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続;「膠観」

2013-09-27 17:42:54 | アルケ・ミスト
ⅩⅩ 276-277

以上がきわめて手短な理論の概略である。
もちろん、それはもっと多くの精緻化を必要とする。しかし私は一つの点をもう少し詳しく説明しょうと思う。

つまり、(第ⅩⅧ節のテーゼ(1)から(3)で)私が使った「問題」および「問題解決」という用語、とりわけわれわれは客観的または非心理学的意味において問題を語りうるという私の主張、についてである。

この点は重要である。
というのは、進化は明らかに意識的な過程ではないからである。

多くの生物学者は、ある種の器官の進化はある種の問題を解決するものだという。
たとえば眼の進化は、運動している動物に、堅固な物に衝突する前に方向を変えるよう時宜にかなった警告を与えるという問題を解決する。

この種の問題に対するこの種の解決が意識的に探求されたのだとは、誰も主張しない。しからば、問題解決について語るのは、まったく比喩ではあるまいか。


私はそうは考えない。
むしろ事態はこうである。われわれが問題について語る場合、われわれはほとんどつねに後知恵からそうしているのである。

問題に取り組んでいる人は、自分の問題が何であるかを(彼が解決を見出すまでは)はっきり述べることがほとんどできない。
また、たとえ彼が自分の問題を説明できるとしても、彼はそれを思い違いしうる。

このことは、科学者についてさえいえる。
科学者は自分たちの問題をはっきり自覚しようと意識的に試みる少数の人たちなのだけれども。
たとえば、ケプラーの意識的な問題は、世界秩序の調和を発見することであった。

しかし彼が解決した問題は、一組の二体惑星系における運動の数学的叙述であった、とわれわれはいうことができる。

同じように、シュレーディンガーは、彼が(時間から独立の)シュレーディンガー方程式を見出すことによって解決した問題について、思い違いしていた。
彼はシュレーディンガー波を、電荷の変化する連続的な場の電荷密度波であると考えた。
のちにマックス・ボルンはシュレーディンガー波振幅の統計的解釈---シュレーディンガーに衝撃を与え、彼が生きているあいだじゅう嫌った解釈---を与えた。

シュレーディンガーは一つの問題を解決した---しかしその問題は、彼が解決したと自分で考えた問題ではなかった。
このことをわれわれは今日、後知恵によって知っている。

しかし、われわれが解決しようと試みる問題について最も意識的であるのは、科学にあいてであることは明らかである。

それゆえ、他のケースにも後知恵を用い、アメーバはある問題を解決する(アメーバは何らかの意味においてその問題に気づいていると仮定する必要はないが)ということは、不適当ではないはずである。

アメーバからアインシュタインまでは、ほんの一歩にすぎない。


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