<初出:2007年の再掲です>
巻二の九 前田利家赦免されること
永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、
織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首
二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。
実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利
家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を
蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で
利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。
直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、
信長の勘気は解けていなかった。
織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社
の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)
越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢
入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところか
ら尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教
の家系」であり、しかも熱田神宮と草薙剣を守るこ
とで朝家の手助けをしているという自負心と誇りを
持った「誇り高き」家系である。また織田弾正忠家
の宗旨をみても、信長の父信秀を含め禅宗の家系で
あり、「敬虔な禅宗信者」なのである。その信長の
同朋衆を斬るということは、仏教用語でいうところ
の『五逆罪』の一つであり、天地が裂けても許され
ざる行為である。信長自身、かなり安全を見て政策
を決める傾向があり、また性急な行動を避ける性格
でもある。例えば二年前永禄二年(一五五九)の岩
倉城攻撃時、城を鹿垣で囲い番人を置き包囲、その
後二~三ヶ月火矢・鉄炮を打ち込むなど、はたから
見ればのんびりしたものである。「もっと力攻めすれ
ばすぐに勝てるのに!」という家臣がいくらいても
信長はすましたもの。敵が音を上げるまでじっくり
と待ち、外から真綿でじわじわと締め上げていくよ
うなやり方を取る。ようするに一度決めた戦略や方
針を頭の中で変えるには時間のかかる性格といった
ほうが良いだろうか?当然又左衛門が何度許しを乞
いに来ようが、信長は当分許す気が無い。かつまた
この頃の又左は身の丈六尺に届かずヒョロヒョロし
ていた上口がうまく、桶狭間のときも信頼できる筋
から『利家は落ちた首を拾った』と聞いていたので、
信長に許す気はさらさらなかったのであった。ただ
まあ今回は自分の目の届く範囲で実際に活躍してい
たし、丹羽五郎左衛門長秀のとりなしと荒子城の兄
前田利久の懇願もあり、「よきに計らえ」と長秀に
命じておいた。信長本人は許していないが利家は織
田家に復帰という、玉虫色の結論であった。
その後幸か不幸か信長・長秀・勝家が決めたとお
り、他国から攻められることも無く他国を攻めるこ
とも無く、永禄四年秋の収穫も順調にあがり、米相
場も松井友閑・木下藤吉郎と丹羽長秀が制御してく
れているので、いつどれだけ今年の米収穫高を売り
飛ばすかだけが課題となっている。が、ここに別の
問題が発生していた。丹羽五郎左衛門長秀が心配し
ていた通り『三河の大たわけの殿』がわけのわから
ない不規則な動きに出ていたのである。
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巻二の九 前田利家赦免されること
永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、
織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首
二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。
実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利
家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を
蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で
利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。
直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、
信長の勘気は解けていなかった。
織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社
の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)
越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢
入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところか
ら尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教
の家系」であり、しかも熱田神宮と草薙剣を守るこ
とで朝家の手助けをしているという自負心と誇りを
持った「誇り高き」家系である。また織田弾正忠家
の宗旨をみても、信長の父信秀を含め禅宗の家系で
あり、「敬虔な禅宗信者」なのである。その信長の
同朋衆を斬るということは、仏教用語でいうところ
の『五逆罪』の一つであり、天地が裂けても許され
ざる行為である。信長自身、かなり安全を見て政策
を決める傾向があり、また性急な行動を避ける性格
でもある。例えば二年前永禄二年(一五五九)の岩
倉城攻撃時、城を鹿垣で囲い番人を置き包囲、その
後二~三ヶ月火矢・鉄炮を打ち込むなど、はたから
見ればのんびりしたものである。「もっと力攻めすれ
ばすぐに勝てるのに!」という家臣がいくらいても
信長はすましたもの。敵が音を上げるまでじっくり
と待ち、外から真綿でじわじわと締め上げていくよ
うなやり方を取る。ようするに一度決めた戦略や方
針を頭の中で変えるには時間のかかる性格といった
ほうが良いだろうか?当然又左衛門が何度許しを乞
いに来ようが、信長は当分許す気が無い。かつまた
この頃の又左は身の丈六尺に届かずヒョロヒョロし
ていた上口がうまく、桶狭間のときも信頼できる筋
から『利家は落ちた首を拾った』と聞いていたので、
信長に許す気はさらさらなかったのであった。ただ
まあ今回は自分の目の届く範囲で実際に活躍してい
たし、丹羽五郎左衛門長秀のとりなしと荒子城の兄
前田利久の懇願もあり、「よきに計らえ」と長秀に
命じておいた。信長本人は許していないが利家は織
田家に復帰という、玉虫色の結論であった。
その後幸か不幸か信長・長秀・勝家が決めたとお
り、他国から攻められることも無く他国を攻めるこ
とも無く、永禄四年秋の収穫も順調にあがり、米相
場も松井友閑・木下藤吉郎と丹羽長秀が制御してく
れているので、いつどれだけ今年の米収穫高を売り
飛ばすかだけが課題となっている。が、ここに別の
問題が発生していた。丹羽五郎左衛門長秀が心配し
ていた通り『三河の大たわけの殿』がわけのわから
ない不規則な動きに出ていたのである。
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