人間は体験、経験をしないとその立場、気持ちになれない動物だ。

それは311を経て確かに思う。

じっくり再考し、これからの未来を、

今生まれた子供が生きる100年後~長寿になるだろうから(^^)

まで想いをはせ、語ることだと思う。


しんさい、詐欺?

2013-03-29 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
22日夜、サッカー情報があるかとつけていた報ステでびっくりNPOの事を見た。

岩手県、山田町にボランティアで来た黒服集団。

旭川からの潜水NPO。

八億円のお金を、このNPOが勝手に使ってしまい、

さらにNPOが雇用していた町の住民を解雇していた事実。

唖然。

震災後助けてくれたので町が彼らに、いろいろな事業委託した結果がこれだった。

人を外見で判断は良くないが、

リーダー、30代の容姿のヤクザっぽいこと!

黒服のチンピラ集団みたいで怪しすぎ。容姿は完全にバツ。

震災後、偽医者登場で100万かをだましとった事件もあった。

震災便乗詐欺師たちだろう。

町の人は、おかしいと感じていた。

高級食糧を山ほど買い、ニューハーフショーをしたり、何で?^ ^

意味不明ショーを盛大にって。

大事なお金をNPOとして自由につかってしまった。

ボランティアとして、はじめの大変な時助けてくれたから、

その後、信じて任せてしまった結末が、これ。

雇用者への暴力もあり、かなりひどい言動もあったよう。

黒服の強面男たちがしきる、震災便乗戸塚ヨットスクール集団版みたいだ。

町も多忙で監査などチェックする暇もなく、

放置がいけなかったとはいえ、

悪いやつはどこにでもいる人の強欲さを見た。

どんな時でも、いかにして騙す、を考えている人がいる。

NPOの実態、家族から聞くことがある。

今はすぐに設立可能、誰でもできてしまうから、

素晴らしい活動もあれば、なかみがない、ひどいところもあると。

他の自治体も、おかしいと思ったらチェックしないといけない。

八億!大金すぎる事件だ。

プロメテウスの罠、高校生のサイト立ち上げからの二年

2013-03-27 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
朝日新聞、この連載をずっと読んでいて、ここへも何回も書いた

また面白かったものから。

「生徒はどこだ」

震災で散りぢりになった、県立相馬高校の生徒を探す50代の教師の話。

始まりは、ある女生徒から。

原発から40キロ離れた高校、皆、事故でどこに避難したかわからない。

岩手に避難した、高校二年のある女生徒は、みんなどうしているのか?

学校もどうなったか?

考えていたら、パソコンがうまい妹が安否サイトを立ち上げればいいと提案、

妹は別の高校で、すでにサイトを立ち上げていて、友人と連絡がとれていた。

学校に相談せず勝手にやっていいのか迷ったが、

みな連絡を取りたがっていると決めた。

妹が記入フォームを作ってくれた。

学年ごとに居場所、自由欄をつくる、震災から一週間経過していた。

生徒がはじめに~、というところ、

まだ高校一年生の妹がしていた~、

さすがに現代っ子という気がした。

教師がどうしたら、いいのかと思っているうちに、

サイトを立ち上げた生徒の決断の速さ。

どう進むのかと読んでいく。

教師はどうしていたかといえば、学校に電話してもつながらず、

学校からのメールは

待機してください」とだけで何もできずにいた。

教師仲間から、生徒がサイトをたちあげているらしいと聞き、探すと見つかった。

そこには多くの安否が書き込まれていた。

高校生、パソコン世代だと思う。

スマートフォンでも、サイト作成はできるの?

このスキルが災害時にやくだった。

サイトの書き込みは増え、物資調達、給油などの情報も入れた。

立ち上げた彼女は、管理者として情報の確認に追われた。

協力したいという者もでて安否を一覧表にした。

生徒の中には津波で亡くなった家族もいた。

四月に入り学校が再開すると聞いた。

その頃から、批判のコメントが目立ち、

いろいろ情報を載せるのはどうか?何の意味があるの?

パスワードを作り、アクセスを制限したが、

それでも中傷が続くので、私に直接メールしてと、

個人アドレスをいれたら、嫌な書き込みはなくなった。

皆、ストレスを、このサイトで発散していたのか?

高校は四月に再開し、サイトは月末に閉鎖。

彼女は正直、ほっとした、とはなす。

こういう時でもパソコンでは嫌な書き込みがあるのだと知る記事だった。

良いこととして始めたのに、人の関係では、

とくに書き込みという顔が見えないやりとりは難しい。

災害時だから始めた事が、同時に災害時のストレスから嫌なことも起きた。

その一方、教師は、そのサイトを毎日必ず見て、

生徒の確認をし居場所をノートに記録した。

まだ居場所がわからない生徒もいた。

書き込みをしようかと思ったが、生徒のサイトなので教師が書き込むのはやめた。

教師としては大災害での判断が問われる時だったと思う。

そんな日々、ある男子生徒から携帯に電話が入った。

「学校はどうなるんですか?」

この質問には苦笑。


教師は答えにつまり、「今は郡山にいてガソリンがなく学校へも行けない、

学校から連絡があるまで休みと思って」としかいえなかった。

男子生徒は、避難していて転校も考え教材の事など、

どうしようかと思い電話をしたのだ。

教師は、ふと、クラスの皆のアドレスを聞こうと思う。

電話はダメだがメールは通じる。

自分のアドレスも教えた。、そのやりとりから、男子生徒は他の協力も得て

35人のクラスメイトに教師宛に居場所を伝えるようにメールをした。

その後すぐ、教師宛にメールが次々入り夜までに、

27名の連絡がきた。早かった。

震災前に、教育委員会は生徒ととは私的なメールをしないよう、呼びかけていた。

反する行為だが、そんな状況ではなかった。

全くそうで、生徒のサイトからメールでの連絡まで、

すべてネットのおかげでできたこと。

居場所、生存かも。

知るためには、これしかなかったと思う。

他の担任にも、これを伝えた。


~この話はまだ続くが。

サイトを立ち上げたのは高校一年生だった。

それがうまく言ったが中傷などもでた。

大災害時、生活の変化の中での人間の行動が見える状況だと感じた。

誰だったかの言葉、

「その人の本質は、彼が幸せの時ではなく不幸の時に最も大きくでる」

というような言葉も思う。

生徒は良いと思ってやったが、それを批判する生徒もでた。

皆、未曾有の災害で不安を抱えていたからだろうか?

頑張って立ち上げた彼女は、よくやったと思うが、連載を読んでいて、

見えない書き込みは、思いがけない方向へ行ってしまうのだと、

当時の混乱、心の動きを改めて感じる記事だった。

この記事は、教師が生徒を、これからどう指導するか、学校はどうするか

の記事になっていった。


大学教師も協力し、困難を乗り越え、高校サテライト講義を実施。

春には東大合格者まで出た、2年間を追っている。

「生徒を探せ」

二年前の高校の生徒と教師の行動を追った記事は興味深かった。