其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

九州探題

2006-09-24 14:50:26 | 歴史
西鉄五条駅近く県営病院があり、この敷地一帯が九州探題の城址だろうと思われます。
今川貞世は足利義満から命じられ、九州探題として赴任しました。かれの業績は歴代探題に比べて甚だよかったのですが、讒言に加え、中央政局の変化により、応永二年、二十五年に亘る職を解かれ、京都に召還されました。そして残余の人生を、和歌連歌の指導と述作活動捧げたそうです。
九州中世の政治状況は、北朝南朝敵味方入り乱れての混沌状態、親子兄弟ですら足の引っ張り合っていたようです。この時代の武士道とか忠孝の道などどのようなものだったのでしょうか。武士道は、侍がサラリーマン的になってから、出来上がった道徳じゃないかと思います。織田信長に滅ぼされた今川氏の子孫は、江戸時代高家となったそうです。
太宰府市内は遺跡調査で処々掘り返されていますが、病院敷地では手が付けられないのでしょう。しかし、筑前国続風土記附録の記載もあることから、ほぼ間違いないと推測します。