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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:36織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正七年正月十二日

2020-06-16 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


36織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正七年

正月十二日

 先だって下石(おろし)彦右衛門尉(頼重)が

(藤孝殿と)その方のもとへ訪れたおり、雁を(頼

重へのみやげに)遣わしたことを、礼儀として(我

が方に)わざわざ申し越してきたのを聞き、悦ば

しい限りである。そちらの(丹後・丹波)方面につ

いて父子で在所に詰める番を交替しているのは

しかるべきことである。なおもって、油断なく(手

勢に軍の)全般のことについて申付けを専一に

行うこと。永い間ご苦労であるが。今度見参され

ることがあれば、直接自分から口上を述べたい。

天正七年正月十二日 信長(黒印)

 長岡与一郎(忠興)とのへ

   ※天正七年=1579年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)正月十二日付けで、長岡藤

孝・忠興の父子に別々の黒印状を発行するとは

信長公も芸が細かい!また「下石(おろし)頼重

が来た時に雁をみやげに持たしたのはいいん

じゃない!」と十五歳の少年を褒めるなど、なか

なか殿の気配り素晴らしいです。

以上

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