goo blog サービス終了のお知らせ 

銀の人魚の海

日々の思いを好きに書いています。映画、海外ドラマ、音楽、本。
スヌーピー、ペコ、NICI、雑貨グッズ画像。

玉川徹の そもそも総研

2018-03-07 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
311が近くなるとメディアは、その放映、記事が増える。
今年は日曜日。
家族の社でも、東北にいた方、一名死者が出たので黙祷をする。

在宅の朝は、羽鳥さん〜好きですよ^ ^〜のTVをみている。
と言っても一時間以内。
フリーアナウンサー羽鳥さん、二回目の結婚、
お子さんはまだ小さい。稼がないとね。^ ^

玉川徹さんも、楽しい!
結婚一回、今は独身。
意外と背が高い。
アップルウォッチをつけているよ^ ^
なぜかネットでは叩かれてもいるが。

京大農学部修士卒業。TV朝日社員。ディレクター兼レポーター。

図書館で家族が彼の本をかりてきた。
番組で企画を持っている、その書籍化。
そもそも総研、原発、電力。

イラストが多く、わかりやすい。
読みやすく、311の原発の真実はどうだったか?
今更だが、政府は何を隠し何を言ったか、など、広い視野での語り。
まだ最後まではよんでいないが、改めて、あの日を思う本だ。
七年か…
原発は無関係だが、七年、多々あり、とても早い月日だった。

東日本大震災 NHKスペシャルから

2017-03-20 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
しんさい関連、NHKスペシャル、いくつかは録画してみた。

仮設住宅について。
もう6年住んでいて、これからどうするか~

高齢の方は、このままいてもいいという方もいた。
考えるのも面倒になっていると。

わかるような~

災害時の仮の住宅は、70年前に作られた

災害救助法という法律を、今もそのまま
かえずつかっている。

その法律の壁が、大きくたちはだかっている。

阪神の時、見なおそうという議論もあったが、そのままになり

東日本の災害が起こった。

面積は9坪くらい、早く、安くつくるという方法。

そのまま住めるように、少しだけ広く材質がよいもので作り
希望者には、売る形にできないか~
など。

土地をどうするかは、わからないが。

確かに70代で突然、家をなくし、6年経過。

もう少し仮設が良ければ
そこに住んでもいいという気になる方はいるだろう。

多いかもしれない。

阪神の被災者は、どちらかと言えば狭い家の方が多かったと思う。

東北では、ひろくゆったりした家の方が多かっただろう。

余計に広さを求めると感じた。

結露が酷く、となりの音もかなり聞こえる。

これは、法律がからむので難問。

70年前の法律、災害日本、
いつかは変更しないと使えなくなるだろう。

六年前の今頃は

2017-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
東日本大震災の日、今頃は都心部を大渋滞の中車で走っていた事を、毎年思う。
11年、三月12・13日に詳しく書いている。
自宅のガスは止まり自分で復旧はできなかったな〜
翌日、東京ガスの方が来て復旧。
東京では東寄りが揺れが
大きかったので、九段会館で死者がでたと思う。
六年前と違い、今夜は在宅、ブログを書いている。

六年前、三月十日

2017-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
今日の朝日新聞、社会面の記事、
共にいた、いとしい日々。
311の少し前にニュージーランドで地震があった。
三月十日、前日の朝、福島で地震があり津波注意報がでたとあり
これは知らなかった。

前日から地震が起こる午後二時前まで、九組の家族の生活エピソードがつづられる。
最後にここで書かれた方は
全て、その後の地震で亡くなったとある。
六年前、前日に家族は何をして過ごしていたか。
その時を追う取材と視点がいい。

人は日々生きている。前日は普通に平穏な日々、会話も同じようだったと思う。
突然の死が、人類にはあることをあらためて感じた。

6年前の今日

2017-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
亡くなられた方々、いまなお避難生活を余儀なくされている方、

6年目の今日を、どのようにおすごしでしょうか?

小学校へ入学した子供たちは、もう卒業です。

つらいこともあったでしょう。いじめも大きく報道されました。

長いと言えば長い年月。

まだまだ復興は程遠いご家族も多いと思います。

何もできませんが、遠くからみつめていきたいです。

3月になるとメディアは、しんさいの報道がふえます。

災害と向き合う姿勢を忘れずに、生きたいと感じます。

あの日、私は何をしていたか~

夜にでも書けたら。

家族の会社の方もひとり亡くなっています。

たくさんの亡くなられた方へ、がっしょう。


NNNドキュメント、放射能対人

2016-03-28 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
NNNドキュメント「THE放射能、人間対放射能、科学はどこまで迫れるか」から。

一時間、学者、専門家何人もの見解をわかりやすくまとめていた。

生物の生態なども。

メモした順に書いてみたい。

初めに原発で作業した作業員の証言から。
数人。

がん、白血病、腎臓、心臓病など色々な症状が出ている。
初めは瓦礫を素手で触り作業していたと語る。

八人が東電を相手に損害賠償を申請、裁判中。

そのうち一人のみ労災認定された。

チェルノブイリは事故後、20年で、国が癌との関わりをやっと認めた。

311から放射能がどう流れたか詳しく地図でのかいせつ。

三月15日、台東区、蔵前が高い濃度を検出。世田谷、駒沢公園も。

普段は出ない核種、テルル、テクネチウムなども大量検出。
知らない言葉だ。

この日、その辺り外にいた人は、普段と違う空気を吸っていたことになる。

チェルノブイリは五ミリで強制移住させたが、
日本は20ミリと決められた。

内部被曝は大きく言われていない。

内部被曝で、一番大きく出るのは、胎児、受精卵と語る学者もいれば、そうでない方もいた。

2012年、福島の昆虫、ワタムシの生態、形態の調査での異常な結果がでた。
低線量なのに、学者も信じられないと語る。

植物も形態が変化し異常が出ている。

牛は体に白い斑点が出ている。

福島周辺猿は世界初の調査で、血液検査を実施した。
青森の猿とセシウム濃度が違った。

魚も生態系に多々変化が起きている。

専門家でも見解が分かれ、人は今後どうなるか、わからない、ということか。
専門家でさえそうなのだから、素人には、全く不明のことだ。

福島はチェルノブイリと違い、低線量、広範囲長期被曝では
学者も、断言できることはなく、これからの調査などを通し、
解明を続けていく、しかないことだという。

日本は重い課題を持ってしまった。

すぐの調査をしなかったので、今後、内部被曝を証明することは誰もできない。
将来癌になっても調べられない。

これは「静かなる殺人」という学者の言葉で締めた。

気にしなくてもいいという学者など、
両サイドからの取材になっているが、ラスト、殺人、で終わったので、

原発の怖さ、人では、どうしようもないことを、放映したかったと感じた。

今も日々、処理をしている作業員の方々、
福島で過ごす方々の健康を想いつつ見た。

他の番組にはない視点があり、首相はアンダーコントロール~と
軽々しく云ったが、

福島の線量と人の身体への影響解明は
長い間の地道な研究が必要だと想った。



放射線量

2016-03-21 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災から五年、放射線量の記事が載った。

年間、一から二十ミリシーベルトの中で一番緩い、20になったこと。

一ミリと二十、違いすぎ。これに関し
復興庁の座長が、年一ミリが望ましいとある。

それも自然放射線年、1・5ミリに追加で、計2・5になってしまう。

まだ線量が高い地域もある。
政治家はほとんど誰も住んでないだろう。

もし、これが都市部での事なら違う数字になっているだろうか.

政府は、除染しましたよ、安全です、戻る人が多くなるように、している気がする。
原発は壊れても、直せば数年で戻れます、思考って?。

福島の方は、それまでは、広い家、庭でのんびり暮らしていて、
狭い仮の家、中には、政府がいうなら、いいだろうと、
若い世代と一緒に、二世帯を建てて戻っている家族もいる。

何が体に起こるかはわからない。

家の周りはギリギリ良く除染が終わっても、
木が多い家の近くでは、まだ、
例えば毎時4ミリシーベルト!だ。

放射線は気候により変化、動きもあるから、台風、雨でも値は変わる。

それぞれの家族の考え方だろうが、
これから子供を産める世代、四十代までは、
周囲の除染が、確実にできなければ、戻らない方がいいと私は思う。

二世代、三世代で暮らしていた家族は、一緒に住みたいのだろうが
いろいろな情報を得て考え決めることだと思う。

老人世代ならいいが。

国はかなりの数が戻れば、福島安全宣言をしたいのだろう。

楢葉町で帰還している率は8%%弱、それも高齢者がほとんど。

おさらい、年、二十ミリシーベルトは、毎時3・8マイクロシーベルト。

以前、ヨーロッパの原発は日本より、安全装置が強化されていると読んだ。

確かに、大陸、続く大地だから、何かあれば日本と違い、他国へも拡散してしまう。
安全の基準が違うのか?

専門家しかわからない事が多く、
それぞれの家族の環境、考え方も違うので、難題だと思う。

戻った今、高校生以下あたりの子供達が、
大人になった時、病気がないことを祈るしかないかもしれない。

大人はいい、自らの考えでいるのだから。

今、30、40代あたりの政治家が、
六十くらいまで福島の避難解除された町に暮らす実験をしてほしい。

仕事は新幹線で通い、できることは在宅勤務。

安倍首相、少ししませんか?


備蓄、災害

2016-03-20 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
311、五年目で、備蓄チェックをしたら、食糧が四つくらい、期限切れか、
期限あと少しだったので、食べないとね。

リッツの大きな缶。スポーツ小羊羹。
缶詰のお粥。ビスコなど。

賞味期限なので、まだ食べられるとは思う。
お水は、三箱備蓄している。何リットルになるか?

普段から、コープで水を含め、
紙パック系多種飲料を多めに買ってはあるので、
いつも飲むものは、いろいろあるので、備蓄している方だと思う。

塩分と水分が大事。
飴など、甘い物は常に買い置きはあるが、
大災害時、果たして、置いてある場所に、底まで行けるか?
物を取れるか?もあるから、

災害時は、運に任せる部分が大きいかと感じる。

日本。地震、噴火などあると、この大地って住む場所なのか~
と思ったりする。

生まれ変われるなら、次は、大地が揺れない地域、
ヨーロッパの地震がない国、寒くても暗くてもいい、
カナダあたりもいいな。

地震は他の災害と違い、いつ起こるかわからない事が、怖い。
わかる災害なら、それなりに準備はできるが、
早く、予知が可能になればいい。

それを待つのも怖いかな~~
どちらにしても、キャ、
たつまきも急に起こるが、去ってしまえば、それで終わり。

地震はツナミ、そして何年も余震がある。
三点セット災害、だから一番大変な災害だと思う。

防護服撮影

2016-03-14 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
311震災関連TVで、TV朝日、被災地ライブ各地から。
録画したのをざっと見た。
帰宅困難地域、一番印象的だったのは、福島、双葉町に初めてメディアが入った映像。
原発まで三キロくらいか。
メディア全員
白い、防護服。SF映画の撮影みたいで映画、渚にて、を想う。でも現実。

双葉駅近くは東京の六十倍の線量、草木がある土地は200倍、
帰りたい方にはお気の毒だが、線量、高すぎる。
政府は、いつまでたっても帰れません、とはいわない。

自治体が除染が終わったという地域でも、
家の周りの雨樋、排水溝など、ガイガーカウンターが、すぐなり出すほどの高さがある。
政府はこの現実をどうみているのか?
そして困難地域の方に、いつ、どう説明して行くのか?
放射線量の行方、真実は、専門家でも断定はできないと思う。
制御できない物を人は作ってしまったのだろう。
電力の神はいない。

比較写真

2016-03-12 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災の写真きじ、昨日の朝日新聞、別冊、被災地の11年の写真と、今を見ると、
こんなに、変化したんだ、私は被災地には行っていないので、
よくわかった。
特に、南三陸町の07年の緑溢れるのどかな光景、から、津波、そして
復旧工事の写真。
陸前高田、大槌、女川、いわき、どこもまだまだ、かかる工事の実態が見えた。
東京にいると、全く見えないが、大きな写真、TV映像とは違い、じっくり見られたな。
大槌町の高校生に家にあった少しの物資を送り、
一ヶ月後くらいに、丁寧なお手紙を頂いた事を思い出す。
今、どうしていますか?

消防団活躍と死

2016-03-12 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災の消防団の活躍をフジで放映した。

あの日、消防庁には、一日で一万340件の電話があった。
これ、119番ということだよね。

車の渋滞で事故などがあったこともあるか。
気分が悪くなった、怪我なども。

初めての大きな数だそう。

被災地では、水門を閉める作業などで、
海へ向かい亡くなった地元消防団員が250人くらい。
家族より、仕事を選んだ。
消防団員は本業は他にある方だ。
おの毒としかいいようがない。

水門をあっけなく超えた自然の威力。

また地震がきたら、逃げることだ。

気仙沼ではタンクから大きな火災が発生、夜になっても燃え続けた。

町の水栓のすべてが破壊され、水が出ない!

方法は山からひくしかなく、暗い中、何キロもホースをつなぎ、
やっと水が来て、消化できるようになった。

寒く暗く夢中だったと。
翌日、東京から応援がきた。
気仙沼は火災が一番ひどかった地域だったを思い出す。

千葉でもタンクから火が出ていた。

消防団員、応援は各地から10万人が被災地へ向かい、五千人を助けた。

都心の区、我が家の区でも、消防団員を募集している。

都市部ではなりては少ないだろう。

地方では、兼業でできる人がいるからこそ、
救助もできたろうが、亡くなった方も多い。

津波がきたら、とにかく逃げる、を再確認する五年目だ。

自然に立ち向かい制することは、
人にはそう簡単にはできない事をあらためて心にとめよう。



いない、そして、甲状腺がん

2016-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
今日は朝から震災の報道が多かったが、昨日の新聞、
大きく
災害伝言板のお知らせが載り、そうか!
171は、いない、なのだと気がついた。
みんな、知ってた?

この一年くらい、携帯はあまり使ってないので、いない、も
万一時、使えるか?
練習しないといけない。

さっき、報ステで、福島の甲状腺がんのことを詳しく放映した。
放射能と関連性があるのか、
実際にガンと言われ、手術を受けた、二十歳くらいかの女性もインタビューに応じ、
子どもがかかった親、三人の方も気持ちを語っていた。

普通、多くはない癌なのに、福島で、現在、160人くらい、
医師はいろいろな見解を述べている。
それぞれの立場からもあるだろう。
癌自体が、医師も解明できない病であることも大きい。
まだ現代の医学では簡単には太刀打ちできない病。
素人からみると、なぜ、福島で多くでている?
素直に考えれば、まず原発事故があったから、と思う。
他の地域にはでていないのだから。
長い目で見ないといけないし、徹底した研究、解明が必要だろう。
罹患した若い方々、辛いでしょう。偏見などもあると思う。
安易なことは言えないが、私も病とは縁が多い。
しっかり、そして冷静に生きて行って欲しい。

五年前の食事

2016-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
震災から五年、TVではしんさい関連放映が増えているが、
このNNNドキュメンタリー、は面白かった。

タイトルは「取材映像に残る、はじまりのごはん」

五年後、初めて見る映像、画像ばかり、知らないことが、山ほどあったと。
製作、ミヤテレ~45周年。

震災後、初めての食事の写真を撮った方が多数いて、
その写真を見て、当時、その時何を感じたかを、付箋で一言書く。
そういう企画を仙台市でした。

私には初の映像だった。

まるで、一年前の災害のように思えた。

仙台市、中心部では、牛タンのお店が無料で焼いて配っていた。
皆、並んでいた。
お肉で元気を!

アルファ米が初めてのごはん。
これは避難所か。

三月12日、銀行のロビーに避難していた人が、パンを分け合う。

15日、市内ではない。牛から絞ったミルクを急須につぎ飲む。

16日、若い人たちが、明るく元気に、おにぎりを50円で歩いて売っていた。

コンビニ、何件も回っても、ほとんど売り切れの写真。

18日、ダイエー~ここは仙台へ旅した時、買い物したことがある~
は六時間並んでやっと買える状態だった。

津波がなかった市内は、いろいろな場所で、
フードフリマみたいなお店ができていた、その写真もあった。

アレルギー体質の方向け食品店は、
頑張って三日で店を開けた。

子供、幼児がアレルギー体質で困っていて、
ここで、やっと買え涙を流す母が映っていた。

いつもより、高く売っているお店もありその写真に、
もう行かない!と付箋言葉。^ ^

市内は二週間くらいは、物資不足で混乱していたと知った。長かった日々だろう。
皆、工夫して食べることをした。

東京、都心、私も家族を迎えに車で、往復六時間、
その様子はここに書いている。

沿道、自販機は皆売り切れだった。
靴を脱いであるく女性もいた。

あの夜、我が家はカレー。だっただ、食べたのは、夫のみ。
私は食べられなかった。

普段、当たり前に食べている毎日。

備蓄を多めにすることを感じる。
できれば10日分くらいは必要だろう。

震災から五年経過、食の大切さを改めて感じた番組だった。

芸能人の震災を忘れないで~ベタな歌番組より、
知らなかったあの時の、こんな番組を、もっと見たい。



五年、変化

2016-03-10 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
メディアでは、震災五年経過での放映などが多い。
芸能人、歌手が、歌って記憶を風化させないように、などの番組は見る気がしない。
風化、する時はする。
被災した方は、一生しないと思う。
稀に忘れる方もいるかな~

わたしも、五年前の明日の夜は一生忘れない。
車で、八時に家族を芝浦まで迎えに行き、大渋滞に巻き込まれた。
もし大きな余震がくれば、大事故になるかもと思いつついた。
緊張した日。
ガソリンもギリギリ、どうなることかとー
被災地の方とは比較にならないできごとだが、
私にとっては、一生記憶に残る夜だった。
往復、普通なら二時間が、六時間以上かかった。
帰宅するサラリーマンを車の中から見ながら、走らせた。
ほとんど動かない道路だった。

今、もし、同じことをやれと言われても、できない、体力的に無理だと感じる。

五年、短いようで長い。
年をとったということ、そして、いろいろな事があり、
我が家の環境も大きく変化した。
また五年後、被災地の方もそうだが、わたし自身もどんな生活をしているか?
想像できない。
わたしにとっては、10年一昔、ではなく五年一昔かな。
12日ガスが使えず、自分では復旧できなかったので、東京ガスに電話し、来てもらいやっとガスが使えた。
都心は東よりほど、大きな揺れだったなー