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銀の人魚の海

日々の思いを好きに書いています。映画、海外ドラマ、音楽、本。
スヌーピー、ペコ、NICI、雑貨グッズ画像。

双葉病院の死者

2021-02-27 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

東日本大震災から間もなく10年。

新聞、記者があるく、連載が始まっている。下記、ネットから一部。

新聞掲載を読み。

双葉病院で多数の死者が出たことは、少しして知った。

「遅れた批難 50人の死 救えなかったか」、28歳の記者は訪ねた。

東電を相手に裁判もあったが、全員無罪になった。

12日避難指示が出た。電話が不通。病院から役場へ行った職員が町に直談判した。

避難用のバス、ストレッチャーが必要~16日まで5陣に別れいわき市へ搬送した。

亡くなった50人は一陣のバスに乗れなかった患者だった。

2陣のバスを開けると異臭がし、亡くなっている方がいる。

オムツが外れ、点滴も外されていた。

避難の体育館は底冷えがし患者は衰弱した。どこで受け入れるか右往左往した。

遺族の一人は、母がいつ死んだかもわからない、という。~日頃としか。

遺体そばには、直前にあった卒業式のお花を供養に飾った。

この1年、コロナで、ほぼ会えず亡くなる方もいる。

10年前、双葉病院では、バスでひっそりと亡くなった方がいる。

50人という数大きい。原発事故がまた起きたら、

近くの病院の患者はどうなるのか・・

ネットから

〇私(28)が近づいているのは福島県大熊町にある「双葉病院」。

あの日、そばの系列の介護老人保健施設も含め、患者や入所者436人がいた。

写真・図版双葉病院の東病棟。柵の向こうの敷地には背丈ほどある草木が生い茂っていた=2021年1月23日、福島県大熊町、小手川太朗撮影

 町内に立地する東京電力福島第一原発が爆発して放射性物質が降り注ぐ中、救出活動は混乱した。全員の避難までに地震発生から5日かかり、約50人が死亡した。

 救える命だったのでは――。その後の裁判の経過をたどっても、政府の事故調査・検証委員会の報告を読んでも疑問が晴れない。改めて現場に向かった。

 350床あり、精神科を中心とした地域最大の病院だった。事故を起こした原発からは南西4・5キロ。放射線量が高く、今も立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域にある。


311の記憶走行

2019-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連

8年前、今頃、どこを走っていたか?
品川区に入っていたか?

ここへ詳しくかいたが、読み直してはいない。

あの日の夕食がカレーだったこと、
金曜日だった、はしっかり覚えている。

家族一人は在宅、近くのクリニック受診、
ちょうどそこで地震がきた。

若い家族は仕事、やっと連絡がとれ一安心。
タクシーで帰宅というので待っていたが、タクシー並んでも
全く来ないといい、社に戻った。

夜になり寒かった。

迎えに行かないと、これには理由がある。

夜8時に車で出た。
港区、海岸よりの社まで、行けるか~

初めはわりにスムーズ、30分過ぎると渋滞に。

それからは、ほぼ動かない。
普通は1時間弱が5時間くらい、だったか。
途中で車に積んであったオムツをはいた。

都心の帰宅難民を多数見つつ
社の近くも全く動かないので車から降り
800メートルくらい、徒歩で迎えに行った。

上司と一緒に出てきて一安心。

自販機も売り切れ、ハイヒールを脱ぎ歩く女性たち。
今でもよみがえる。

12日になり帰宅道路は、もう大渋滞は少し解消されていた。

被災地の方に比べたら100万分の1以下くらい、死はない
経験だが、一生忘れない深夜走行だった。

帰宅してもガスはつかず、すぐに休んだ。

8年間の間に、あの走行より大きな事があった。

まもなく12日、亡くなった方のご冥福、
それぞれ違うだろう、それぞれの復興をお祈りします。
合掌。


あの時の直感

2019-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
東日本大震災、8年経過、TVは報道が多い。

新聞に目を引く被災者のコメントが載っていた。

当時、多数の方のコメントがのり、
時間をかけて読んだことを思い出す。

阪神淡路震災との違いは、原発事故が起こり、
津波も予想もしない大きさだったこと。

そして阪神は都市部と言ってもいい震災で、
面積もそう広くはなかった。

都市部なので他へ引っ越すことも、東北の方より、少しは楽にできた、
違う場所で暮らすことも、慣れていたといえばいいのかな~

そんな事を思いつつ、今日のコメント。

宮古市の39歳男性。

あの時は、前日から胸騒ぎがした。
午前中、仕事が手につかず、早退。
そこへ地震が。

妻、娘、母を乗せ車で脱出した。
あの時、帰宅しなかったら家族は死んでいたかもしれない。
~直感を信じたから~

笑顔の写真がある。
良かったですね。
その直感、素晴らしい。
神がかっている、と。

NHKスペシャル 10日 東日本大震災関連

2019-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
ついの住処というけれど。

震災から8年。
このような事態になっているとは、思わなかった。
家、1階は壊れたが2階は残って何とかすめるので、
2Fに住んでいる人を2階族と言っていた。
え、何?
 
国はこのケースでは、285万の支援金しか出してくれない。
2階に住むか、越すか~ということ。
そのお金は1階の修理にもたりず、多へ越すこともせず
2階に住んでいる高齢者がほとんどと思う。
 
なぜかというと、2階がある人は仮設住宅に入れないのだそう。
他へ越したくない人もいる。
 
初めてしる。
 
家が残っている人にはそこで何とか過ごせ、という制度から。
 
高齢でお金もなく、すべては直せないので、
1Fは8年経過しても、まだかなりひどい状態のお家もある。
 
風が入る。北の地方、寒い。
床が壊れ段ボールを敷いてしのいでいる。
どこかの市だけでも2430世帯が、直し住みたいと思っている。
 
国とは別に、石巻市では100万円が支給された。
 
住んでいる方の家の内部がうつる。
お金がないので、おうどん、3つで100円、もやしと茹で食べる。
年金だけの暮らし、修理するお金はもうない。
体調も悪化した。
 
足を痛めたが、病院へ行く費用もないので、
専門家がサポートへ来ていた。
 
皆、ほぼ一人で暮らしている。
 
新しい復興住宅へ入った方の取材。
 
仙台のマンション、300世帯。立派な建物。
入った方が死後数か月で発見された。
 
一人暮らし、60歳。
誰も、名も知らない、顔も?
生活も見えていなかった。
 
自治会を作っているが、名前は個人情報なので、
役所は教えてくれない。
 
会合などに集まってくれた人のみ、顔、名がわかるという状態。
半数しか自治会に入っていない、空き室も多い。
 
災害ケースマネジメント、という言葉が出た。
トータルで個人の生活を見ていく。
オーダーメイド支援という感じ。
 
社団法人、チーム王冠、一人の男性が中心になってサポートを始めた。
専門性がある問題は、個別に無償でみてもらう。
 
建築士、医療系、福祉系、就労系、経済系など、
 
わけて支援するが、人手に限界もある。
 
2階族の方は、諦めが広がり、ぼんやりと過ごす人もいる。
アルコール依存症になっている方もいた。
 
孤独死、という言葉が何回も出てきた。
1箇所で一生暮らすという、感覚がわからないので、
理解しにくい。
 
ここで死にたい、ここに居たいという気持ちがとても強い。
 
孤独死、という言葉、
大越記者は何回も言ったが、
安易に解釈してはいけないと思った。
 
孤独死は誰にでもあると思う。
 
震災被災者だけではない。
 
これをアップするころ、8年前、津波が襲ってきていたのだ、と
改めて思う、晴れてきた、都心。
8年経った3月11日。
 
あの日は曇りで、東京も寒かった。
まだ仮設などで暮らしているかた、健康を大事にしてください。

玉川徹著 そもそも総研 原発 電力 追記

2018-03-20 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
前に書いたTV朝日社員の玉川徹氏の本、

そもそも総研 原発、電力、から少し追記。

図書館へ返すので。

彼は宮城出身。

モーニングショーの後、モニターの前に座っていたら、揺れが。

すべての局のモニターがみられる状態と場所にいた。

都心でも揺れが続く~

スタッフは東京でも別な地震が起きているのでは~と思った。

カメラを回せ!

怒号が飛び交う。

テーブルの下にいて、実家の電話を回す、すぐつながった。父母は無事。

仙台の弟にはつながらなかった。

ここから未曽有の報道が開始された。

12日水素爆発が起こると、ああ終わった~と力が抜けた。

理系の彼、いろいろ調べ、東京まで被害がくると考えていた。

何人かの学者に話を聞いていく。

14日に3号機爆発。4号機、建屋爆発~

毎日スーパーモーニングで朝伝えていた。

チェルノブイリでは300キロ離れても被害はあった。

ロシア政府はすぐ避難させた。

学者から具体的な話を話を聴いていたので、

恐怖がつのり自分が東京で仕事をするかどうか、

かなり考えていたという。

結局、残った。

変わって六本木ヒルズのこと。

このビル、日本ではあまりないビルだそう。

電気がとまっても、停電のない街、

電力に三重の安全策を設けているビルだそう。

そうか、だから富裕層、外国人が住んでいるのね。

コージェネレーションシステムという。

初めて聞いた。

工場などではすでに普及している。

街ごとできないか~

高くなるのか~

ヒルズの電気代は?

普通より、少しやすいくらい。

リーマンショックでは空き室がでたが、今は満室。

お金があり、地震経験がない国の方は住みたいだろう。

六本木きらいだが、これはいい。

このシステムが都市部から普及していけばいいのに~

街をコージェネレーションシステムにできないか、と書いている。

電気がなく真夏の停電は熱中症がまず心配、死者も増える。

電力会社の利益について。

高い発電所を持てばもつほど、

利益率があがるシステムになっているという。

建設費が高いほど、利益は出るが建設費は、電気代に算入される仕組み。

国民が損するようなシステムなの( 一一)

高い原発がどんどん増えれば、社はそれだけ儲かるシステムになっている。

一体、この仕組み誰が考えたの?

そして福島で事故が起きた。

次、また地震は起こる。この島国、ほんとはすめない火山が多い島だと思う。

なぜ、国ができたのだろう?

地震、火山噴火は多かったが、短期間での災害は少なかったので

住んでしまった。

損な国だと思う。

台風、ハリケーンなどと違い、地震は予測できない災害なので。

これが前日に予測可能になれば、準備はできるけれど。

復興 お仕着せの絆

2018-03-18 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
新聞、オピニオンに東北の名誉教授のインタビューが載った。

7年前に戻れぬ哀れみの言葉は願い下げだ。

岩本氏。

東京生まれ、6歳で相馬市に移住、そのまま定住。
津波で友人もを失ったそう。

前の復興祥相は、東北でよかった、といったが
本当にそう思っているのでしょう。

正直なのかもしれない。

政治家たちは、世間への体裁を繕っているだけで~
本心は、まあ東北だからいいや~があるんじゃないかな。

~私もそう感じる。

東北の開発の歴史も詳しく語る。

戦後は集団就職で東京へ向かった~
東北は~植民地の扱いと変わらなかったのでは~

基地の負担をしいられている沖縄も同じでしょう~

震災後使われるようになった絆、という言葉について聞かれると、

元々、共同体的つながらりは嫌いだが
絆、という言葉は、何か上から目線を感じてしまう。

~憐れみをもち絆を強調しているのが見え見え~
被災地の現実は絆でつながっている、そんものではない。

とはっきり言っている。

原発事故は本来隠れていた分断、断絶を顕在化させたかもしれない。

そうか~

絆、という言葉、メディア、特に芸能系の311関連番組では
やたら使用されていたと思う。
歌番組が多かったような~
これを歌えば、絆となるなど。

今年もあったかな~

絆、と言えばいいってものではない。

何だろう?
絆、をしっかり考えることこそ、
少しでも被災地に近づくのではと思う。

そう簡単なことではないのは、原発事故が遠い先まで
見えないことが一番大きい。





カテゴリー追加

2018-03-17 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
東日本大震災から7年、今年もいくつか書いたので、

七年前からのページを今、カテゴリーとしてわけてみた。

あの時、そうだったな~

思い出すことも多かった。

当時、福島の大学にいた家族の友人は地震後少しで

東京の実家まで移動し、

今は埼玉で小児科医、周産期科として多忙な日々を送っている。

病院も大混乱、苦悩もあったと~そんな事も思い出した。

まだ、2011年と今年のページのみ、これから少しずつ移動します。

NNNドキュメント 震災7年目の面影 シリーズ85

2018-03-16 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
長く311を追っているドキュメント。

3人の家族を追っていた。55分。
少し感傷的でもあるかな~

双葉町で畜産農家、牛を50頭、我が子のように名前をつけ
飼っていた夫婦。

町に入れなくなり、やっと一時帰宅ができたのは夏になってから、

すぐに子牛?が歩いてきたので、他もいるかとみると

ほぼ餓死していた。

白骨化している。

夫、63、妻57はわびて泣いた。
見ていてもかわいそうだった。

ここでは生きられないと埼玉へ移住。
二人で野菜作りを始めた。
なす、お米も作った。

精力的、夫婦共同で牛を忘れるかのように見えた。

順調な中、急な病で夫は68歳で亡くなる。
妻は一人になり、どう生きていこうか?
いつも一緒だった。

埼玉の人と交流をもとうと思い、お祭りに参加し
初めて福島からだと語った。

訴訟にもなった、子供が帰宅の幼稚園バスで亡くなった遺族。
バスは津波がくるとは思わず、海、下へ走ってしまい、
何人かがバスでなくなった。
訴訟は和解となったかな~

その中の一人の女児の母の思い。
はいていた靴は、黒焦げだったので燃えていたのだろう。

なぜ、守れなかったのかと母は何度も思う。
長く自宅に靴を置いていた。

遺品であるその靴を、
展示し皆に見てもらう決心が、ようやくついた。

岩手、夫は高台にある家にいると思ったが
避難を呼びかけるため、家をでて海のほうへ。
帰ってこなかった。
亡くなった。
いまだに行方不明。

311から、妻は毎日夫に手紙を書いている。
最近は、孫が夫~祖父に手紙を書くようになった。

多数の手紙に囲まれ、夫は家にまだいるようだった。

NNNドキュメントは長く311を追っている姿勢は、
他にはないドキュメント制作の形だと思う。

これからも続くだろう。

311関連 NHKスペシャル 被爆の森

2018-03-15 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
少し書いた続き。

被爆の森、見えてきた汚染循環 2018。

多数の学者が、ふくいち近くの森の生態調査継続中。

セシウム137が一番問題となる。

消えるまで100年はかかるといわれる。

野生動物は外見は普通に生きている。

キツネ、イノシシ、ハクビシン、鳥、シジュウカラ、

アライグマ、ニホンザル、アカネズミなど。

植物はヒノキ、ヒマツなどを調査している。

赤宇治地区。

初めて知った驚き、

この地区にいた住民が、森で悲観し割腹自殺をはかったこと。

一人で、介添えなしで。

覚悟でだろうが悲惨すぎる。

昨年、富岡八幡宮事件も一人で割腹だった。

一人では相当な意思でないとできないこと。

森で自ら死を選んだ人もいたのだ。

学者たちは、各地からここでの線量を測定しつつ、

生物の染色体を調べている。

はっきりとわかる異常染色体が出いる動物もいる。

青森とくらべ、高い率で発生しているが

それが原発事故と関連しているかは証明はできない。

ここに住んでいたある老人は、100年後の子供たちへ、

という記録を作成している。

昔、こんな風だった、こんなことがこの地で起こった事を

伝えたいと願って。

事故は、過去、7年経過、

被爆は現在も進行中。

見えない悪魔がひたひたと生きている森、

見えない恐怖をとらえたドキュメントだった。

311関連 NHKスペシャル めざした復興は

2018-03-14 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
75分、長い。

久しぶりに大越氏の取材。

めざした復興はいま、と題して。

政府は予算、32兆円、10年と決めた。

復興省も10年でなくなるのかな~
たぶん。

理想と現実とのずれ、被災地からの問いかけ、とある。

不満もあるが、復興していることもある無難な取材だった。

地域により土地利用の方法が違う。

例えば、高台利用を自治体がおしても、

そこへ家を建てる家族が少なく、空き地が目立つ地域。

立派な公営マンションに入居しても家賃がかかり

友人もいないでのなじめない。

その運営費がたりない。

廊下などの電気1つにしても管理費では無理、

係を引き受けたが、ここまでまとめることが大変だったとはと語る男性。

それぞれの場所で、7年が違う形で進行している。

特に福島、それ以外もまだまだ、これからということだ。

7年 東日本大震災とメディア

2018-03-12 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
毎年、311になると増加する。

録画したいくつかの番組を見ているところ。

NHK、NNNドキュメントくらい。

NHKスペシャルでは、ふくいちすぐの森が今、どうなっているのか?

原発近くの元々、森の生態はどう変化しているか?

鳥の成長、卵の孵化状態など、学者が調べている。

この変化が、まさに現実なのだが、森なのでどこか

人の世界から遠い、離れているような気がする。

これが近くの代々木公園なら違うのだろうか・・・

これは途中なので、また書きます。

同じくNHKスペシャルでは、震災で祖父母、叔父を亡くした少女、

など、当時、幼児から10歳くらいの子供がどう成長していったかを

撮っていた。

すぐには発症しない地震、津波への恐怖が何年か経過し、

PTSDのようになり表れては消える。

不登校になり、それでも、何とか乗り越え生きていく。

岩手県立医大の小児精神科医、カウンセラーとの面接が印象的だった。

少女はだんだんと泣けるようになり、語れるようになる。

語ることが自然にできるようになれば、人は少し前進する。

皇后も、かつて失語症になった。

大きなストレスがかかると、語ることができなくなる。

言葉がなくなる。

話せて、泣ける人は、自分を開放できている。

誰にでも、何でも、ペラペラ話せる人は、それだけで

ストレスは少ない性格だと思う。

何も語れなくなる、何を語ったらいいのか自分でもわからない~

大きなダメージがあるということだろう。

復興の公営住宅のこともあった。

まだ途中。

大きな一軒家に住んでいた方は、マンションのような

集合住宅には住み辛いだろう。

運営も大変だろう。

今日は、都心、快晴。

311、7回目は過ぎていった。

時は回る。




七年前の今頃は

2018-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
先週は冷蔵庫修理、仕事も多忙もあり、疲れがでているのか、
今日は午前から調子がイマイチなので早く休まないとね。

昨夜、夕飯、ステーキ、レアで食べたせい?でもないか…
もしかして関係あり?
腸が弱っているような…

ナッツ類をおやつに食べたせい?いつも食べているのに。
食欲は普通なので、こんなことでは痩せない。^ ^

話題変え、七年前の今頃は車を必死で運転していた。
家族を社まで迎えに行くために、八時に決心し家を出た。

男性が多い社なので朝まで職場でより〜早く帰宅させたいと思った。
まさかの大渋滞は考えず。
万一の時もあるとオムツをはいた。正解。^ ^
二十分位は、まあまあの速度。
そこから大渋滞が始まり今頃はどのへんだったろう。

道路には帰宅難民が多数。
ヒールを脱ぎ裸足で歩いている女性もいた。
自動販売機はすべて売り切れ。

都心中心部に入るに連れ、人も車もメチャクチャ状態。

港区海側の社に着いたのは午前一時くらいだったと思う。
当時のページに詳しく書いた。

ガソリンは半分しかなかったので、帰宅までギリギリ、
最悪、車で朝まで過ごし〜と思っていたが、帰り運良く、
山手通りの近くのGSがあいていた。
神様GS!
午前三時頃帰宅できた。

東京でも揺れはかなり差があり、西、都下の友人は二階だて、
物はほとんど落ちなかったという。

東京では東よりが揺れが大きかった。
我が家も三階のいろいろな物が落ち、壊れた物もあった。

ガスが揺れ後すぐに停止した。
この揺れで停止が確認できた。

自力では解除できず、翌日、東京ガスの方に来てもらい復旧した。
我が家の近所では、ガスは自力では復旧不可お宅が多かったみたい。

今日の投書に、九十代の被災地の方が、
飲料がなくお水をお店で分けてもらった、というのがあった。
災害日本、飲料水は各自、三日分くらいは備蓄しておこう。
それくらいなら場所はとれる。

とくに都市部での地震は、人口が多い。物はすぐになくなる。
各自、各家庭備蓄が大事。
心も混乱しないようにしたい。

まだ避難されている七万以上の方、少しでも良い春が来るように…


子供を亡くす

2018-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
新聞には東日本大震災の記事が先週から増えている。

今日の社会面、大きく載った夫婦の記事。

3人の子供と夫の両親、5人をなくした夫婦の今がつづられている。

妻はまだ47歳、20過ぎあたり、若いころから3人産んでいる。

3人も亡くしたので、少し経ち、また子供をと不妊治療を始めたが

うまくいかず、妊娠初期で亡くなってしまう。

もう死は経験したくないとやめた。

今は仕事ももち、二人で思い出をかたりつつ生きている。

311で子供を亡くした方は、たくさんいる。

自分より若い世代の死が一番つらい。

7年経過した今、改めて思った。

福島原発、先は

2018-03-11 | 2011年3月11日 東日本大震災関連
先日も少し書いた。
TV朝日社員、玉川徹氏の、そもそも総研、原発、電力、という本を読んでいる。
震災後秋の発刊。

当時の原発の具体的な事、学者のインタビューを入れ、
わかりやすいイラストとともに読みやすい本。彼がどう行動したかも緊張感あふれる内容だ。
まだ途中。

86年、チェルノブイリ事故。
旧ソ連は、すぐにバスを1200台用意、
真っ先に四万五千人を非難させた。人命第一の選択で、
民主意識が低いソ連でもこうだった。
300キロ離れた場所でも風の流れで汚染が大きいこともある。
ソ連の決断は、す早く健康を考えた方法と改めて感じた。

チェルノブイリは内陸。
日本、福島原発は海がすぐ。
海水に流れ込んでいる?など、原子炉内は今だに不明な事が多い。

子供の甲状腺癌の問題もあり、チェルノブイリでは年月が経過してから、
発病するケースがあるそう。
原発付近に関しては、まだまだ、先が長い。
100年先になるかもしれない。
原発専門学者、これから増えはしない気がした。

どうなるのだろう。
地震、災害が多い島国に原発。
初めから無謀だったという事実が、露呈された東日本大震災と思う。