宮部継潤(みやべけいじゅん)
<現代仮名遣い>みやべけいじゅん
※下線部は信長公記以外の記事によります。
善祥坊。近江宮部の住人。
天文年間1532~1555年比叡山の僧となるが、のち
浅井長政に仕える。浅井氏の守将として織田信長に
対抗するが、1571年秀吉の誘いに応じ信長に降伏。
三千石を領した。
1572年信長浅井攻めの時、信長方として宮部の取
手に入る。
1581年10月鳥取城を攻め落とした羽柴秀吉は、宮部
継潤を城代としていれておく。
1587年九州征伐に従軍。日向高城で島津家久の率い
る大軍を撃退。また、のち豊後の太閤蔵入地の代官
をつとめる。
1594年伏見城の普請工事を分担。
1596年隠居して家督を子長熙に譲る。
晩年は秀吉の御咄衆の一人に加えられ、1599年3月死去。
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善祥坊。近江宮部の住人。
天文年間1532~1555年比叡山の僧となるが、のち
浅井長政に仕える。浅井氏の守将として織田信長に
対抗するが、1571年秀吉の誘いに応じ信長に降伏。
三千石を領した。
1572年信長浅井攻めの時、信長方として宮部の取
手に入る。
1581年10月鳥取城を攻め落とした羽柴秀吉は、宮部
継潤を城代としていれておく。
1587年九州征伐に従軍。日向高城で島津家久の率い
る大軍を撃退。また、のち豊後の太閤蔵入地の代官
をつとめる。
1594年伏見城の普請工事を分担。
1596年隠居して家督を子長熙に譲る。
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