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続;「膠観」

2013-09-26 17:30:32 | アルケ・ミスト
ⅩⅨ  275-276
、pp
それぞれの有機体は柔軟制御の階層的体系---雲によって制御された雲の体系---とみなせる。制御された下位体系は制御する体系によって部分的に抑止され、部分的に制止される試行錯誤運動をする。

われわれはすでにこの実例を、言語の低次機能と高次機能とのあいだの関係において見た。
低次機能は存在し続け、その役割を演じ続ける。しかしそれらの機能は、より高次の機能によって拘束され、制御される。

別の特徴的な例は、次のようなものである。もし私が少しも動かずじっと静かに立っているとしても、(生理学者によると)私の筋肉はほとんどランダムな仕方で収縮し弛緩しながら絶えず働いており(前節のテーゼ(8)におけるTS1からTSnまでを参照)、しかも私が気づくことなく、私の姿勢からのきわめてわづかな偏奇をほとんどただちに正すために誤り排除(EE)によって制御されている。

それゆえ、自動操舵矯正器が航空機にその進路をしっかり保たせるのと多かれ少なかれ同じ方法で、私は静かに立ち続けているのである。

この実例はまた、前節のテーゼ(1)---それぞれの有機体は試行錯誤によって絶えず問題解決にたずさわっており、新旧の諸問題に多少とも偶然的な、または雲様な、(不成功であれば排除される)試行によって反応している、というテーゼ---を例証する。

55)試行と誤り排除の方法は(しばしばいわれてきたような)完全に偶然的またはランダムな試行でもやっていくものではない。たとえ試行がかなりランダムであるように見えるとしても、である。そこには(私の「科学的発見の論理」の162頁〔訳書202頁〕以下での意味における)〔ある選択が次の選択に影響を及ぼすという〕「余效」(after-effect)が少なくともあるはずである。それというのも、不断にみずからの誤りから学んでいるからである。つまり、それはある可能な試行(それはおそらく有機体の進化的過去における現実的試行であったろう)を抑止しまたは排除し、あるいは少なくとも頻度を減少させる制御を確立するからである。

(もし成功的であれば、そのようにして達成された解決を「模試」する変異の残存する確率は高まり、その解決を新しい有機体の空間的構造または形態に取り込むことによって、それを遺伝的なものにさせていく)。

56)これは現在ではしばしば「ボールドウィン効果」と呼ばれる。たとえばG.G.Simpson、‘The Baldwin Effect、’Evolution、7、1953、pp.110ff.、C.H.Waddington、the same volume、pp.118f.(especially p.124)、and pp.386f.を参照。またJ.Mark Baldwin、Development and Evolution、1902、pp.174ff.and H.S.Jennings、The Behaviour of the Lower Qrganismus、1906、pp.321ff、をも見られたい。


続;「膠観」

2013-09-25 16:54:38 | アルケ・ミスト
7) 問題を‘P’で暫定的解決を‘TS’で、誤り排除を‘EE’で表わすと、われわれは事態の基本的な進化系列を次のように叙述できる。

  P→TS→EE→P
  しかし、この系列は円環ない。第二の問題は、一般に、第一の問題とは異なる。それは、部分的には、試みられた暫定的解決とそれらを制御する誤り排除のゆえに生じきたった新しい問題状況の結果である。
このことを表わすために、上の図式は次のように書き改めらるべきである。
     P1→TS→EE→P2




8)しかしこの形でさえ、まだ重要な要素が抜け落ちている。暫定的解決の多数性と試行の多様性とがそれである。それゆえ、われわれの最終の図式は次のようなものとなる。(背景知識)

                  P1→TS1→EE→P2
                  P1→TS2→EE→P2
                  P1→TS3→EE→P2
                  P1→TS4→EE→P2

                     ・
                  P1→TSn→EE→P2 
9)この形において、われわれの図式は新ダーウィン主義の図式と比較できる。
新ダーウィン主義によれば、主として一つの問題がある。つまり生存(生き残り)の問題である。
そこには、われわれの体系におけるごとく、暫定的解決---変異または突然変異---の多様性がある。しかしそこには、ただ一つの誤り排除の方法しかない。
有機体を殺すことがそれである。そして(部分的にはこの理由のために)P1とP2とが本質的に異なるものであるという事実が見落とされて、あるいはその相違の基本的重要性が十分明確に理解されない。

10) われわれの体系においては、すべての問題が生存問題というわけではない。そこには多くの非常に特殊な問題と副次的問題とがある(最初期の問題はまったく生存問題であったかもしれないにしても)。たとえば、初期の問題P1は再生産であるかもしれない。その解決は新しい問題P2つまり子孫---親の有機体だけでなくお互いの息の根を止めるおそれのある子供たち---を除去する、あるいは散布する問題、に導くかもしれない。

53) 新しい、問題状況の発生は、有機体の「生態学的棲所」または有意義な環境の変化または分化として叙述できよう。(それはおそらく「住地選択」と呼びうるであろう。B.Lutz、Evolution、2、1948、pp.29ff.を参照)。有機体またはその習慣またはその住地のいかなる変化も新しい問題を生み出すという事実は、(つねに暫定的な)解決の信じられぬほどの豊富さを説明する。

自分の子孫によって抹殺されるのを回避する問題が多細胞有機体の進化によって解決された問題の一つでありうることに注意することが重要である。自分の子孫を除去する代わりに、さまざまな新しい共同生活の方法をもった共同経済が確立される。

11) ここに提示した理論はP1とP2とを区別し、有機体が解決しようと取り組んだいる諸問題(または問題状況)がしばしば新しい ものである、それ自体が進化の産物として生じることを示している。このことによってその理論は、通常「創造的進化」とか創発的進化といったいささか疑わしい名称で呼ばれてきたことの合理的説明を、暗にそれとなく与えている。

54) 「創発的進化」についてのコンプトンの論評に言及した注23を見られたい。


12) われわれの図式は、誤り排除制御(眼のような警告器官、フィードバック・メカニズム)---つまり有機体を殺すことなく誤りを排除しうる制御---の発達を許す。そして究極的には、われわれの代わりにわれわれの仮説を死なせることを可能にする。





                   

続;「膠観」

2013-09-24 17:28:13 | アルケ・ミスト
私の理論は、われわれが動物言語から人間言語への進化を分析したときに学んだことを進化の全体に適用する試みだといえる。そしてそれは、柔軟制御の増大していく階層的体系としてのある種の進化観、およびこの柔軟制御の増大していく階層的体系を取り入れて具現していく----人間の場合には身体外的に発展させていく---ものとしてのある種の有機体観から成り立っている。

新ダーウィン主義的進化理論が仮定される。しかし、その理論における「変異」は多少とも偶然的な試行錯誤の打ち始め手として、また「自然淘汰」は誤り排除によるそれらの打ち手を制御する一つの方法として、解釈できるということを指摘することによって、この進化理論が再言明される。

私はこれからその理論を12の短いテーゼのかたちで述べることにする。

1) すべての有機体は絶えず、昼も夜も、問題解決にたづさわっている。それら有機体の進化論的系列---最も原始的な形態から始まり、現在生きている有機体をその最近のメンバーとするところの---がそうである。
2) それらの問題は、客観的意味における問題である。それらの問題は、いわば後知恵によって仮説的に再構築できる。(この点についてはあとでもっと詳しく述べる)。この意味における客観的問題は、その意識的対応物をもつ必要はない。そしてこれらの問題が意識的対応物をもつ場合は、その意識的問題は客観的問題と一致する必要はない。
3) 問題解決はつねに試行錯誤の方法によって進む。新しい反応、新しい形態、新しい器官、新しい行動様式、新しい仮説が暫定的に打ち出され、誤り排除によって制御される。
4) 誤りの排除は、不成功な諸形態の完全な排除(自然淘汰による不成功な形態の絶滅)によってか、さもなければ不成功な器官または行動形態または仮説を修正または削除する制御の(暫定的)進化によって進められる。

5) 個々の有機体は、その門が進化するあいだに発展させた諸制御を、一つの身体のなかにいわばはめ込ませる---その個体発生的発達、その系統発生的進化において部分的に制限されるように。

52) 「はめ込み」という考え(私はこの言葉だけでなく多くのことをアラン・ムスグレイッヴに負っている)は、おそらくチャールズ・ダーウィンの「種の起源」1859年の第6章に見出せる(私の引用はメントール・ブック版の180頁からのもの):「すべての高度に発達した有機体は、多くの変化を経てきた。そして・・・それぞれの変容された構造は受け継がれる傾向があるので、各変容は・・・・まったく失われることはないであろう。・・・したがって〔有機体の〕各部分の構造は・・・種が経てきた多くの遺伝された変化の総和である・・・」。E.Baldwin、Perspectives in Biochemistry、pp.99ff.、およびそこで引用された文献も参照されたい。

6) 個々の有機体は、それが属する(その門の)有機体の進化的系列の一種の尖兵である。新しい環境的棲所を調べ、環境を選び、変容することは、それ自体が一つの暫定的解決である。
こうしてそれは、個々の有機体の行為(行動)がこの有機体に関係づけられるのとほとんどまったく同じように、その門に関係づけられる。
個々の有機体とその行動はいずれも試行であり、それらの試行は誤りに排除によって排除される。


続;「膠観」

2013-09-23 19:37:16 | アルケ・ミスト
ⅩⅧ  271-275

私の一般理論を私は多くの弁明と共に提出する。

私がこの理論を十分つきつめて考え、自分自身に納得させるまでには、長い時間がかかった。
私は今でもまだ、この理論を決して満足なものとは思っていない。

このことは、部分的には、この理論が進化理論であるということ、新しい強調点を除いては従来の進化理論とごくわずかなものしか加えていない理論だという事実からきている。

私は告白しなければならないのを恥ずかしく思う。
それというのも、若かりし頃、私は進化論的哲学について非常に軽蔑的なことをいうのがつねだったからである。

22年前、キャノン・チャールズ・E・レヴァンがその著書「科学・宗教・未来」において、ダーウィン主義論争を「ヴィクトリア時代の茶碗のなかの嵐」と呼んだとき、私はこれに賛成したが、しかし「その茶碗から今なお立ちのぼっている蒸気」---つまり進化論的哲学(特に、進化の峻厳な法則が存在すると説く哲学)の熱気に---余りにも多くの注意を払っている点で彼を批判した。しかし私は、屈辱を甘んじて受けなければならないのだ。


51) 私の「歴史法則主義の貧困」の106頁の注1〔訳書160頁〕参照。 

進化論的哲学をまったく別にして、進化論的理論にまつわるやっかごとは、その同語反復な、あるいはほとんど同語反復的な、性格である。
つまりその難点は、ダーウィン主義と自然淘汰とが、きわめて重要なものなのだが、進化を「最適者の生存」(ハーバート・スペンサーに由来する用語※によって説明することである。


※ダーウィンの「種の起源」---くわしくは「自然淘汰による、もしくは生存競争において恵まれた品種が保存されることによる、種の起源」----が出版されるのは1859年であるが、それに先立つこと9年前、スペンサーは1850年に公刊した処女作「社会静学」において、生物体の外部環境への適応過程には「厳しい自然の規律」(stern discipline of nature)がはたらき、不適者を排除し、環境条件の要求する諸能力をよりよく身につけたものだけを「最適者として生き残す」(the survival of the fittest)ことによって、全体としての生活を低次の段階から高次の段階へとおのずから進化させる、と説いた。「種の起源」の出版後、スペンサーはそれまで使っていた「自然の規律」という用語をやめて「自然淘汰」を用いるようになる。


だが、「生き残るものは最適者である」と同語反復「生き残るものは生き残るものである」とのあいだには、よしあしあったとしても、大きな差があるとは思われない。

なぜなら、現実の生き残り以外には適正のいかなる判定基準もわれわれはもたず、それゆえある有機体が生き残ってきたという事実からわれわれは彼らが最善者であったと、あるいは生活諸条件に最もよく適合したものであったと、結論するのである。

このことは、ダーウィン主義が、非常に大きな長所をそなえてはいるものの、決して完全な理論を意味しないことを示すものである。
あいまいさをより少なくさせるように言明しなおす必要がある。

私がここに略述しようとする進化論的理論は、このような再言明の試みである。




続;「膠観」

2013-09-22 13:27:05 | アルケ・ミスト
ⅩⅦ 270-271

いまや私は、われわれの第一の主要問題、つまり意味が行動に及ぼす影響についてのコンプトンの問題に対し、解決を与えることができる。それはこうである。

言語のより高次の次元は、二つの事柄---われわれの言語のより低次の次元と、われわれの環境への適応---よりよく制御する必要の圧力のもとで、新しい道具のみならず、たとえば新しい科学的理論や新しい選択規準を発展させる方法によって進化したものである。

ところで、その高次機能の発展において、われわれの言語は抽象的意味と内容をも発展させた。
つまりわれわれは、理論を定式化し表現する様式を抽象化し、(理論の真理性を左右する)その不変の内容または意味に注意を払うすべを学んだ。

このことは、理論や他の叙述的言明についてだけでなく、提案や目的、あるいは批判的議論にかけることのできる他のいかなるものについても成り立つ。

私が「コンプトンの問題」と呼んだものは、われわれの理論や目的---ある場合にはわれわれが熟慮と討論ののちに採用したかもしてない目的---の内容のもつ統率力を説明し、理解する問題であった。
しかしこの問題は、今ではもはや問題ではない。
それらがわれわれに及ぼす影響力は、これらの内容と意味の本質部分である。けだし、内容と意味の機能の一部は、制御することができるからである。

コンプトンの問題のこの解決は、コンプトンの制限づけ要請と一致する。

なぜなら、われわれの理論と目的とによるわれわれ自身とわれわれの行動の制御は、柔軟制御だからである。
われわれはわれわれ自身とわれわれの理論に無理やり服させるのではない。
われわれは理論を批判的に討論でき、もしそれらがわれわれの規制基準に達していないならば、われわれは自由にそれらを拒否できるかれである。それゆえ制御は決して一方的なものではない。

われわれの理論がわれわれを制御するだけでなく、われわれがわれわれの理論を(そしてわれわれの基準さえを)制御できる。
そこに一種のフィードバックがある。また、もしわれわれが理論に服するとしても、われわれは熟慮ののちに、つまり代替的諸理論を批判的に討論したのちに、そしてその批判的議論の光に照らして競合的な諸理論のうちからいずれかを自由に選択したのちに、自由にそうするのである。

私はこれをコンプトンの問題に対する私の解決として提出する。そしてデカルトの問題の解決に進む前に、私の解決のなかですでに陰伏的に用いられた進化のより一般的な理論を手短に概説しようと思う。


続;「膠観」

2013-09-21 17:39:15 | アルケ・ミスト
ⅩⅥ  269-270

より高次の機能と次元はより低次のそれとどのように関係づけられるのか。

すでに見てきたように、高次の機能は低次のそれにとって代わるものではなく、それらに対する一種の柔軟規制---フェードバックをそなえた制御---を確立する。

科学的会議における討論を例にとろう。

それは心をわくわくさせる興奮的で楽しいものかもしれず、そのような表出や徴候を惹起するかもしれない。そしてこれらの表出は翻って他の参加者に同じような徴候を誘発するかもしれない。

しかし、ある点まではこれらの徴候や誘発信号がその討論の科学的内容に由来し、またそれによって制御されることは疑いない。

そしてこれらは叙述的ならびに論証的性質のものであるから、低次機能は高次機能によって制御されるであろう。

さらに巧みな冗談や愉快なにやにや笑いは短期的には低次機能を勝たせるであろうが、長い目で見て重きをなすのはすぐれた論証---妥当な論処---であり、それが確立または反駁する中味である。

いいかえると、われわれの討論は真理と妥当性の規制的概念によって、柔軟的にだが、制御される。

これらすべてのことは、印刷と出版の新しい次元の発見と発展によって、特にそれらが科学的理論や仮説、それらを批判的に討論する論文を印刷して公刊するために用いられる場合に、強化される。

私はここで批判的議論の重要性の問題について十分論述することができない。この論題については私はかなり広範にわたって書いたことがあるので、ここで改めて取り上げることをしない。

㊿ 先の注49、および私の著書「開いた社会とその敵」、第24章と第2巻(第4版、1962年)、への「追録」、および「推測と反駁」、特に序文と序章を参照されたい。

ただ、批判的議論が制御の手段であることを、私は強調しておきたい。

批判的論議は誤りを排除する手段であり、淘汰の手段である。われわれはさまざまな競合的な理論や仮説を、いわば試験気球として、暫定的に提出することによって、われわれの問題を解決する

それゆえ私が叙述しようと努めてきた言語の高次機能の進化は、新しい種類の試行による。また誤り排除の新しい手段の進化としての特徴づけることができる。


続;「膠観」

2013-09-20 17:42:45 | アルケ・ミスト
ⅩⅤ  269-269


人間と共に、そして人間の合理性と共に発生し進化してきた言語の新しい機能とは別に、われわれはほとんど同等の重要性をもった別の区別、つまり器官の進化と道具または機械の進化との区別---「エレホーン」(1872年)の著者であるイギリスの最も偉大な哲学者の一人、サミュエル・バトラーの功績とされるべき区別---を検討しなければならない。

動物の進化は、もっぱらではないけれども主として諸器官(または行動)の変容または新しい器官(もしくは行動)の発生によって進む。
人間の進化は、主として、われわれの身体または人の外部に新しい器官を発展させることによって進む。

生物学者がいうように「身体外的に」、または「人のそとに」。これらの新しい器官は、もろもろの道具、または武器、または機械、または家である。

この身体外的発展の初歩的な端緒は、もろもろの動物のうちにも見出せる。
野獣の穴づくりや巣づくりは、初期の業績である。
ビーバーが非常に巧妙なダムを作ることを思い出せよう。
しかし人間は眼や耳をより良くさせる代わりに、自動車をますます早くさせる。

しかし私がここで関心をもつ身体外的進化は、次のものである。

記憶や頭脳をより良くさせる代わりに、われわれは紙、ペン、鉛筆、タイプライター、デイクタホーン、印刷機、図書館を増大させる。

これらのものはわれわれの言語に---とりわけその叙述的ならびに論証的機能に---新しい次元といいうるものを付け加える。(主としてわれわれの論証的能力を援助するために用いられる)最近の発展は、コンピューターの成長である。


続;「膠観」

2013-09-19 14:00:39 | アルケ・ミスト
それというのも、人間言語はずっと豊富だからである。
それは動物言語がもたない多くの機能と次元とをもっている。これら新しい機能のうちで二つのものが、推理と合理性の進化にとって最も重要である。

すなわち、叙述的機能論証的機能とがそれである。

叙述的機能の例として、私は今あなた方に、二日前にモクレンの花が私の庭にどのように咲いたか、そして雪が降り始めたときどんなことが起こったかを叙述できるであろう。
これによって私は自分の感情を表出し、またあなた方にある感情を誘発できるえあろう。
あなた方はおそらくあなた方のモクレンの木に思いをはせることによって反応するかもしれない。

それゆえ二つの低次機能は存在するであろう。
しかしこれらすべてのことに加えて、私はあなた方にある事実を叙述したはずである。私はある叙述的言明をしたはずであり、私はこれらの言明は事実にであるか、あるいは事実的にであろう。

私が話すときはいつでも、私は自分を表出せざるをえない。
そしてもしあなた方が私に聞き入るならば、あなた方は反応せざるをえない。

それゆえ低次機能はつねに存在する。
叙述的機能は存在する必要はない。というのは、私は何らかの事実を叙述することなくあなた方に話しかけられるからである。
たとえば、不安---あなた方がこの長時間の講演を最後まで聞くであろうかという疑念---の表示あるいは表出において、私は何事かを叙述する必要がない。
しかし、われわれが理論または仮説のかたちで定式化する叙述は、推測された事態の叙述をも含めて、明らかに人間言語のきわめて重要な機能である。
そしてそれは、人間言語をさまざまな動物言語から最もはっきりと区別するところの機能である(ミツバチの言語にはそれに近いものがあるようにみえるけれども)。

㊽ 前注におけるフリッシュとリンダウアーの書物を参照。

もちろん、それは科学にとって欠かすことのできない機能である。

この探査において挙げられるべき四つの機能のうちで最後の、そして最高次の機能は、言語の最高発展形態において、つまりよく規律のとれた批判的討論において働いているのを認めうるように、言語の論証的機能である

言語の論証的機能は、私がここで論じている四つの機能のうちで最高のものであるばかりでなく、それらの機能の進化において最新のものである。

その進化は、論証的、批判的、合理的態度の進化と密接に結びついたものであった。
そしてこの態度は科学的の進化にと導いたので、言語の論処的機能は、かつて有機進化の過程において生じた生物学的適応にとっての最も有力な道具を生み出した、といえるであろう。

他の機能と同じように、批判的論証の技術は試行と誤り排除の方法によって発展したものであり、合理的に考える人間的能力に最も決定的な影響を及ぼした。(形式論理学そのものは「批判的論証の道具」だといえる。)

㊾ 私の著書「推測と反駁」第1章、特に「合理的批判の道具」としての形式論理学についての64頁の指摘を参照。また第8章まで、および第15章も見られたい。

言語の叙述的使用と同じように、論証的使用は規制の理念的規準の、あるいは(カント的用語を使えば)「規制的観念」の、進化へと導いた。

言語の論証的使用の主なる規制観念は(偽と区別されるものとしての)真理であり、言語の論証的使用の規制的観念は(非妥当性とは区別されるものとしての)妥当性である。

論証は、通常、ある命題または叙述言明に対しておこなわれる。

われわれの第四の機能---論証的機能---が叙述的機能よりものちに生じなければならなかった理由がここにある。

たとえもし理事会において、大学はある種の支出を是認すべきでない、われわれはそれを提供できないから、あるいはもっと有効な金の使いみちがあるから、と私が論じとしても、私は提案に対して論じているだけでなく、ある命題に対して---たとえば提案された用途は有益でないだろうという命題に賛成して、そして提案された用途は有益であろうという命題に反対して---論じているのである。


それゆえ論証は、提案についての議論でさえ、通常、命題に、そしてきわめてしばしば叙述的命題に、関するものである。

しかし言語の論証的使用は、言語の叙述的使用からはっきり区別できる。
私は議論することなく叙述できるからである。つまり、私の叙述の真理性に対して賛成または反対の理由を与えることなく、私は叙述できる。

言語の四つの機能---表出的、信号的、叙述的、論証的機能--についてのわれわれの分析は、次のように要約できよう。
二つの低次機能---表出的および信号的機能---は、より高次の機能が存在するときにはつねに存在することを認めなければならないが、それにもかかあわらずわれわれはより高次の機能をより低次の機能から区別しなければならない。

しかし多くの行動主義者や哲学者は、高次の諸機能を無視してきた。それというのも、高次機能がある場合でもない場合でも、低次機能はつねに存在するからである。








続;「膠観」

2013-09-18 06:45:49 | アルケ・ミスト
ⅩⅣ  265-69

さて、われわれの第一の問題---つまり行動に及ぼす意味の影響についてのコンプトンの問題--に、動物言語から人間言語への言語の進化について若干のコメントを加えるというやり方で接近しよう。

動物言語と人間言語は多くのことを共通にしているが、そこにはまた、さまざまな相違もある。周知のように、人間言語は動物言語をいっささかこえている。

私の先生であった故カール・ビューラー〔1879-1963〕の考えを用いて、また拡大することによって、私は動物言語と人間言語が共有している二つの機能と、人間言語だけがもっている二つの機能とを区別しようと思う。

㊼ 言語の機能はKarl Buhker(The Mental Development of the Child、1919、English translation 1930、pp.55,56,57〔「幼児の精神構造発達」、原田茂訳、協同出版、1966年〕;Sprachtheorie、1934)に負うている。私は彼の三機能に論証的機能(および奨励的機能や説得的機能といった、ここでは何ら重要な役割を演じない他のいくつかの機能)を加えた。たとえば「推論と反駁」における私の論文「言語と身心問題」295頁、注2とその本文を参照。(134頁以下も見られたい)。動物、特にミツバチにある種の叙述的言語への移行段階が存在することは、ありえないことではない。K.von Frisch、Bees;Their Vision、Chemical Senses、and Language、1950〔フリッシュ、内田享訳「ミツバチの不思議」、法政大学出版局、1970年〕;The Dancing Bees、1955;M.Lindauer、Communication Among Social Bees、1961を参照。

いいかえると、二つの低次機能と、その低次機能のうえに進化した二つの高次機能との区別である。

言語の二つの低次機能は、次のごときものである。
第一に、言語は、すべての他の形態の行動と同じように、徴候または表出から成り立っている。それは言語的な合図をする有機体の状態の徴候または表出である。ビューラーにならって、私はこれを言語の徴候または表出的機能と呼ぶ。

第二に、言語またはコミュニケーションが生じるためには、合図をする有機体または「送り手」だけでなく、反応する有機体、つまり「受けて」がなければならない。
第一の有機体、つまり送り手の徴候的表出が、第二の有機体に反応を解発または惹起または刺激または誘発し、第二の有機体が送り手の行動に反応して、それが一つの信号になる。受け手に対して作用する言語のこの機能は、ビューラーによって言語の解発的または信号的機能と呼ばれた。


一例を挙げると、一羽の鳥が飛び去る用意をし、これをある種の徴候を示すことによって表出する。これらの徴候は第二の鳥にある種の反応を解発または誘発しえ、その結果、第二の鳥も飛び去る用意をするかもしれない。

表出的機能と触発的機能との二つの機能が別のものであることに注意されたい。というのは、第一の事例は第二の鳥の事例がなくても起こりうるけれども、その逆は起こらないからである。
ある鳥はその行動によって、他の鳥に影響を与えることなく、飛び去る用意ができていることを表出しうる。それゆえ第一の機能は第二の機能なしにも起こりうるのであって、このことは、言語によるコミュニケーションのいかなるまっとうな事例においても二つの機能がつねに一緒に生じるという事実にもかかわらず、両機能を分離させうることを示すものである。

これら二つの低次機能、一方における徴候的または表出的機能と、他方における解発的または信号的機能とは、動物および人間の言語に共通である。
そしてこれらの二つの低次機能は、(人間的言語の特徴的な)何らかの高次機能が存在する場合には、つねに存在する。

続;「膠観」

2013-09-17 06:24:27 | アルケ・ミスト
そして私はまた、いうまでもなく、即時決定が生じることを認める。
しかしそれらの即時決定は、コンプトンが念頭にしていたような種類の決定とは、いちじるしく異なっている。

つまり、それらの即時決定はほとんど反射と同じようなものであり、それゆえ意味の世界がわれわれの行動に及ぼす影響についてのコンプトンの問題の状況とも、またコンプトンの自由の要請とも(また「柔軟」規制の考えとも)一致しない。

これらすべてに一致する決定は、通常、長い熟慮をつうじてほとんど気づかないうちに達せられる。
それらは、マスター・スイッチ・モデルによってはうまく表現できない一種の成熟過程によって達せられる。

この熟慮の過程を検討することによって、われわれは新しい理論の別のヒントを手に入れることができる。
それというのも、熟慮はつねに試行錯誤によって、より正確にいえば試行と誤り排除の方法によって、つまりさまざまな可能性を暫定的に提出し、適切と思われぬものを排除することによって活動するからである。

このことは、われわれの新しい理論において試行と誤り排除のあるメカニズムをわれわれが用いうることを示唆する。

され、これから私がどのように議論を進めていこうとしているか概略的に述べておこう。

私の進化理論を一般的な用語で定式化する前に、それが特殊なケースにおいてどのように働くかを、われわれの第一の問題、つまり行動に及ぼす意味の影響についてのコンプトンの問題にそれを適用することによって、示そうと思う。

このようにしてコンプトンの問題を解決したあとで、私はその理論を一般的な仕方で定式化するであろう。
そうすると、それがまた---新しい問題状況を生み出すわれわれの新しい理論の枠内で---デカルトの身心問題に対する率直でほとんど顛末な解答を含んでいることが見出されるであろう。