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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の九 前田利家赦免されること

2025-05-04 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の九 前田利家赦免されること

 永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、

織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首

二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。

実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利

家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を

蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で

利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。

直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、

信長の勘気は解けていなかった。

 織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社

の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)

越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢

入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところか

ら尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教

の家系」であり、しかも熱田神宮と草薙剣を守るこ

とで朝家の手助けをしているという自負心と誇りを

持った「誇り高き」家系である。また織田弾正忠家

の宗旨をみても、信長の父信秀を含め禅宗の家系で

あり、「敬虔な禅宗信者」なのである。その信長の

同朋衆を斬るということは、仏教用語でいうところ

の『五逆罪』の一つであり、天地が裂けても許され

ざる行為である。信長自身、かなり安全を見て政策

を決める傾向があり、また性急な行動を避ける性格

でもある。例えば二年前永禄二年(一五五九)の岩

倉城攻撃時、城を鹿垣で囲い番人を置き包囲、その

後二~三ヶ月火矢・鉄炮を打ち込むなど、はたから

見ればのんびりしたものである。「もっと力攻めすれ

ばすぐに勝てるのに!」という家臣がいくらいても

信長はすましたもの。敵が音を上げるまでじっくり

と待ち、外から真綿でじわじわと締め上げていくよ

うなやり方を取る。ようするに一度決めた戦略や方

針を頭の中で変えるには時間のかかる性格といった

ほうが良いだろうか?当然又左衛門が何度許しを乞

いに来ようが、信長は当分許す気が無い。かつまた

この頃の又左は身の丈六尺に届かずヒョロヒョロし

ていた上口がうまく、桶狭間のときも信頼できる筋

から『利家は落ちた首を拾った』と聞いていたので、

信長に許す気はさらさらなかったのであった。ただ

まあ今回は自分の目の届く範囲で実際に活躍してい

たし、丹羽五郎左衛門長秀のとりなしと荒子城の兄

前田利久の懇願もあり、「よきに計らえ」と長秀に

命じておいた。信長本人は許していないが利家は織

田家に復帰という、玉虫色の結論であった。

 その後幸か不幸か信長・長秀・勝家が決めたとお

り、他国から攻められることも無く他国を攻めるこ

とも無く、永禄四年秋の収穫も順調にあがり、米相

場も松井友閑・木下藤吉郎と丹羽長秀が制御してく

れているので、いつどれだけ今年の米収穫高を売り

飛ばすかだけが課題となっている。が、ここに別の

問題が発生していた。丹羽五郎左衛門長秀が心配し

ていた通り『三河の大たわけの殿』がわけのわから

ない不規則な動きに出ていたのである。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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